餅花
部屋の空気を入れ替えようと窓を開けると、背の低い常緑の木々が迫る。
その緑を覆い隠さんと絡まる枯れた蔦。そして枝葉の隙間には溶け残った白い雪がいくつもまとまっているのを見て、翔吾は子供の頃に小正月のどんど焼きで食べた餅花を思い出した。
都会では雪が積もることすら滅多になく、春ももう近いというのに、生まれ故郷の村ではまだ雪が残る。
こんな事が昔は当たり前だった、それを懐かしく感じるくらい離れていたのだ。
翔吾が中学に上がる少し前、村で唯一の高校が廃校になる事が決まった。
それなら、と東京にある母方の従兄弟の家に居候し、そこから中学に通う話が出たとき、ギターが習えると教えられた翔吾は大喜びしたものだ。
14年振りに戻った部屋は今、昨日までの住まいから送った荷物の箱で溢れている。
その中から翔吾が真っ先に取り出したのはミュージックコンポだ。
それをセットし、CDの入った箱を探そうとして、ふと思いついて部屋に置いていったままだったCDの棚を確認した。
小学生の頃、隣の家の幼馴染の兄とよく聴いた曲。
それらに衝撃を受けて翔吾は音楽にハマり、ギターにハマった。
懐かしさでいっぱいになり、笑みを浮かべながら1枚1枚手に取って眺めてみる。
そのうちの一枚をかけて、翔吾は鼻歌を歌いながら箱を開けていった。
「翔ちゃんが帰ってきたってほんと?」
食卓に夕飯の料理を並べながら明果は訊いた。
それに答えたのは兄の亮介だ。
「おお。今日新幹線で来るって言うんでな、さっき迎えに行ってきた」
「久しぶりだなあ。元気そうだったか?」
父の和昭が、ビールを手酌で注ぎ、1人飲み始めながら楽しそうな声を上げる。
「ああ、元気元気。俺よりでっかくなってたよ」
「若いヤツが戻ってくるのはいい事だ。畑を継ぐんだろう?」
「らしいな」
「おまえ、しっかり相談乗ってやれよ」
「おう」
言われて、亮介は嬉しそうにビールを飲んだ。
明果の1番上の兄は昔から面倒見が良かった。
特に隣の家の10以上も年下の翔吾とは、音楽の趣味が同じという事でとても仲が良い。
妹である明果の事もそれなりに可愛がってはいたが、翔吾がギターに興味を持つようになってからはどちらが血の繋がった家族なのかわからないほどだった。
子供の頃はそれに嫉妬した事もあったが、翔吾が高校受験の準備のために田舎を出て行ってしまってからは、なんだか淋しいものを感じるようになったものだ。
しかしその後も変わらず電話で仲の良さそうな2人を見て、やっぱり気に食わないと思い直したりもした。
「でな、あいつ東京でギターずっと続けてただろ? せっかくだからうちの冬夜に教えてもらおうと思ってな」
「へえ」
明果は興味もなく返したが、驚きの声を上げたのは冬夜だ。
「はあっ!? 俺!?」
「おお。どうだ? 父さんも一緒に習ってな、いずれは一緒に弾くんだ」
亮介の妻の琴子がおかずを取り分ける小皿とレンゲを持ってきて座る。
母もエプロンで手を拭きながらやってきて席につき、ようやく食事の準備が整った。
亮介は音楽が好きで、特にギターを昔から習いたがっていた。だが弟妹が多く農家の長男ともなれば仕事も多かったため諦めてきた経緯がある。
高校時代、お年玉を貯めて買ったアコースティックギターを独学で弾いてはみたものの、音楽の授業をまともに受けていなかった亮介はオタマジャクシから泣きをみた。
それでも諦めきれずにときどき出してきては楽譜と格闘しているところへやってきたのが翔吾で、それ以来2人でギターを弾いたりCDを聴いたりするようになったのだという。
だが当時の明果がそんな事に興味がなかったように、亮介の息子の冬夜も音楽に全く興味がない。
彼が今1番興味があるのはサッカーの事だ。
小学校の仲間数人で、放課後、児童館でフットサルをするのが最近のお気に入りである。
「俺やだよ。そんな知らないオヤジのとこ行きたくないし、ギターとかワケわかんねえし」
亮介が悲しげな顔になったが、明果は違った。
「ちょっと冬夜、あんた今あたしの同級生のことオヤジって言った? それ遠回しにあたしの事も年だって言ってる?」
「え、違うよ、明果ちゃんは若いし美人だよ」
焦ったように冬夜がすかさず返す。
亮介の子供は10才の冬夜を長男に7才の双子の雪穂と六花がいて、全員が叔母の明果に懐いており、特に冬夜は小さくとも男の悲しさか、全く頭が上がらない。
「ねえねえその人かっこいいの?」
そう言い出したのは雪穂だ。
「かっこいいならあたしが習ってもいいよ」
「何言ってんだよ、今習う事になって話してんのは俺だろ」
冬夜は思わず言い返す。
「だってお兄ちゃんはギター興味ないって」
「言ってねえよ、ワケわかんねえ、って言ったんだよ」
「同じじゃん」
「違うよ、これからわかるようになるからいいんだよ」
ケンカになりだした2人の前に、琴子がさりげなくご飯をよそって出す。
「はいはい2人とも、ちゃんと食べてね」
「「 はーーい 」」
しばらく無言で食べ続けていた冬夜が、口の中いっぱいのご飯と唐揚げを飲み下ろして亮介の方を見た。
「俺習ってもいいよ、ギター」
「そうか?」
嬉しそうに亮介が返すと、不服そうに雪穂が声を上げた。
「えーーー、お兄ちゃんずるーーい」
「雪穂は六花とピアノ習ってるでしょ」
「だってあれつまんない」
雪穂が習っているピアノは自宅とピアノ講師の部屋をネットで繋ぎ、リモートで行うものだ。
双子の小学校入学祝いに祖父母が電子ピアノを購入した際に始めたものだが、雪穂にはどうも合っていない様子だった。
ちなみに六花はこの間もくもくと食事をしている。
ピアノも同じで、合う合わない、好き嫌いをあまり表に出す性格ではなかった。
「始めたばかりでしょ。ピアノはね、絶対習っとくべきよ。後で弾けるようになろうとすると大変なんだから」
明果は短大に進んで保育士の資格を取ろうとしたさい、必要に迫られてピアノを習っている。
その事を聞かされている雪穂はそれでも口を尖らせた。
「でもお」
「しばらく頑張ってみて、それでも嫌ならやめてもいいから」
今度は琴子が説得する。
「うん……」
子供の習い事は親が決めるもの、とばかりに押し切られ、雪穂はそのままピアノを、そしてギターは亮介と冬夜が習う事に決まったのだった。