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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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柚絵

「ほどほどにしときなよ」

フローリングに座り込んだ柚絵は、潤んだ目で、大介を見つめるだけで何も言わない。トロンとしたその眼だけを見ていると、彼女に潜んでいるのは希望なのか絶望なのかは見定められない気がする。


「飲むのはかまわないけどさ」


まだ柚絵は大介を見つめている。これ以上かける言葉が見つからない。

不安や悲しみに飲み込まれそうな時、彼女は酒を飲む。一緒に住むようになって、大介が知った彼女の術だった。


ある夜、彼女が黙って寝室を出て行くのを大介は目を瞑ったまま見送った。ドアを開けて出て行く音がしたら、すぐに後を追いかけるつもりだった。何度か大介は柚絵が真夜中に部屋を抜け出して徘徊しているところを捕まえたことがあった。しかし、ドアを開けるその音は何分経っても聞こえては来ない。睡魔に移ろいかけていた大介の意識は、夢と現実の狭間で浮き沈みを繰り返している。


現実に残っている意識が、いつかの記憶を手繰り寄せている。それは外灯もない小道を一人歩く柚絵の背中を脳裏に映し出していた。その道は幹線道路に通じている。トンネルの出口付近のように小道の終りが、幹線道路からの白く強い光で照らされている。柚絵は緩やかな坂を上っていく。大介は走って追いついて一緒に横を歩いた。心配した。車に轢かれてしまったかもしれないと思った。なぜ何も言わずに出て行った。何が不満だんな。俺が気に入らないのか。柚絵の耳元にぶつけてやりたいすべての思いを飲み込んだ。何も言わず、手を握った。


「いっしょに帰ろう」


しばらく歩いて幹線道路に出た時、大介の口からやっと出てきた言葉だった。二人で並んでそのまましばらく歩いた。柚絵は泣いていた。家を出る前から泣いていたのか、それとも大介に手を握られてから泣き始めたのか、見当がつかなかった。でも、柚絵には涙ほど似合うものはないと思えてしまうほど、泣きながら歩く柚絵は美しく映る。大介の胸で鈴が小さく鳴った。自分を必要としている証左を大介はその涙に感じたのかもしれなかった。このまま女としばらく歩こうと思った。この女は自分の妻なのだ。


横断歩道の信号が青になる。車が止まって静かになった道路を歩いた。静けさの中時間がゆっくり流れる。渡り終えると二人の背中で、大きなトラックが轟音をたてて通り過ぎていった。


後から後から瞼の中で鮮明になっていく記憶。記憶と共に大介は眠気から意識を引き戻した。



五感の神経を鋭く張り巡らせた。冷蔵庫の振動音。下の部屋のテレビの音声。住人の足音。外を歩く人のざわめき。風の向きや強さ、夜空の月の位置まで分かってしまいそうな気すらする。さらに集中する。柚絵の動きを知りたい。


ダラスのコップがキッチンのフローリングに置かれる音がした。リビングの向こう側のキッチンに座り込んで柚絵は、何かを飲んでいる。



 ガラスが割れる音がした。酒が入ったグラスを床に叩きつけたのだ。そして、キッチンに柚絵をそのままにしておいたことを悔やんだ。でも身体がすぐには動かない。まるで敷き布団に背中が引きつけられているように。


「わたしは、生まれてきてはいけない子だったの。だってこんなに苦しいんだもの。生きているのがこんなに苦しい人間が生まれてきていいはずがないんだから」


そんな声が確かに大介には聞こえた。

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