見上げれば、青い空を
ミーンミンミンミンミン──
セミは、今日も鳴いている。朝、日が昇ってから夜、日が沈むまで。そんなに、頑張らなくてもいいんじゃないか。
目の前に一匹のセミがふらふら落ちてきた。
ひっくり返ったまま、腹を見せている。
ジジジジ……と体を震わせて、最後の力を振り絞る。
だが、もはや飛ぶ体力は残ってない。
もう、こいつは助からない。
セミの最期はどんなだか。
仰向けになって、この大きな空を眺めるのだろうか。
突如、頭の中に昔見たテレビの映像が映る。
頭皮の薄くなった専門家がつまらなそうに話していた。
「セミの目は、背中側についてるため仰向けになっても、地面しか見れないんですね」
あぁそうか。セミは、この大空を見ることができないのか。
暗く冷たいアスファルトの上で息絶えるのだ。
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積乱雲が高く登り、木々が青々と染まり始めた頃。
ぬるくて、重たい、ずっしりとした空気がまとわりつく頃。
そして──ぼくがまだ子供であった頃。
夏休みが迫るクラスには、いつにも増して落ち着きがなかった。お調子者は勿論、普段は静かで大人しい子だって。無論、ぼくだってそうだ。みんなそわそわしている。
「岐阜のおばあちゃん家に行くんだ」「従兄弟たちと北海道旅行に行くんだ」。みな、思い思い会話を楽しんでいる。
なのに、それなのに、あいつだけは違った。あいつは、誰とも喋らないし、にっこり笑うこともない。あいつは、窓際の席からずっと空を眺めている。授業中も、休み時間も、学活の時も。雨の日も、曇りの日も、晴れの日も。
頬杖をついて、つまらなそうに。
今日も帰りの学活が終わると、「さようなら」が言い終わる前に、もうランドセルを背負って帰ろうとしていた。なーんか、嫌なやつだ。
4限目、図工の時間。スケッチをすることになった。敷地の中であれば、内外関係なく、自由に好きなものを描いてよかった。
けれど、今は7月。太陽がシャンシャンと輝く、この季節。誰も、外には出たがらない。
だけど、エアコンの効いた部屋で、何がかけるのか。ぼくは、分からない。だから何となく、昇降口に向かった。
下駄箱には、真っ白な上履きが、ひとつだけポツンと置かれている。1ピース欠けてしまったパズルのように。
校庭に出ると、彼がいた。
ながい芝が風にあおられ、ゆらゆら波のよう。
彼は、天に向かって手を伸ばしていた。
小さく、細い。でもその指は、まっすぐ力強く空へ向かっている。
見上げると、白く厚いかたまりが縦に大きく伸びていた。吸い込まれそうな、大空だった。
ぼくが近づくと、彼は空を眺めながら話しを始めた。
空を眺めてるとね、逆さまになったような気がするんだ。
──逆さま?
重力が反転したように、本当の地上は空で、地上こそが本当の空なんだ。
空は、雲なしには成立しないんだ。雲が大事なんだ。
「ぷかぷか」なのか「ふらふら」なのか、それとも「さらさら」なのか。
天気や季節、時間、そして、何より心の状態によって、雲の見え方は違う。
君はどんな雲を見ているのかな。
そう言って、彼はぼくの目を見つめた。
ぼくは、あの時、なんと答えただろうか。
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これが、彼との記憶のすべて。
もはや、顔や名前、声を思い出すことはできない。記憶にも賞味期限がある。思い返すたびに、薄くなって、いつかは、想像で塗り固められる。
そんなぼくも、大人の階段を登る。
未だにスーツは慣れない。外面だけ見れば、それはもう立派な大人だ。営業帰りに、コンビニで缶チューハイを買って、公園のベンチに座る。
あれから、10年。きっとあの子も、この青い空を見上げている。