鹿山 華江
○
「お兄ちゃん、早く着替えて」
華江は兄を急かす。今日は両親の帰りが遅く、家の鍵は閉まっている。そんな日に限って、彼女は鍵を忘れたのだった。
「はいはい」
遥樹は言いながら、靴についた砂を払う。今日の部活動はとっくに終了していて、グラウンドには彼と、今来た華江しか残っていない。ちなみにその華江は、部活後に着替えて兄の元に来ている。
「そもそも何してたの? 独りで」妹の問いに、
「ちょっと考えごとを」
遥樹は答える。
「真面目アピール?」
「ええ……」
そこへ。
「おう、遥樹」眞緒がやって来た。「ん、妹もいるじゃん」
「あ、えっちゃん」そして後ろから。「部活、終わったの?」焔華が顔を出す。
華江の心臓は、どくんと大きく脈を打った。
現れた二人。仲がよさげだが、それもそのはず、彼らは家が隣同士の、いわゆる幼馴染だ。華江は二人のどちらとも仲がいいが、そのいずれとの関係とも違う特別な繋がりが、眞緒と焔華の間にはある。彼女はそれを、素直に受け入れられない。
「どうしたまおまお」
「や、いたから来ただけ。というか着替えろよ」
「はなにも言われたとこだよ」遥樹は妹をちらと見てから、ようやく更衣室に向かった。三人は彼を少し見送る。
「ほのか、あいつが鹿山妹の兄、遥樹――って、流石に知ってるか」眞緒は隣の焔華に言う。「で、妹はどうしてここに? お兄ちゃん子?」そして視線を華江へ移す。
「あ、確か家の鍵忘れたって」焔華が耳打ちする。
そんな和やかな二人とは打って変わって、華江は眼前の光景に胸が苦しくなる。幼馴染。それが壊そうとして壊せるものでも、壊すべきものでもないことは頭では充分理解している。しかし――この感情は。
この嫉妬は。
華江はスッと、二人の横を過ぎて校門へ向かう。
彼らは突然のことに固まるが――通り過ぎようという瞬間、焔華が華江の手首を掴んだ。
「えっちゃん、どこ行くの」
華江はごくりと唾を飲む。今、自分は何をしようとした? 逃げようとしたのか?
すべきことは、それではない。必要なのは信用と信頼。華江はすぐに焔華の手を握り返した。
「やだな、お手洗いだよ。すぐ戻ってくるから」
そう言い残し、彼女は進む方向を変え、校舎内に入る。
焔華は、そんな華江の態度に居心地の悪さを感じている。具体的に彼女の感情を理解している訳ではないが、最近、彼女との間に距離を感じている。一体いつからだろう。漠然とした不安。彼女の心臓は、縛りつけられているようにキリキリと痛む。
○
その日の夜。自分の部屋の窓を開けた焔華は、同じく丁度窓を開けた眞緒と目が合い、話を始めた。彼女はようやく、華江に対する不安を吐露する。
「まだ大丈夫ならそれでいいじゃんか。いろいろやった結果、状況が悪化するのが一番よくない」
「そうと割り切れれば、楽だけど」焔華は唇を尖らせる。
二人は幼稚園から小学校、中学校、高校と、十数年に亘っての仲だ。それだけ長くつき合いがあるということもあり、何でも話し合える関係を築いている。人見知りの焔華が家族以外に一番最初に心を許したのが眞緒だというのも、深く関わっているだろう。
眞緒は、焔華と華江の関係のことを知っている。しかし恋愛初心者なのは眞緒も同じで、アドバイスを求められても何とも言いようがない。
「あれだろ。独占欲。妹、そういうトコあるから」
「そ、そんな知った風な口を。仲よしアピール?」
「いや、そういう訳ではねえけど……」交際相手がいないとはいえ彼も、友人に対して、相手が何を考えているか分からず不安になることはたまにある。そんな時、彼自身はどうしているかと思い出すと、
「一回、ちゃんと話し合ってみた方がいいと思うぜ」
「……うん」
眞緒の提案に、焔華は頷く。彼女としても、それがいいと思っていた。それしかないと思っていた。しかしそれで事態が好転するとは――思い切れなかった。
その思い切りの悪さを知っている幼馴染は、後押しの方法を考える。しばらく考えて、ベッドに立て掛けていたケースからギターを取り出す。
「ほのか」
その声に、彼女は俯いていた顔を上げる。
眞緒はある曲を弾き始めた。
懐かしい曲。二人にとって、思い入れのある曲。二人が大好きな曲。
焔華も自然と口遊み始める。
「マオ、夜に弾くなって言ってるでしょ!」眞緒の母親の声が、階下から聞こえてきた。眞緒は慌ててギターを元の場所に戻す。
二人は、顔を見合わせる。
そして静かに笑い合った。