保科 良空③
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それが、人生初めての、文化祭だった。
自分の中学校のは、一回も行ったことがなかった。……アニメや漫画で摂取する『文化祭』のイメージを、崩したくなかったから。あのキラキラを、現実の斧で裂いてほしくなかったから。
そうして中学一年、二年、三年と過ぎていき。
二つ上の従兄の通う高校を、双子のもう片方と一緒に目指すことに決めて、それが夏休みも終盤の頃だったためオープンスクールを逃してしまい、代替として、文化祭に行くことを提案された。
「文化祭」
私は口に出して言ってみる。隣では輔久が私の顔を覗き込むような視線を寄越している。
「ん、文化祭。楽しいぞー文化祭は」マオはニヤニヤと笑う。彼の笑い方は、人懐っこさに定評があるが、ニヤニヤ笑いといえばただのニヤニヤ笑いだ。そうやって自分の眼鏡で世界を見ていればいいと、輔久に言われたのだ。それ以来、形から入るために伊達眼鏡で過ごしている。
割と似合うと身内では好評の伊達眼鏡である。
「いいじゃん、行こう良空」輔久はどうやら乗り気のようなので、私も特に嫌がる理由もないし、行こうかと思う。
私は頷いた。
「決まりだな。じゃあ詳しい日時とかは追って連絡するから。オレはちなみにコンサートやるよ。大ホールで」
そういえば、軽音楽部であることを思い出すが、彼が楽器を演奏しているところなど今まで一度も見たことがない。まさかボーカル?
まあそんなことは許容範囲だろう。この世はもっともっと裏切りと無関心でできている。
華園高校の文化祭が、楽しさと喜びで満ち溢れていますように。
*
さて、文化祭、である。
双子のもう片方が、少々いろいろあって中学校生活を今まで楽しめてこれていないので、もう大丈夫だろうという復活記念も兼ねて、二つ上の従兄の通う高校にやってきた。
一般客の受付は十時からということで、現在午前九時四十八分、良空と共に校門前の列に並んでいる。
別に自分の学校ではないし休日だから私服でいいと思ったのだが、良空が制服で行くようなので僕もそれに倣った。良空は対して暑くもないのにその上に紺のパーカを着て、フードも被っている。
「…………」
「…………」
双子って、こんなに気まずいものだっけ?
例の件は解決済みとのことで、良空は眼鏡をかけ始めたし、僕もできる限りのことをやり切ったという自負があるから、そこはいいのだけれど、その結果がこれである。
この気まずさが、何に起因しているのかと考えれば、それはもういろいろある。
格好いい台詞とか、格好悪い台詞とか。
ダサい台詞とか、クサい台詞とか。
それが本当に良空のためになったのならば、それは喜ぶべきことだが、それを確認する術は直接訊く以外ないのでそれは皆無に等しい。この間も『自分の眼鏡で世界を見ていればいい』と彼女に言ったが、それで形から入るために伊達眼鏡をかけ始めたのに対して一体どうツッコめばよかったのだろう?
一人で悶々としていると、良空が肩をつつく。「輔久? 行こうよ」
「あ、ああ」僕は我に返り、二人で校門をくぐる――
「お願いしまーす」「お願いしまーす!」「ヨーヨー釣り、是非来て下さーい」「焼き鳥でーす」「お店は五階にありまーす」「是非どうぞ!」「プラネタリウム観れまーす」「お願いします!」「マシュマロ食べに来て下さーい」「十二時からコンサート始まりまーす! 飲食物は持ち込み可となっておりまーす!」「いらっしゃっせー」「実験やりまーす。あ、化学部でーす」「ぜひお越し下さーい」「第二体育館で卓球できまーす」「文芸部お願いしまーす」「手作り雑貨等たくさんありまーす」「絶対楽しいので是非来て下さい!」「こちら割引券となってまーすレジで提示すれば三〇円引きでーす」「ボディペイントできまーす」「お願いしまーす」「十二時半から演奏会します」「是非どうぞー」「美味しいですよー」「いらっしゃいやっせー!」「謎解きゲームやってまーす」「さあどうぞどうぞ楽しんでって下さーい!」
――おおおおう。
気がつけば両手には一杯の広告。陸上部、サッカー部、テニス部、地学部、化学部、文芸部、調理部、山岳部、軽音楽部、吹奏楽部、剣道部、バレー部、美術部――すごい熱量。絶えない活力。止まない大騒ぎ。
*
こういう雰囲気が、苦手だ。
確かにキラキラしてた。思ってた以上に、ギラギラしてた。
自分が参加するのは、ちょっと、キツいものがある。
双子のもう片方はというと、右手には焼き鳥三本、左手には焼きマシュマロ二本、私には両手に水ヨーヨーを一個ずつ持たせている。
――いや、満喫しすぎだろ。
「次どこ行くどこ行く?」すっかり逆上せている輔久をどうしようと思ってビラを眺める。ここはプラネタリウムか化学実験でも見て落ち着いてもらいたい。
私はピッと化学部のビラを取る。
「お、化学実験。四階か」
輔久も別に、普段そんなに喋るキャラだとは思わなかったのだが、まあ、そんな日もあるだろう。私たちは、化学室へ向かう。
「へいらっしゃい!」
「実華菜、だからその屋台のおじさんをやめなさいってば」
そんな声で出迎えられた化学室だったが、どうやら、あまり人は集まっていないらしい。白衣の生徒が、広い部屋に二人だけいる。机の上には焼きマシュマロが大量に並んでいた。
「実験披露しまーす。って、あ、さっきの!」
「ん? 知り合い?」
小さい方の人の言葉に、大きい方の人が訊く。
いや、私は知らない人だけれど、と隣を見るが、彼も同じ回答のようだ。
「さっきビラ渡した人たちだよね。覚えてる」そう言って小さい方の人は嬉しそうに笑った。私の眼鏡を通して、嬉しそうに。
「ああ、確かに」輔久は頷く。
「という訳で顔見知りなんで、叶織先輩、割引きしてあげて下さい! 稼ごうなんていう卑しい気持ちは捨てて!」
「そもそも観覧料取ってないでしょう」
そんな会話の後。
「それでは始めたいと思います。まず最初に用意しますはこちら、焼ミョウバン。カリウムを含む食品添加物です。あ、カリウムって昆布とか若布とかに多く含まれるんだけど、豆腐と若布のお味噌汁あるじゃん? 豆腐は言わずもがな大豆製品、藻類にはカリウム・カルシウム・ビタミンA・食物繊維等が豊富に含まれてて、かなり健康にいいよね。でも食物繊維といえばやっぱり蒟蒻かな? 蒟蒻って美味しいよねー。蒟蒻ダイエットとかもあるし――」
「実華菜」大きい方の人が、小さい方の人を小突く。「本題は?」
「あ、そうでした」小さい方の人――実華菜さんは、そう我に返り、こちらを向く。「このカリウム――燃やした時、炎は、何色になると思う?」
「炎――は、オレンジなんじゃ――あ、いやでも花火――うーん」輔久は顎に手を当てブツブツ呟く。
「……紫」私は知っていた答えを口にする。
実華菜さんはぴたっと止まって、ぎぎぎ、と叶織さんの方を見る。
「叶織先輩~」
「別に当てられたっていいでしょ。まず、実際に燃やしてみせて、第二問やりなさい」
実華菜さんは、盛り下がった感じで紫色の炎を出してみせた。
輔久はしきりに拍手をして、「すごい、なんで知ってたの?」と私に訊いてくる。
「小学生の時、自由研究でやったから。炎色反応」
その内の一つに、カリウムがあったというだけだ。自分でやってみたもの以外は知らない。
「じゃあこれは知ってる? ストロンチウムっていうんだけど」
叶織さんがそう言って棚から瓶に入った粉末を持ってくる。……ストロンチウム。名前は聞いたことがあるが、私の自由研究では、取り扱わなかった。私は首を振る。
「じゃあ実華菜に正解を教えてもらいましょう。はい、答えは?」
「…………」
指名された実華菜さんは、ぼけーっという感じで中空を見ている。
――いや分かんないの⁉ 科学部員なのに⁉
「はいはーい。ストロンチウムは紅色でーす」
私たちは、声のした方を向く。前の入口から、何かの箱を持っている人が、入ってくる。
「鈴先輩!」実華菜さんは嬉しそうに立ち上がり、たたたーっと今入ってきた女子の元へ走っていく。「持ってきてくれたんですねーっ」
「やっぱ秋といえば聴きたくなるよねー。お、お客さんか」鈴さんは持っていた箱を近くの机に置き、こちらに近づいてくる。私は気になり、その箱を見遣る――りーんりーん。この音は。
「『飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し』。風物詩だ!」
鈴虫、か。
「実華菜ー、縁起でもないこと言わねーの」鈴さんは、口は悪いが優しい口調でそう言い、
「じゃあ、あたしの名前にちなんで元素番号五〇番、錫は、何色に燃えるか分かる?」と訊く。
私も輔久も、ぶんぶんと首を振る。
「分かんないかー。常夏は?」鈴さんは叶織さんにも訊いた。
「錫? ……いや、知らないね。聞いたことない」
「実華菜も分かんないよねー。答えは淡い青色。教科書にも参考書にも普通載ってないから覚える必要は全くないよー」そう言って愉快そうにくるくる回る。
「あっそ」叶織さんは不機嫌そうにそれだけ言い、「『あれ松虫が鳴いている、あれ鈴虫も鳴き出した』。可愛いなー」実華菜さんに至ってはまず聞いていなかった。
鈴さんは気分を害した風でもなく、「二人とも中学生?」と尋ねる。
輔久が「そうです。華園受けようかと思ってて」と答えた。
「じゃあその時は、是非化学部においで。あ、生物部でもいいよ。あたし兼部してるから」
「この鈴虫たちも生物部のなんでしょう? 持ってきてよかったの?」叶織さんのその言葉に、
「だいじょーぶ、皆どうせ興味あんのはアホロートルだから。鈴虫ってなんだかんだお店とか駅とかで展示されてるし」
確かに。
家の最寄り駅にも、この季節になると毎年展示されるんだよね。
「それじゃ、又のお越しをお待ちしておりまーす」
そんな風に見送られ、私たちは化学室を後にした。
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そろそろコンサートの時間だと思って、二人で体育館に向かう。
良空もようやく心も体もあったまってきたようで、フードは脱いでいた。
階段を降りていき、右折しようとしたところで、
「きゃっ」
と良空が、後ろに退いてくる。ちらっと前を見ると、二人の女子が、これまたびっくりしたようにこちらを見ている。制服を見るに華園の生徒だ。
「ごめんなさーい」そう言って二人は、体育館の方へ駆けていった。
「何してるのナエ子ー」「だってほのちゃんが――」そんなことを言いながら。
「ぶつかった?」僕は訊いたが、良空は、心ここにあらずといった感じで走り去っていった二人をずっと見ている。
「良空?」
「めっちゃ可愛いじゃん、女子高生……」
「え?」
「いや、何でもない。行こっか」良空は我に返ったように再び歩き出す。何だかなあ。
体育館にて。
F研のコンサートは、はっきり言って、最高だった。
騒ぐマイク。嘶くギター。轟くドラム。その一体感。
観客の熱気。ペンライト。重なる波長。その完成度。
刻まれるビート!
叫ばれるワード!
響き合うハート!
高め合うアート!
マオがギターを弾いてたのは驚いた。普通に上手だったし。歌も上手いし。
その後の吹奏楽部の演奏もなかなかによかった。
音楽ってすごい。
*
「で、どうだったよ、良空?」輔久がそう尋ねる。
帰り道。学校の最寄り駅まで、二人でダラダラと夕方の道を歩く。
私は今日の出来事を回想する。
愉快な化学部員。
可愛い女子高生。
滾るコンサート。
その他にも、ビラの嵐とか、人の多さとか、いろいろと、印象的なことが多い。総括して面白いものではあったと思う。
ただ――自分が華園に入学できたとして。
同様に楽しい毎日を送れるのかといえば――それはまた、別の話で。
怖い――どうしても、怖い。自分が本当にこれから、普通の日常を享受できるのか――私なんかが、享受していいのか――
私は自分の眼鏡に気づく。
この眼鏡を通して、私は、私が見たい現実を見ていればいい。
見たいように見ていればそれでいい。
そんな言葉を思い出し、私は自然と顔を綻ばせる。
いいこと言うじゃん、輔久の癖に?
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「で、どうだったよ、良空?」僕はそう尋ねる。
帰り道。学校の最寄り駅まで、二人でダラダラと夕方の道を歩く。
僕は今日の出来事を回想する。
魅力的な化学部。
お洒落な先輩方。
熱いコンサート。
それらのものを、僕は十分楽しめたが、良空が、双子の片割れが、どう感じたかは分からない。見た感じは割と楽しんでいるようだったが、価値観を押しつけたところでどうにもならないので、僕はただじっと彼女の回答を待つ。
マオの話を聞いた時点では、実際、そこまで期待していなかった、良空の殻を破るチャンスかと思い、掴んでみた訳だが。
中学校生活が始まって――良空は人間の暗部の餌食となった。
僕が気づいたのは、二年生の夏休みが明けた頃――当初は女子の間だけであったことが、男子も参加し始めた頃だった。
どうしてもっと早く気づけなかったのか――中学に入り、別々の部屋をあてがわれたとはいえ、毎日顔を合わせ、共に登下校もしていたのに。
原因が――僕にあったからなのか。
そのことを考える度に、胸が痛む。
僕は回答を待つ。
良空が、笑っているのに気づいた。
「良空?」
「楽しかったよ、とーっても」
彼女は幸せそうな顔でそう答えた。
僕は安堵する。「そっか。そっか、よかった。
――それじゃあ、」
「うん、受験がんばろーね、たっくん?」
僕は目を見開く。
その呼称は。
幼稚園生か――小学生の頃には、確かに用いていた愛称。
使わなくなっていたのは、もしや彼女からのサイン(サイレン?)だったのかも知れない。
それを再度、使ったということは。
使ってくれたということは。
「そうだな、らー」
僕はそう答え。
二人の道を歩いていく。
この道はきっと、明るい未来へと続く道だ。
眼鏡を通して見るまでもなく。




