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第八話 指切りの約束

 水を飲むために布団から身を起こす。

 すぐ横からは大きないびき声が聞こえていた。

 彼の名はルドルフ。自分が今いる家の主であり、狼の獣人、そして自分の命を救ってくれた救世主でもある。

 そんな彼は畳の上で布団も敷かずに薄手のタオルだけを被って眠っている。それはこの家に布団が三人分しかなかったからだった。申し訳なさそうにする自分に彼は「何のために獣人が分厚い毛皮を持ってると思ってやがる」と言って見せたのだ。


「…………」


 時刻は既に深夜に迫りつつある。自分は彼を起こさないようにそっと部屋から出る。するとすぐに嗚咽の声が聞こえた。それが聞こえてくるのは隣の部屋からである。泣いているのはティナだろう。

 自分は部屋を素通りして台所に向かった。台所に入る前、居間から明かりが漏れているのが見えて視線だけ動かしてみると、白髪の少女が囲炉裏の前に座って銃の手入れをしていた。自分はそれも素通りして台所に入った。

 台所の隅には水瓶が置いてあった。自分は柄杓で水を掬うと近くのコップの中に入れて一気に飲み干した。


 乾いた喉が、熱を持った喉がキンキンに冷えた水で収まっていく。

 自分は天井を仰いで深く息を吐いた。

 それから台所を出て、ティナのいる部屋の前に行った。そして少し悩んだ後に声を出す。


「……入るぞ」


 と言って少し待ってから襖を開けた。彼女は部屋の隅で布団に包まって座って泣いていた。


「隣、座るぞ」


 自分は彼女の隣に座る。そして啜り泣いていた彼女は顔をあげて、自分の顔を見るなり大粒の涙をぼろぼろと溢し始めるのだ。


「私のせいで……ごめんなさい……っ」


 それはおそらく自分の頬の傷を見てだろうか。鼻の横の骨のあたりにできた切り傷はまだ赤みを伴っていて、触ると痛かった。


「優しいな、君は」


 怪我をして誰かに泣かれたことなんて初めてだ。これまでに自分が怪我をして向けられた視線の多くは、憎悪と嘲笑だった。


「でも、君のせいなんかじゃない。だから、そんなに自分を責めなくていいんだ」


 それはきっと、自分が言わなければならない言葉だった。そのことを言うのは、自分の義務であり、大人としての責務であり、そして何よりも、自分が彼女にしてあげたいことだった。


「みんなが死んだのも、お祖父ちゃんが死んだのも、それにこの頬の傷だって、君のせいじゃない」

「違います。私のせいなんです。みんなが私に言ったんです。私は生まれちゃいけなかったんだって、生きてることが罪なんだって。おじいちゃんだってきっと私のことを。……だから、私はっ」


 彼女はまるで訴えかけるような口調で言った。それが、とてつもなく嫌だった。どうして、あたかもそれが当然かのようなことを、自分自身の口で言えてしまうのか。どうして、彼女にそんなことをさせてしまうのか。

 胸に手を置き、歯を食いしばり訴える彼女の姿は見ているのが辛かった。


「違うよ。君にそんな罪はない。君は生きていていいんだ」


 自分は彼女の頭を撫でた。


「君は、ゆっくり眠っていいんだ。ご飯を食べたっていい。お菓子を食べて、笑ったっていい。歳の近い女の子と恋の話をしてもいい。君のお祖父さんは最期に言っていたんだ。すまなかったって。だから、もう苦しまなくていいんだ」


 頭を優しく撫でる。そうしていると従兄弟のことを思い出した。結構歳が離れていて、泣いてばかりいる従兄弟のことだ。従兄弟が泣いたときも、よくこうして頭を撫でた。

 それから彼女の瞳を覗き込んだ。涙を流す金色の綺麗な瞳が自分の顔を見上げていた。


「大丈夫。何があったってきっと大丈夫。そう約束する。ザッシューナ家の名にかけて」

「ざっしゅーな……?」

「そう、ザッシューナだ。ソラ・ザッシューナ。それが俺の名前だ。君の名前はティナだよね?」

「……そうです。ティナ、それが私の名前です」

「じゃあティナ、約束をしよう。ゆびきりだ」

「ゆび……きり?」

「そう、ゆびきり。ザナの古いおまじないだよ。小指を出して」


 おそるおそる、ティナは小指を伸ばした。その小指に、自分の小指を絡ませる。そして自分は呑気な声で歌ってみせる。


「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーん、のーます。ゆーびきーった」


 歌い終わると自分は小指を離して、笑顔をして見せた。


「な? これで俺は約束を守らなくちゃいけなくなった。じゃなきゃ針を千本も飲まなきゃいけないんだ」

「針を千本……?」

「そう。だからきっと大丈夫」

「本当に……いいんですか?」


 泣きながら、声を震わせながら彼女はぽつりと言った。縋るように自分の服を掴んで聞いてきた。


「本当に、私は生きていてもいいんですか? ご飯を食べてもいいんですか?」

「ああ。いいんだ。もう我慢しなくていいんだ」


 彼女は泣いた。今までも泣いていた。でもそれはきっとどこか感情を押しつぶしたものだったのだと思う。今は大きな声を出して、誰に遠慮するでもなく泣いた。


「よっ……と」


 しばらく泣いて彼女は眠ってしまった。それを自分は布団まで連れて行って寝かせた。

 なんだかどっと疲れてしまった。


「あっ」


 もう寝ようと思って部屋から出て、そういえば彼女はまだ起きているのだろうか、と思って居間の方を見たら、その彼女と目が合ってしまった。

 すると彼女はこいこいと手招きした。


 居間に行くと、少女は囲炉裏の前に座ってお茶を飲んでいた。先ほどまで手入れしていた銃は壁に立て掛けられている。前の大戦で使われていたウッドストックの、それこそ骨董品のようなボルトアクションライフル。海外のコレクターには高く売れるだろう。


「あなたも、飲む?」

「え?」


 少女の質問の意味がわからなかった。しかし彼女が「お茶」と言って理解した。


「いいや。構わない。さっき水を飲んだばかりなんだ」

「でも、リラックスにはいい。それに温まるもの」


 感情の機微に乏しい声色。自分は彼女の顔を見てその心理を探ろうとした。

 白い肌、整った顔だち、長いまつ毛、綺麗な青い瞳。それらを持っていながら、しかし彼女は感情だけは持ち合わせていないようだった。


「疲れたを顔してる」

「そりゃ、ここ数日は歩くことが多かったから」

「そういう意味じゃない」


 自分を見つめるその瞳は、まるで全てを見透かしているようだった。それの目の前では、もしかしたら自分の痩せ我慢など、全てお見通しなのかもしれない。


「……わかった。ありがたくもらっておく。迷惑をかけてすまない」

「いいわ。ティナを守ってくれたお礼。それに──」

「それに?」

「……なんでもない」


 自分は彼女から温かいお茶の入った湯飲みを受け取った。

 どうやら気を使わせてしまったらしい。飲むと、確かに体が少し温かくなる。


「ソラ・ザッシューナ。驚くだろうが、ザナ国防陸軍の一等兵だ。ヘリが墜ちて、彷徨って、いろいろあってここにいる。信じてもらえないかもしれないが、何も悪いことをするつもりはない。ただ、基地に帰りたい。それだけだ」

「……どうして私にそんなことを話すの? 私は見ず知らずの他人。それに北部で人間が身分を明かすことの危険性は軍人のあなたなら理解しているはず」

「まぁ、そうだけど。君は大丈夫そうだ。それに黙ってて後々バレたときの方が厄介だ。それなら、最初から明かしてた方が気も楽でいい」

「軽率。私が外国軍を嫌ってる人たちに話したらどうするつもりなの?」

「……どうしようか。でも、さっきは命張って助けてくれたから、信じたい。……いつまでも君じゃ失礼だな。名前は?」

「……ノエル。ただの、ノエル」


 ただのってなんだ、ただのって。タダノという苗字なのだろうか?


「そうか。よろしく。ノエル・タダノ」

「そんな名前の人は知らない」


 やはり苗字ではなかったらしい。当たり前のはずなのにどうして考えてしまったのか。


「ソラはどうしてティナを助けてくれたの?」

「どうしてって……」

「人間のあなたがこの北部にいるということの意味をあなたも理解しているはず。それなら一刻も早くあなたは味方の勢力圏内に行かなきゃいけないのに、どうしてあの子を助けたの? あの子の村が愛国戦線に襲われたのは知っている。なら、あなたがあの子を助けてくれたんでしょう?」

「まさか女の子を見捨てられないし」

「……ロリコンさん?」


 キョトンとした顔のまま、彼女は小首を傾げた。それに少しドキッとした。しかしそんな自分をすぐに正した。


「いや違う……。じゃあ、人道的理由って言えば納得してくれるのか?」

「それなら、わざわざ寝かしつける意味がわからない。どうしてあそこまでしたの?」


 どうしてあそこまで。もっともな意見だ。自分だってそう思う。随分と自分らしくないことをしたと思う。でも、理由はわかっていた。


「……従兄弟を思い出したんだ」

「従兄弟……?」

「ああ。ザナにいるんだ。父親の妹の子供で、今は七歳になる。正月に爺さんの家に行くとよく遊んだんだ。これが泣き虫のくせして、悪戯ばっかりするもんだからいっつも怒られてて、その度に泣いてて。俺が大学に通ってたときなんてよく振り回された。それを思い出したら放っておけなかったんだ」


 従兄弟はなかなか手のかかる子だった。よく笑い、よく泣き、よく拗ね、よく走る。自分がとっくの昔に無くしてしまったものを持っているあの子のことが、どこか羨ましかった。


 和やかな気分になりかけて、ハッとした。


「仲、良いの?」

「どうだろうな。懐かれてはいると思うけど、俺、叔母さんに嫌われてるから。あんま会わせてもらえないんだ」

「……そう」


 お茶を飲もうと湯飲みを持つ。しかし自分はその中身を飲むことができなかった。


「…………」


 手が震えていた。少ししてその震えが止まると、お茶を一気に飲み干した。


「お茶、ありがとう。美味しかったよ。話せてよかった」


 そう言って、立ち上がる。


「ティナのことありがとう。私にはできないことだったから」


 呟き、視線を落とす彼女の表情にはどこか影があった。

 自分は部屋に戻って布団の中に入った。少しすると意識はどこか深いところへ沈んでいった。

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