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現代か、現代ファンタジー

私たちの関係に、名前はまだない。

作者: 待鳥園子

 今日は、本当に疲れてしまった。


 そもそもプライベートな事で、非常に精神状態が悪いところに、上司からの無茶振りと同じ時期に転職した同僚の度重なるミスの尻拭い。


 仕事のフォローはお互い様だと思いつつも、何年も同じことをしているのにどうしてと、思ってしまう気持ちはある。


 こちらが大人になって、優しく対応していれば、つけ上がり怠けるの繰り返し。ならばと、強く言えばパワハラだと上司へ報告。


 打つ手はなく、穏便に済ませるには、何かも自分でやるしかない。


 ……ううん。駄目駄目。いつもなら、そういうものだと割り切れるのに、今日は本当に駄目な日。


 電車から帰宅するためのバスを待つために屋根付きのバス停のベンチへと座れば、ちょうど母校の制服を着た男の子が通り過ぎた。


 ……私だって、あの頃は、本当に……何もかもが、輝いて見えたものだ。


 思い返せば、ため息しか出ない灰色の未来が待ち受けていると知れば、あの頃の私は、何と言うだろうか。


 冠婚葬祭以外で、何か悲しいことがあったからと、会社は休暇をくれない。失恋も婚約解消も、自己責任と言えばそれもそうだし。


 腕時計を見てバスが来るまでの、10分間。ほんの少しだけと思って、目を伏せた。


 疲れきった今の私には、青春を謳歌する学生たちは、あまりにも眩し過ぎて。



 ……ぽつりぽつりと、雨が何かに当たる音がした。



 目を閉じたまま、いつものバスを持っていた私は、俯いていた顔を上げて、空を見上げた。夕方の赤い空には、見える範囲には灰色の雲はない。


 ……不思議になった。雨は降っていないというのに、雨音は私の耳に確実に届いている。


 そして、どこからこの雨音は聞こえてくるのだろうと、何気なく隣を見て、私は驚きに目を見開いた。


 背の高い高校生の男の子が居て、私が何年も前に卒業した普通高校の制服を着ている。


 そして、彼の手は開かれた傘を持っていた。


 本当に不思議だけど、彼の持つ傘からは雨音が聞こえて……けれど、今私が居るこの辺には、雨は降っていない。


 ……朝のニュースの天気予報だって、ここ最近は晴天が続くだろうと言っていた。だから、私は折り畳み傘を今、鞄に入れていない。


「……どういうこと?」


 私がそう呟けば、隣の彼は声が聞こえたのか、こちらを見た。そして、彼の顔を真正面から見て、私は言葉も出ないくらいに驚いてしまった。


 そこに居たのは、高校時代の私が実らなかった恋の相手……七瀬瑞樹くんだったからだ。


 短い黒髪に、端正な顔立ち。バスケ部で背は高くて、いかにもスポーツしている高校生という、ガッチリとした筋肉質な体型。


「あ……あの、もしかして……浮田萌音っていう、妹が、居ます? すごく、良く似てて」


 高校生七瀬くんの言葉を聞いて、私はなんと言うべきか戸惑った。それって、高校時代の私のことだ。


 過去の彼に、こんなうらぶれてしまった姿を、そうだと認識されたくない。


 声も何もかも、あの時のまま、そのまま……この人は、高校生の頃の七瀬くん本人で間違いない。


 彼は二年生の途中、両親の仕事の都合で、引っ越してしまった。私はそれ以来、今まで会ってはいない。


 私は今晴れているのに、彼が傘を差しているという視覚的な事で、今のこの事態が異常であることに気がついているけど……私はベンチに座っていて、その上には、小さな屋根がある。


 七瀬くんは過去の私の姉と話しているつもりで、未来の私と話をしているかもなんて、きっと……気がついてもいない。


「いっ……居ます」


 本当は、私には妹なんて居ない。その名前は、私本人。けれど、この過去と未来が交差したような事態を、彼になんて言うの? 


 告白も出来ずに、すぐ近くから居なくなってしまった初恋相手に、どう説明すれば良いかなんて、私にはわからない。


「あの……余計なお世話だったら、すみません。さっきから、とても悲しそうな顔をしていたけど、何かあったんですか? もしかして……心配事ですか?」


 どうするべきかと考えていて無言のままだった私に、七瀬くんは慎重な口調で尋ねた。


 高校生の時は、同級生で同じクラス。同じ美化委員だった私たち二人は、連絡事項などを話すこともままあった。


 こんな風に、慎重になんて話しかけられたことなんてない。だから、何だか新鮮だった。


 あの時は、いつもたわいもない話をしていたと思う。今では何を話していたかなんて、思い出せないけど。


 それでも、毎日楽しくて彼を見れただけで嬉しくて、大声で笑っていたはずだ。


「……あの、三日前に……私……婚約を解消したの。妹には、これは言わないでくれる? 平気だと言っていて恥ずかしいから」


「えっ……あ。もちろんです! というか、誰にも言いません。大丈夫です! 俺はお姉さんのことを、知っている人も、居ませんし……」


 苦笑して話した私に、七瀬くんは慌てた様子で、そう言った。


 そして、既に私は彼がこの秘密を守ってくれたことを知っている。


 だって……私はこれまでに、彼から居ない姉の話をされたことなんて、一度だってないんだから。


「ふふふ。ありがとう……婚約者の……いえ、元婚約者ね。以前に付き合っていた人が、事故に遭って……今は意識を失って、ずっと彼の名前を呼んでいるらしいの。だから、意識が戻るまででも、傍に居てあげたいって言われて……」


「え……けど、それだと……」


 口ごもった七瀬くんが言わんとしていることは、理解している。事故に遭って、意識不明。明日意識が戻るかもしれないけど……。


「そうなの。意識はいつ戻るかわからないから……両者合意の元で、私たちは婚約解消することになったの」


「それは、とても災難でしたね……お姉さんは、それで良いんですか?」


 お見合いしてから婚約はしたけれど、私たちは、まだ結婚式の話もしていないし……キャンセル料だって何も発生しない。


 そうしたいと言った彼の気持ちを思えば、致し方ない理由だし、私側には不満は無かった。


 お世話になった仲人も居て仲が良い親同士は、婚約解消に非常に残念がってはいたけど、それは、もう仕方ないことだ。


 私たちには、ご縁がなかった。


「良いというか……その、事故に遭ったという彼女は、私と同じ年齢らしいの。とてもお気の毒だと思うし、大変な時に傍に居たいという彼の気持ちも、尊重してあげたい。婚約解消だって仕方ないと思うし……意識が早く戻れば良いと願っているわ」


 人が不幸に遭った話を聞いて、自分勝手な理屈でなんて怒りたくない。


「じゃあ……あのっ……」


 七瀬くんは何かを言いかけて、それはあまり良くないと思ったのか、片手を口に当てて口籠った。


 そんな彼を見て、私は若いのに、思慮深い子だと思った。私が高校生の時に、それが出来たかは分からない。


 プライベートなことなのに……無遠慮に聞いてしまって、相手に嫌な思いをさせてしまっていたかもしれない。


 これまでの話を聞いて、私本人も納得しているというのなら、何をそんなに悲しそうにしているか、七瀬くんには不思議だったのだろう。


 婚約解消の理由に納得はしていても、みじめな思いは消せない。


「まだ、二十五歳だしという思いはあるの……彼とは、親同士の友人の紹介で知り合ったお見合いだったし。私が何に一番にもやもやしているかと言うと、それほど辛くなかったことの」


「……え?」


 七瀬くんはぽかんとした表情をしていて、私はそんな彼を見て面白かった。


「高校生の君には、こういう流れは、まだわからないよね」


「わからないです……すみません」


「謝らなくて、良いわ。わからないのは当然だもの。私は就職して仕事にも慣れて、結婚適齢期で、親にもそろそろ結婚をと言われて……お見合いしたら、優しくて良い人で……」


「はい……」


「もう終わった関係だし、はっきり言ってしまうと……この人でなくても良いけど、別にこの人で良いかと思った。平凡な私には、このくらいの幸せで、ちょうど良い思ったの……大人の打算」


「それは……俺には、わからないです」


 戸惑っている高校生の七瀬くんにとって、現在恋愛は関心ごと比率の中、多くを占めているだろうし……男女の差もある。


 こんな私の気持ちなんて、高校生の七瀬くんにはわからないと思う。


「けど、既に二人の未来を、思い描いていたの。短い間だったけど、この人と結婚すると思っていたから、残念だったし……悲しかった」


「はい」


「だから……向こうから、致し方ない理由で婚約解消を申し入れられて、ガッカリして……悲しかったけど、そんな自分を直視することになってみじめで」


 私は婚約していたというのに、あまり好きではない人と、これからの一生を共にしようとしていたのだ。


 なんだか、するすると話せてしまって不思議だけど、日頃、誰かにこんな胸のうちを明け透けに出すことなんてない。


 これは、それだけ非日常で……遠い過去、高校生の頃に好きだった男の子に、婚約解消の経緯を話してて……なんだか、不思議。


「好きな人でもないけど……結婚に、丁度良いから……いや、俺はそれで、結婚するのは嫌かもしれない」


 私が元婚約者と結婚しようとした理由は、まったくわからないと言わんばかりだ。高校生の彼には、これはショックな話だったかもしれない。


 好きな人と、結婚すると思うよね。私だって、そうだったもの。


「仕事だって大きな会社で安定しているし、容姿だって悪くない。性格も穏やかで、優しくて……それに、こんな私でも、良いと言ってくれたの。結婚相手の条件で言えば、とても良かったもの」


「俺には……どう言って良いのか、まるでわからないですけど……多分、お姉さんは私で良いより私が良いが、優先されると良いと思います」


「……え?」


「今までの話には、お姉さんのチョイスはないですよね。流されるままに何も選ばずに、ただ幸せになりたいというだけなら、一人の方がまだ気楽だと思います」


 真剣な表情の七瀬くんの話は、耳が痛い。


 私だって、高校生の頃にはそう思っていた。けれど、社会人になって社会の歯車の一つになり、だんだんと思い知らされていく。


 私はスパダリと言われる素敵な男性選ばれるような、そういう……特別な人間ではない。


「……大人には、色々あるんだよ。君も私くらいの年齢になると、わかるようになる」


 苦笑をするしかない。


 これは、自分が経験するしかなくて……私だって、夢見たままでその後も生きられるのなら、そうしたかった。


 けれど、人生は現実で私はこの先も生きていかなくてはならないし、結婚すれば、それは誰かと協力出来る。


 楽な道へ進むように、私は親に言われるがままに、結婚することを選んだ。


「……そうですか。あ。バス来ました……お姉さんは乗らないんですか?」


 私は黙って首を振った。私の目には、走るバスは見えていない。


 ダイヤ改正はよくあることだから、十年ほど前の今の時間は、この時間にバスが来ていたのかもしれない。


「またね」


 私が小さく手を振ると、七瀬くんは礼儀正しくお辞儀をして、傘片手に走って去っていった。


 パシャパシャと水の跳ねる音がして、そして、彼はバスに乗り込んだのか、姿はふっと見えなくなってしまった。


 彼が居なくなってしまって、寂しくないと言えば嘘になる。けれど、ここで呼び止めて、どうするの?


 私は七瀬くんのことが、本当に好きだった。


 あまりにも見すぎていたせいか、目だって良く合っていた。けれど、別に嫌な感じはしなかった。嫌われては、いなかったように思う。


 ふとした瞬間、絡み合う視線。クラスの喧騒は、何も聞こえなくなった。


 だから、こんな願望のような不思議な幻を、私は傷ついた時に見てしまったのかもしれない。


 七瀬くんが二年生で転校してしまう時、私は勇気を振り絞って彼に連絡先を聞こうとした。


 必死でニ階から名前を呼んだのに七瀬くんは、笑顔で大きく手を振って行ってしまった。


 彼に私へ少しでも気持ちがあれば、立ち止まってくれたと思う。けれど、あっけなく行ってしまった。


 そこで……追いかければ良かったのかもしれない。けど、そんな勇気、高校生の私には出せなかった。


 ……そして、私は高校生の時に好きだったその人と、話をしてしまうという不思議な体験を終えた。



◇◆◇



「あ。お姉さん。また会いましたね……え。どうか、したんですか?」


 涙を堪えきれずに、ハンカチで目を押さえていた私が視線を上げれば、そこに居たのは、傘を差し制服姿の七瀬くんだった。


 彼は心配そうに、顔をグチャクチャにして泣いてしまっていた私の顔を覗き込んでいた。


 仕事中は耐えたけど、バス停で待っている時間は、気が抜けてしまった。


 あ。また……また、彼と会えたんだ。あの時も、過去だとしても、好きな人に会えて……嬉しかった。


 今ではもう、彼は何処に居るかもわからなくて、二度と会えない人だとしても。


「なっ……っ君……あ。雨の日に良く会うね」


 私が涙目で笑うと、七瀬くんは眉を寄せた。


 なんだか、ひどい顔をしていたのかもしれない。そして、私はそれを嫌だと思った。


 不思議なものだ。過去の好きな人だけど、七瀬くんの前では少しでも良く見られたい思いがあって。


 私はまだ七瀬くんのことを、好きな人から普通の人に戻せていない。


 会えなくなって……もう、何年も経っているのに。


「お姉さん。どうしたんですか? 良かったら、言ってください。話すだけでも、きっと楽になると思いますし……」


 七瀬くんって、本当に優しい……今更だけど、告白しておけば良かった。こんなにも将来有望な異性、私の人生の中で一番だと思う。


「元婚約者の彼が……女性と腕を組んで歩いているところを、偶然見かけてしまったの。私も仕事の客先で、いつもなら通らない沿線の駅で……」


 本来の生活をしていれば、決して見ることもなかった。先輩の仕事のフォローで違う駅に行った。これは、稀な偶然だ。


 本当に偶然、元婚約者の彼を見かけてしまった。


 けれど、それは……答え合わせをするための、必然だったようにも、今では思える。


「……え? もしかして、事故に遭った女性が、意識を取り戻したとか?」


 ……そうだったら、どんなにか良かったか。


「ううん。違うの。なんだか、様子がおかしいと胸騒ぎがして……彼に連絡を取ったの」


「そうですよね。聞かないと……始まらないですから」


「電話をかけて、訳を聞こうとした。けど、もう良いかって、うんざりして言われたの。親に言われてお見合いをしたけど、私のことを、ずっとつまらないと思っていたんだって、お前なんか、どう考えても女に見えないって……婚約解消したのは、違う女性と上手く行ったから、私はもう要らなくなったから……面倒だし良い話の嘘をついて、婚約解消したんだって……これ以外にもいっぱい言われた……酷いこと……たくさん」


「お姉さん……」


 七瀬くんは泣き崩れた私の背中を、大きな手でゆっくりさすってくれた。


 あ。この七瀬くん私のこと、触れるんだ……なんだか、そのことが私にはとても意外だった。


 どう考えても、過去と未来の私たちなのに……不思議。


「それは……婚約中の不貞が理由で、しかも婚約解消の理由に嘘をついたってことで、相応の慰謝料を取れます」


「え?」


「すぐに、弁護士に連絡しましょう……あ。これ、使ってください。叔父の弁護士事務所です。身内だからって良く言うこともないんですが、人を助けたくて弁護士になった熱い人で、良心的な価格で有名です」


 矢継ぎ早に告げた七瀬くんは、鞄の中からあたふたと名刺を出して、私に渡してくれた。


「えっ……あ。ありがとう。けど、私はそんな……お金なんて」


 私だって元婚約者に恋をしていたかと言われたら、そうではない。お互いに条件を妥協をしての婚約だったし……けど、あんな風に、自分が粗末に扱われたことが辛かった。


 あれならばまだ、素直に好きな人が出来たから悪かったと言ってくれれば良かった。


 お涙頂戴の作り話までして、周囲を丸め込み、そして、元婚約者だった私を、疑いもしないのかと心底馬鹿にしていた。


 そんな風な扱いをされた自分にも、腹が立っていたし、もう胸の中は悔しさやら悲しさやら、後悔だったりがぐるぐると渦巻いて、涙は溢れて止まらないし、もうぐちゃぐちゃだった。


「お姉さん」


 七瀬くんは私の肩を持って名前を呼び、目を合わせた私を真剣な眼差しで見つめた。


「……いつまでも。やられっぱなしで、良いんですか」


「それは……」


「俺も……お姉さんもそう思っていると、思いますけど、そういう話ならば、正直に他に好きな人が出来たって言えば、お姉さんは祝福したと思います」


「したわ……きっと、したわ」


「けど、しなかった。婚約までしたのに浮気して嘘をついて、お姉さんに真正面からぶつかって責められることを、避けようとしたんです。しかも、別れ際に暴言。悪質で狡い男ですし、どう考えても酷いです。訴えましょう」


「私だって正直に言ってくれれば、それで良かったと思ってる……けど、彼にとって私にはそれだけの……何の価値もないんだと思って……悲しくて……」


 また、ハンカチで目元を押さえた私に、七瀬くんは言った。


「そんなにも……非道な男からお金貰うのに罪悪感があるなら、俺に焼肉おごって下さい。これからの日本の未来を背負う、立派な青少年への投資です。お姉さんが悲しんでいることは、法律で禁じられています。法律を犯したのは先方なので、ここは感情を切り離して訴えましょう。そして、俺は焼肉が食べたいです」


「え? ……焼肉?」


 ぽかんとしてしまった私に、七瀬くんは微笑んだ。


「はい。俺、肉なら、めちゃくちゃ食いますよ。だから、慰謝料で焼肉奢って下さい。その悲しみ、決して、無駄にしないでください」


 七瀬くんの瞳にある虹彩が見えるほどに、彼の目は純粋に透き通っていて綺麗だ。私だって、高校生の頃には、きっとそうだったのかもしれない。


 どこで、そうではなくなってしまったのだろう。諦めを覚え妥協を覚え、私は周囲に合わせて大人になった。


 求められるがままに妥協して、婚約したのにすぐに解消になり、そして、酷いことをされたのに、波風を立てたくないと何も言わずに我慢して妥協をしようとしている。


 けれど、高校生の七瀬くんは私に、ここで戦うべきだと言ってくれた。


 悲しみに負けて泣いて日々苦しむくらいなら、この名刺をスマートフォンに打ち込んで、酷い言葉をまた投げ返すでもなく、大人として冷静に法律でやり返してやれと。


「わかった……焼肉、奢るね」


 七瀬くんの叔父さんならば、十年経ったとしても、甥の連絡先を知っているはずだ。すべて終えて私から焼肉を奢ると突然連絡があれば、驚くかもしれない。


 あの時に、七瀬くんが助けてくれたのは、同じ教室に居る自分のことを好きな同級生の、未来の姿だったのだと……。


 また、制服姿の七瀬くんはバスの中へと消えて、私は彼に貰った名刺をじっくりと見た。


「七瀬法律事務所……すごい」


 私は弁護士なんて身内に居ないし、そういえば、七瀬くんも特進クラスで学年テスト順位は、いつも一桁で頭が良かった。


 緊張しつつ電話番号を打ち込むと、数コールしてから電話に出た。


『はい。七瀬法律事務所です』


 低い……若い男性の声だ。


「あっ……ご相談を、お願いしたいです」


『かしこまりました。とりあえずのご相談でしたら、当事務所は一時間無料で受け付けております。また、相談中に詳細にお聞きしますが、お客様のご相談される内容は、どのような事案でしょうか?」


「元婚約者の、不貞行為です……婚約中に浮気をされていたんですが虚偽の理由で、婚約解消に至りました。慰謝料を取れるなら、取りたいです。今日、発覚したので……明日は平日ですが、休みを取っているので、いつでも相談に行けます」


『……かしこまりました。それでは、午後二時からは、ご都合いかがでしょうか?』


「大丈夫です」


『お名前の方を。よろしくお願いします』


「浮田萌音です」


『……っ……あ。はい。失礼しました。お待ちしております!』


「? よろしくお願いします」


 一瞬、私の名前を聞いて……吹き出さなかった?


 けど、正直言えばキラキラネームっぽい珍しい名前でもあるし、たまにそういうことはある……電話口の彼も、私の名前に驚いたのかもしれない。


 元婚約者を訴えると心に決めて仕舞えば、なんだか楽になった。


 私はようやくやって来たいつものバスへと乗り込んで、明日弁護士に何を言うべきかを書き出してまとめるために、スケジュール帳を取り出した。



◇◆◇



 緊張しつつ『七瀬弁護士事務所』と書かれた扉を開き、そこに待ち構えているようにして立っていた男性を見て、私は驚きすぎて声が出なくなった。


「いらっしゃいませ! 七瀬法律事務所の、七瀬瑞樹です。お久しぶり。浮田……いいや、雨の日に良く泣いていたお姉さん?」


 そこに居たのは、すっかり素敵な男性になっていた七瀬くんだった。


 高校生の頃には残っていた爽やかな少年らしさはすっかり消えてしまって、今では高級そうなスーツに身を包んだ、落ち着いた色気ある大人の男性。


 私はそんな彼をじっと見つめ、何も言えなかった。


 ……え? どうして? ……けど、七瀬くんさっき……。


「いや、流石に、気がついてたよ。あれは、未来の浮田だなって……確信したのは、慰めるためにお姉さんの背中をさすろうと服に触れた時だ。雨で天気も悪いと言うのに、服がカラッと乾いていて……だから、ああ。俺たち二人は、今同じ時に居ないんだと気がついた」


 私が何も言えなくなった理由を察したのか、七瀬くんは苦笑して言った。


「どうして、あの時に……何も言わなかったの?」


 もし、そうだったとしたなら、私はそれが不思議だった。


 だって、この七瀬くんは、あの時に未来の私だと気がついていたと言ったけど、過去の私にそんなことを、一切言わなかったし……。


「だってさ……俺はすぐに引っ越して転校すること、決まっていた。すぐに俺のものにはならないけど、婚約解消直後で傷ついているところを、俺が弁護士として助けられることが、もし確定しているなら、何年間か待つのも頑張れると思った」


「え?」


 なっ……何言ってるの? まるで、七瀬くんが高校生の頃から、私のこと好きみたいで……そんな訳ない。


「うん。浮田は、それを知らないと思った。お前は気がついてないと思うけど、俺の方が先に好きだった。多分、浮田は俺がお前を見ていることで、こっちを意識してくれたんだよ。それは、俺の方が先に見ていたから、知ってる」


 嘘でしょう……けど、今ここに居ることを確信して、七瀬くんは転校して行ったみたいじゃない?


「けど……もし、弁護士には、なれなかったら?」


「俺が、なれないわけがない。あ。立ちっぱなしもなんだし、座ってくれる? ここだと、通行の邪魔になるから……」


 それもそうだと気がつき、私は慌てて七瀬くんの後に続いた。事務所は割と大きなビルのワンフロアを占めていて……多くの人が、慌ただしく働いていた。割と繁盛しているみたい。


 私は奥の部屋に通されて、椅子に腰掛けると、彼は用意していたらしい書類のバインダーを手に私の正面の席へと座った。


「あ。相談の主な内容は知っているので、詳細は後で聞きます。先に料金の説明。この事案で行くと慰謝料の最高額相場は、約200万。それならば、こちらの取り分は約3割。つまり、60万ほど頂くことになります」


「……相場の最高額を、取るの?」


 私は彼の言いように、驚いた。だって、証拠は少ないしある程度は妥協して折り合いをつけることが、こういうことでは普通だと思っていたし……。


「いや、俺は取れるなら、もっと取るよ。この事務所、浮田はどう思った?」


「え?……立派……だね」


 それは、確かに思った。立派なビルのワンフロア。弁護士だって、たくさん抱えていそう。


「叔父は人情派の商売下手で、この七瀬法律事務所を、ここまでにしたのは俺。疑われても、別に構わない。どうせ、これから仕事で証明することになる」


「……すごい」


「あんな酷いことをした相手に、手加減する必要はないだろ。心からの謝罪と、少しの慰めになるような額の慰謝料を勝ち取ろう。あと、裁判まで行かなければ、慰謝料の金額は自由。相場は、単に家裁裁判官の判断。向こうが身内だったり、今付き合っている相手に知られたくなかったりすると、示談は言い値で、いくらでも取れる……十分に悲しんだんだ。取ってやろうぜ」


「……七瀬くんに、全部任せます」


 私はそれしか、言えなかった。


 法律の専門家に対して、門外漢の私が意見出来るのって、言う話だし……それに、大人でしかも弁護士の七瀬くんが本当に頼もしくて、何もかも彼に任せたくなった。


「本当のことを、言えば……きっと、浮田ならわかってくれたのにな」


「うん。そう思う」


 私だって彼を熱烈に好きではなかったけど、好ましくは思っていた。幸せになって欲しいと、笑顔でお別れできたと思う。


「それをせず、嘘ついてまで婚約破棄。嘘でないかと指摘すれば謝りもせずにわざわざ傷付けるって下衆だし、話し合いしようとしたのに罵った。今日にでも予約して、心療内科で診断書貰おう。悲しませた上に、傷つけた。医者からの診断書という武器の強さ、思い知らせてやろう」


「ありがとう……七瀬くん。本当に」


 これまでにあったことを思えば、涙が込み上げて来て、俯きそうになった私に、七瀬くんはにやっと笑って顔を上げろと手でジェスチャーした。


「……あ。そうそう。俺の取り分の中には、この仕事が終わったら祝勝会として、二人で行く高級焼肉店の焼肉代も含みます……こちらはどうぞ、事前にご了承くださいませ」


 そんな七瀬くんの真っ直ぐな眼差しを見て、私は何年経っても、変わらないものはあるのだと……その時に、知ることが出来た。


fin






どうも、お読み頂きありがとうございました。

もし良かったら最後に評価お願いします。


待鳥園子

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