鹿山 華江③
〇
「ごめんなさい」
静かな病室に、そんな言葉が響く。
個室のベッドに、焔華が眠っていた。包帯が全身に巻かれているが、寝息はすーすーと安らかだ。
「……ごめんなさい」
良空はただ、そう繰り返す。
あの時。
自分を助けた焔華は──彼女の死角からの自動車にはねられ、吹っ飛んだ。診断は左脚と肋骨、右腕の軽い骨折。幸い致命的なものではなく、半年くらいで完全に快復するそうだ。
しかし、良空は後悔に苛まれる。
彼女が自分を助けたように、自分も、彼女を助けられたのではないか。なぜ、助けられなかったのか──膝の上の拳を、ぎゅっと握り締める。
わざと。
そんな考えが、浮かんでしまう。
でも、そんな自分は、嫌だった。
自分がそんな人間だと思えない。
そこまで、最低な奴だったとは。
しかしことは起こってしまって──いざ、その原因を探ると、その答えに行き着く。
目をずっと瞑っている焔華。この人は、私を助けてくれた、命の恩人だ──それを。
迫ってくる車を注意せずに──。
「……ら……す」
静かな病室に、そんな言葉が響く。
良空は、驚いてベッドに目を遣る。
「……す……く、ちゃ……」
ぞっ、とした。
とうとう起きてしまった──もちろんずっとここにいたのだから、それは必然ともいえるが心の準備が──
「…………」
良空は立ち上がり、何も言わずに出て行こうと焔華に背を向ける──
「……大丈夫だった、んだね」
病室を出る直前、そんな言葉を聞いた。
出てきた良空に、輔久が合流する。「……どうだった? まだ寝てる?」
良空は、ゆっくり首を振る。
「ん? 目ェ覚ましたってこと?」
良空は、ゆっくり頷く。
「よかったじゃん……あ、看護師さん呼んだか? 華江先輩たちはこれから来るらしいけど──らー?」
「ううぅ、ひっう、あううぅわああ……」
良空は、廊下で泣きじゃくった。「ほのか先輩がぁ……『大丈夫だったんだね』ぇえってぇ……うぐっ、いいいぃうあ、あああいぃ……」
「良空……」輔久は、そんな彼女を見て、何とも言葉が出なかったが、「そうだな」と胸を貸す。良空はぽすりと顔を埋めた。彼にできるのはこのくらいだ。しかし彼女にとって大きな救いだった。
〇
「あ。良空ちゃん……ほのちゃん、どうだった?」
待合室で、今まさに病室に向かおうとしていた鹿山兄妹と、保科の双子が出会う。良空は泣き止んだばかりでまだ少ししゃくり上げていたので、輔久が代わりに「起きたらしいっす」と答える。
その言葉を聞いた途端、華江は、走り出した。
「あっおい……あぁ、それじゃ」
遥樹は慌ててその後を追う。輔久は二人の背に手を振ると、良空を待合室の椅子に座らせた。
「やっぱり、僕も様子見てくるから。帰っててもいいよ」輔久はそう言って歩いていった。
良空は一人、静かに心の整理をしていた。
「ほのちゃん!」
華江は、病室のドアを勢いよく、しかし丁寧に開けて、中に急いで、しかし淑やかに飛び込む。
ベッドの上の焔華は、突然の来客に目を丸くしていたが、二人の顔を見ると、それを柔らかく歪める。
「えっちゃん……それに、えっちゃんのお兄さん。その、ごめん、心配かけて……」
「本当だよっ」華江は、焔華の絆創膏の貼っていない方の頬を少しつねった。「……でも、生きてた。それでいいよ」じわ、と目尻に浮かんだ水分を拭って、「じゃあ、看護師さん呼んでくる。インターホンで言うより早いでしょ」と言うが早いか、再び風のように病室を出ていった。
残された遥樹は、とりあえず、ベッドの横の椅子──先程まで良空が座っていた──に腰を下ろした。
「…………」遥樹からは、特に言うこともなかった。そもそも妹のつき添いであって、勉強の合間にこうして来ている彼としては、居心地悪いことこの上ない空間だった。
「……えっちゃんの、お兄さん?」
そんな彼に、焔華が声をかけた。
「なに」普段学校では好き放題騒いでいる遥樹だが、病室で、怪我人と二人切りという状況には流石に免疫がなく、多少ぶっきらぼうなもの言いになる。
「────」
「えっと、もう一回」
遥樹は焔華の言った言葉が聞き取れなくて、顔を少し近づける。焔華は、その遥樹の、
頬に、
唇が、
、
ごとり、と床に何かが落ちる音がした。
そして、誰かが走り去る足音。
焔華は、再び意識を失いベッドに倒れた。
遥樹は後ろを振り向く。
華江のハンドバッグが、床に落ちていた。
〇
嘘だ。
そんな。
──嘘だ。
「あ、ああ、あ、ああぁあ、ああ、ああああああ」
華江は叫ぶ。
焔華が、遥樹と。
裏切られた。
今までいた世界は、全てがまやかしだった。真実を隠して、綺麗なところを抽出していただけだ。そうだ。これまで上手くいっていたことがおかしかったんだ。現実は、だって──
「──ああああああぁ」
華江は、良空の隣まで来て、腰を下ろした。
良空は、その様子から、状況を察した。
打ちひしがれている華江。帰ってきていない遥樹。これまでの焔華の様子。自分の中の情報を総動員して、仮説を組み立てた。
つまり、私が今、この状況で言わなければならない言葉は。
「──先輩も、裏切られたんですね」
──いや、違う、そうじゃない──正しい言葉を──届く言葉を──
「──大丈夫ですよ」
──駄目だ──二人の手が重なる──もう言ってはいけない──口が──どこまでも──どこまでも優しく、
「私は、そんなことしませんから」
華江が、良空の顔を見る。
その目が見つめていたのは、光──
──闇だ、こんな言葉、掠め取るように、絡め取るように、華江に巻きついていくのが分かる。
華江先輩は──あの時の、私にそっくりだ。
だからこそ、必要なことは──だから違う、それでは駄目なのだ──私──あの日のことが──必要な人は。
「──ね?」
その言葉に、華江はしばらくぽかんとしていたが、それを咀嚼し味わい嚥下して、
「あうぅういい、いいああぅああ、わぁあ」
また泣いて。
良空はそんな華江を、優しく包み込んだ。大義なく大事なく、物語は進む。