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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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夏の奮闘

「今日も散々だったよ・・・・・・」

溜息とともに、ぼそりと言葉が出た。身体の中が情けなさだけで満たされている。血管の中にはヘモグロビンのかわりに情けなさを運ぶ赤血球がせっせと精を出して全身にくまなくそれを運んでいる。これまでの人生で、こんな思いをするのは初めてだと思った。これまでは、知恵を絞って工夫をすれば何とかなった。一年半年勤めた貿易会社でもそうだった。貨物を運ぶ船の船長達は、気が荒く時には高圧的に大介に交渉を迫ったが、その都度会社に持ち帰り、上司に諮って“作戦”を練って翌日提案すれば、だいたいは上手く運んだ。日焼けしたいかつい男達が、今となっては懐かしさを追い越して恋しい。高校時代所属していたバスケット部も、練習の厳しさは熾烈を極めたが、意識が飛びそうになっても、胃の中の物を吐き出すほど肉体的に精神的に追い込まれても、練習時間さえ耐え切ってしまえば、あとは部室で仲間と騒ぐうちに全て忘れられた。

「あいつらには、少ないけど常識があったよな」

 そうだった。社会人になって出会う破天荒で時には無茶をいう大人たちも、一応“大人”だった。社会の秩序を乱さない範囲の無茶だった。高校時代の部活も、当時の自分たちは「拷問」と揶揄して嫌がった夏合宿の寝不足の猛練習も、思春期真っ只中の男子高校生にはこれくらいやっても大丈夫という常識の範囲内でのしごきだったのだ。

「きびしー」

 まだ蒸し暑さの残る夏の夜に、大介の言葉は力なく進むヨットのように凪いだ海面を進んでいるのか留まっているのかわからない。

 夏休みに教科書を読み込んで、自分なりにきちんと授業の準備をして九月を迎えた。勉強をしていた過ぎて行った夏休みが懐かしい。教師として迎える初めての夏休みは、それまでの忙しさが形をかえてやってくるだけで、子供の頃のように暇な夏休みを期待していた大介は大いにそれを裏切られた。七月二十日から夏休みに入ると、まずは膨大とも思える事務処理が待っていた。教師は自分のクラスの授業計画を毎週提出して、管理職の承認を得るという建前になっている。その「建前」というのは、その授業計画を「週案」と呼ぶのだが、実際に週案を毎週出して承認を得ている教師は少数派である。理由は“多忙のため”というのが大介の理解しているところだ。週案は管理職に出す体裁にするのはある程度時間がかかるし、それが管理職から戻されるのにも時間がかかり、書きかけの週案が手元にあり、何かのときに修正したり確認したりするには、未完成の週案が手元にあった方が、理に適っているのである。その未完成で三カ月間寝かせておいた週案を一気に書き上げて、同じ学年の教師達と授業時間数などを揃えるという作業が、思いのほか思い仕事なのである。平均的には半日仕事。事務作業の苦手な教師は二日間ほどかかるらしかった。もちろん大介は、七月から赴任していて、その様な細かい説明を受けていない。受けていたとしても完全に忘れていたわけで、その週案完成に自宅に持ち帰ってなんとか一日で終えた。それと同時並行的に、7月までの子供の出席欠席の記録の確認。身体計測の記録の確認を任された。時折、出席番号を間違えて記録が記されていたり、計測の当日に欠席した子供の計測が未完了である場合がある。そういうことが見過ごされていると、学年が終るまでに発見して、適切な処理をしておかなければならない。不適切な処理や未処理が後から分かると、最悪の場合、教育委員会に報告を上げ、保護者に謝罪を求められることがあるらしい。そんな説明をしていた提坂の神妙な表情を思い出す。また、業者に注文したテストやドリルなどの会計処理も教師の仕事だった。そんな細かい仕事をもこなしているうちに午前中が終る。夏休み二日目からは、学校のプール開放の準備と監視の仕事が朝から入っているのを聞いたからだった。中央小のプールは屋上に設置されていた。周りのビルから日光の照り返しが激しく、顔や肩が真っ赤に焼けた。中で泳げるならまだしも、プールサイドに立ったり、チェアに座って監視をするので、暑さで体力が奪われた。監視を交代でしながら、保護者と面談する。保護者を招いての面談が開かれた。一人あたり三十分、みっちりと母親や父親と話さなければならない。元々人と話すことを厭わない大介であるが、保護者としての大人と向き合うという初めての経験に大いに面食らった。東京都心を登校範囲に抱えているだけあって、弁護士や医師といった社会的に高い地位の保護者がいたり、地元の商店街の店主をしている保護者がいたり、先輩教師の言葉を借りると“ふり幅の広い”保護者達だった。七月初旬から新たに担任に突いた大介に対する労いや気遣いを口にする保護者も僅かだがいたが、大半の保護者は、前任の担任に対する愚痴や教師経験のない大介の授業や子供達への関わりに対する苦情だった。三十分という予定された時間を大きく越えて不満をぶつけていく保護者もいた。一日当たり六~七人の保護者と面談が終ると、教頭の三上に報告と相談をしたが、「津村さんは社会人経験もおありなようだし、堂々とした受け答えをしているから、保護者の言い分を傾聴して夏休み以降の指導に生かしてください」と毎日同じ返答が来た。

面談中、時より教頭の三上が、廊下を歩きながら教室のドアの小窓から中を覗いていくが、それだけで何も助けてはくれなかった。

 三十名以上の保護者との面談が終っても、身体が休まることはなかった。面談期間中は減っていたプールの監視の時間が増えたのだ。

 八月の十日を過ぎると、交代で夏休みをとる教師が増える。しかし、夏休みに丸一日時間をとって、9月以降に計画されている遠足の下見に行く学年があったりで、職員室は常に稼動しているように思えた。また近年は共働き家庭が増えたこともあり、行政からは地域の子供の居場所としても学校を活用するよう求められているそうだ。地域で開かれるお祭への見守り隊にも教師が参加する。図書室も一日おきには開放しなければならない。そこに当たる者はもちろん教師である。それでも、子供達や保護者から解放された職員室の空気は大介の気持ちを軽くした。これまで、家には柚絵がいて、職場に来ると子供達がいて、教室から子供達がいなくなると保護者が雪崩込むように面談に詰め掛けた。

 先輩の教師達も忙殺される仕事から解放された時に関わると、案外親切で気の好い人たちが多かった。教頭の三上の無責任な身のこなしも、なんとなく許せるような気もした。大介自身も自分の心境の変化に気づいた。皆、心の余裕がなかったのだ。

 しかし、大介には休む時間などなかった。軽くなった気持ちと身体でやらなければならないことがあった。授業の準備である。小学校で働いて分かったことがある。

子供に勉強を教えるのは、簡単ではない。

大人になった今では常識にさえなっていることを一から教えるのである。それも子供が知りたがっていることなら、まだよい。しかし、多くの場合、授業で学ぶことなど子供の知りたいこととはかけ離れている。子供が知りたいのは、概数の表し方でも都道府県の名前や県庁所在地などではない。ゲームの攻略方法であったり、将棋の勝ち方だったり、折り紙の新しい折方だったり、消しゴムのカスを糊と混ぜて作る練り消しの作り方だったりする。そんな子供達に、「そんなことどうでもいいよ」と思われている教科書の内容を教えていかなければならない。そんなマジシャンのようなことを自分はしなければならない。少なくとも九月からは。

 先輩教師達は、面談が終りプール開放の当番に出勤する以外は、職員室にはいなくなった。休みを取って旅行に行ったり、普段はできない家族サービスに勤しんだりしているらしい。当番以外で出勤している教師は、自分の教室にこもって、大介にはよく分からない仕事をしているようだった。


大介は、提坂から教わった方法で授業の準備を始めた。まず教科書に全て目を通す。次に、指導書と名のついた分厚い書籍を読む。指導書は、大体が教室の教師しか手の届かない棚やあまり空けられない引き出しの中に、家宝のように仕舞われていた。提坂曰く、若手教師はまず指導書と友達にならなければいけないらしい。夏休み中に大介は、全ての教科の教科書と指導書、文科省発行の学習指導要領を読み込んだ。なかなかの情報量だったが、貿易商社に勤めていた時に目を通した、貿易法務や貿易先の国の国政の情報誌から得た情報量に比べるとまだ少なかった。


                  つづく

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