第七話 1対20
『お前なんてクソ野郎だ』
声が聞こえる。
『お前のせいだ!』
声が聞こえる。
『お前さえいなければ!』
……声が聞こえる。
『お前さえいなければ! 僕の父さんは死ななかったんだ!』
やめてくれ……。
「…………さぶ」
目を覚まして初めて知覚したのは寒さだった。身を斬るような寒さに肩をすくめる。
暗闇の中でストーブを手で探って、そんなものはないと気づいたのは「ぅえっくしゅん」と一度くしゃみをして寝ぼけた頭が覚醒したとき。
宙に何度も手を伸ばしては何度も何も掴めずに宙をきってを繰り返してようやく電球の紐を掴むことができて、カチッと音がするまで引いた。
電気は一度光がつきかけた後、再び薄暗くなって、何か力をチャージするような時間が少しあった後、眩い光がついた。ピンピンと音が鳴るが、果たしてそれがどうしてなのかは自分にはわからない。
「冷った! てかいった!」
畳ばりの居間を出て板張りの廊下に出ると、底冷えのあまりの冷たさに大きな声が出る。この痛みはまさにザナの爺さんの家以来だ。片足を上げて冷たい足の裏を手で温める。というか窓の外が暗い。長く眠り過ぎたようだ。
と思って、すぐにハッとした。狐耳の少女の夜ご飯を作っていない。腕時計で時間を確認するともう夜の八時過ぎだ。
どうせ作ったところで食べてもらえないのだろうが、だからといって作らないわけにもいかない。
「すまん。夜飯今から作るからな」
襖の前でそう言うが、すぐに異変に気がついた。なんというか、気配がしないのである。
「入るぞ?」
なんとなく嫌な予感を覚えて襖を開けると、やはりというかなんというか、そこには誰もいなかった。
どこだ? どこに行った?
他の部屋? いやまさか。外のトイレかもしれない。ならばわざわざ確認しに行くのは野暮というもの。しかし──
玄関に行くとやはり彼女の靴はなかった。これで彼女が外にいることは確定だ。トイレに向かって一声かけてみるが返事もない。気配もなかった。となれば問題はどこへ行ったかだ。
誘拐の可能性は最初に潰した。誘拐だとすれば靴がなくなっていたことが不自然だし、騒ぎが起きればいくら寝ていても気がつく。家の中のものが物色された様子はなかったから誘拐が主目的だと考えられるが、だとしたら狐耳の少女をターゲットにする理由がない。だから誘拐の可能性はない。
となれば自主的に出て行ったことになる。
「あ……」
歩いていた足が止まった。彼女は自主的に出て行った。自分の意思でだ。もしそうだとしたら自分にどうこうする権利はない。彼女の面倒を見ていたのはあくまで成り行きだ。もし彼女が自分の意思で出て行ったのなら、それを止めることはできない。彼女をここで引き留めるよりも、何もしないでいた方が自分にとって都合がいい。
そうすれば自分はなんの気兼ねなく南へ向かえる。ここで彼女を引き止めれば、また彼女が立ち直るまで待たねばならない。ならば、ここで彼女が自分の意思で去ってくれれば自分に追う理由はない。道義的な理由がつく。面倒なことを全て捨てていい理由がついてしまう。
これから先、南へ歩いて向かうとしても、体力の低い子供の存在は障害となって立ちはだかるだろう。食料も二人分手に入れなければならない。だからこれは絶好のチャンスだ。
「見捨てるべきだ……」
いいじゃないか。それで。
他人に関わったところでどうせ碌なことにならない。ここらが潮時だ。手を引くべきだ。そうした方がいい。
深入りしすぎれば情が湧く。そんなもの、自分には不要だ。必要のないものだ。要らないものだ。捨てなければならないものだ。あの時のようにゴミ箱に捨てておけばいいものだ。
しかし──
『孫を頼む。ザナの兵士よ』
名も知らぬ老獣人の声が頭をよぎる。
もしあの老獣人が自分を助けたりしてくれていたら、恩返しということで少女を助ける理由もできたのだが。
そして狐耳の少女の姿も思い浮かぶ。
やつれた髪、澱んだ瞳、細い腕、ボサボサの尻尾。そんなハーフの女の子。そんな姿が思い浮かんだ。
「…………行くか」
──やっぱり、見捨てられない。
どんな合理的な理由があったって、利己的な理由があったからって、助けるメリットが少ないからって、それだけで見捨てることはできない。
彼女の行きそうなところと考えて一つだけ思い浮かんだ。しかしその場所までは結構な距離がある。加えて餌の確保が難しい馬は既に野に放してしまった。
「仕方ない」
ため息まじりに言うと、念のために銃を肩に背負って一歩を踏み出した。なるべく早く着けるように駆け足で。
◇
しんしんと降る雪の合間に、自分の吐く白い息が混ざった。吸い込む空気が冷たいと肺が痛くなる。こんなに息が苦しくなったのはヘリを墜とされたときに走って以来だったか。結局あの後倒れた自分を助けてくれたのは誰だったのだろう。まぁ、それは今はどうでもいい。
「やっぱりここに居たか……」
町の中ではない。虐殺の場所からファルナの町に行く途中の、名もない森の中。その林の中でも一際大きな木の前で佇む少女がいる。後ろ姿だけでわかる。狐耳の少女だ。そしてその大きな木のもと、申し訳程度に積み上げられた石の下には、彼女の祖父が眠っているはずだった。
この場所しか考えられなかった。何故なら彼女にはこの場所しかないのだから。
しかし、どう声をかければいいのかわからなかった。
「……私のお父さんは、誰だかわからないそうです」
沈黙を破ったのは意外にも少女だった。か細い、何かを堪えるように震えた声だった。
「私のお母さんは南の町に行ったとき、知らない国の、知らない人間の兵士に襲われたそうです。それでお母さんは私を産んですぐに私を捨ててどこかに行ってしまったそうです。おじいちゃんがよく言ってました」
ルグドラクールには、もともと人間という種族はいなかった。だからハーフという種族もほとんど存在しなかった。彼女の年齢を考えれば、彼女の父親は間違いなくどこかの国のPKOの兵士だ。このルグドラクールの治安を守るため、国連の名の下に派兵された兵士。
「おじいちゃん、怒るんです。私を見ると、お母さんとは似てないって言うんです。孫なんかじゃないって言うんです」
似ていないはずだろう。獣人と人間との間に産まれた子供は、人間寄りの姿をして産まれてくる。獣人の特徴として残るのは人間の耳とは別に着いた獣の耳と尻尾、外見に残るものとしてはそれだけだ。
「でも、私別に頼んでないじゃないですか。こんな姿に産んでくれなんて頼んでないじゃないですか。でも、そんなおじいちゃんでも私は死んでほしくなかったんです。おじいちゃんは私のことが嫌いなのに私を助けて、そのせいで死んだんです。しかも、私が逃げたからたくさんの人が……私が、こんな見た目だから……」
「──っ!」
彼女は拳を握りしめ、肩をわなわなと震わせ、今まで溜め込んできた感情をすべて吐き出すように言った。しかしそれは怒りではなかった……と思う。たぶん、怒りじゃなくて嘆きなんだ。世界に困惑した嘆きの声なんだ。
「どうして私はこんな人間みたいな姿なんですか? どうして私の体にはおじいちゃんみたいな毛がないんですか? どうして私の体はごわごわしてなくてつるつるなんですか? 私だってこんな姿に産まれてきたくなかったのに……っ。私には関係ないのに……それなのに……みんな私がこんな見た目だから……私がっ」
嗚咽まじり、涙まじりの嘆き。おおよそこの歳の少女がしていいものではない。いや、誰だってしちゃいけない。こんな悲しい声を出さなきゃいけない人がいる世界なんて自分は嫌いだ。
止めどなく溢れ出る大粒の涙を、彼女は自身が忌み嫌うその柔らかく、細い腕で何度も拭う。そんな彼女に近づいて、自分は強く言う。
「……君のせいじゃない」
それは直感的に出た言葉だった。何かの計算で言ったわけじゃない。彼女を励まそうとして無理やり選んだ言葉じゃない。本当にそう思ったから口にした言葉だった。そして自分は言葉を続けようとした、その時だった。
「──ッ!」
音がした。
例えるのならそれはガスの抜けるような音だ。まるで振った炭酸ジュースの蓋を開けたときの音を何倍にも凝縮したような音だった。
自分の体が動いたのはもはや本能的なものだった。
少女の体を抱いて、押し倒すように地面に伏せた。
直後に聞こえたのは爆音、それに迫り来る衝撃波。
地面に積もった雪が大量に巻き上がり、それは辺りが見えないほどになる。
──対戦車ロケット。
「大丈夫か!」
自分は少女にそう聞く。彼女は酷くむせている。が、生きている。
立ち上がると彼女と共に木の幹に隠れて銃を構える。
舞い上がった雪が晴れると徐々に敵の姿が明らかになってくる。
敵の数はおおよそ二十名ほど。いずれも獣人サイズの歩兵銃か無反動砲で武装している。
夜戦用の暗視装置もなく、頼れるのは月明かりだけでここは天からの光が届きにくい森の中。そして二十対一という数的不利。最悪としか言えない状況だ。
「撃つなッ! 撃つのなら反撃するッ! こちらはザナPKOであるッ!」
「出鱈目言うな! 外国の軍隊がこんなとこにいるわけねえだろ! ハーフは全員殺す! それが我ら愛国戦線の、我ら獣人の宿命!」
警告に返ってきたのは鉛玉だった。
大口径の銃弾が容赦なく木を抉る。
どうして愛国戦線がこんなところにいるんだと叫びたくなる。
警告はした。攻撃も受けた。これで撃ち返しても文句は言われない。しかし──
「クソッ!」
──いや、躊躇うな!
躊躇を噛み殺して反撃を開始する。
自分が今着ているのは国防軍の迷彩服ではなく、ルグドラクールの伝統的な衣装。これで自分は立派な便衣兵である。国際法違反だ。愛国戦線のクソッタレ共めッ!
「──ッ」
腕と肩に伝わる心地よい振動、そして鼓膜に響く爆音。しかし弾丸の雨が飛び交う中では狙いなどつけられるはずもない。あまり長時間木の幹から顔を出せば絶対に死ぬ!
しかしこのままではジリ貧だ。再びRPGで攻撃されればこんなやわな遮蔽物なんて吹っ飛ぶ。
「…………」
諦めたくなる。死んでしまいたくなる。怖くて仕方がない。
自分は少女のことを見る。彼女は人間の耳を塞ぎ、獣の耳を伏せ、震えてぶつぶつと何かを言っている。その姿が自分の記憶と重なる。
拳を握る。グリップを、マガジンを握る手に力を込める。歯を食いしばる。
──やっぱり、見捨てられない。
「……君はここにいるんだ。絶対に顔を出しちゃいけない。いいね、絶対にだ。わかったね」
短く、息を吐く。
首から紐に吊るされたものを、自分は胸元から取り出す。それはドッグタグではない、自分が持つもう一つのもの。お守りであり、忌むべきもの。
まるで何かの牙を模したようなネックレス。不思議な材質でできていて、夏でも触ると少しひんやりとしているもの。それに口づけをした。
──我を守り給え。
少女が頷くのを見ないまま木の幹から飛び出した。
「あああああああああああ!!」
注意を惹くため、そして勇気を出すため雄叫びを上げ、駆ける。
雪に足をとられそうになるが走る。
再びロケットの飛翔音が聞こえる。自分は雪の地面にダイブして伏せた。それとほぼ同時に爆発音がして雪が舞い散る。自分はその場に伏せたまま敵がいるであろう方向に銃口を向け──待つ。
賭けだった。もし走っている途中で撃たれたら、ロケットが直撃していたら自分は間違いなく死んでいた。
「…………」
空気中に舞い上がった雪のベールが自分の姿を隠す中、自分は待った。
マグニファイアを介してドットサイトを覗く。敵の弾が自分の頬のすぐ横を通り過ぎて血が流れる。沸きそうな頭を冷静にし、リラックスして敵を探す。
雪のベールが段々と薄くなる中──見つけた。
「──」
トリガーを引いた。
距離はおよそ150。人数は三人。放たれた計六発の銃弾は敵兵を絶命させた。弾を撃つとすぐに跳ぶようにして木の影に隠れた。
心臓がバクバクとうるさい。生きた心地がしない。自分は人を三人も殺した。だというのに実感は全然湧いてこなかった。
それでも自分は木の幹からたびたび体を出して反撃する。
「無理か……」
敵を三人倒した。しかし、敵の攻撃が弱まることはなかった。
もう一度同じことをやれと言われてもできない。あんなバカみたいなことは一生に一度できればいいものだ。それに敵だって同じ失敗を二度もしないだろう。おそらくロケットはもう使わないはず。
最初からわかっていたことだが、流石に一人でこの距離で、この人数は厳しい。何せ自分は換えの弾倉すら持ってきていないのだ。逃げるにしても距離を詰められ過ぎている。自分一人ならまだしも、怯えて走れるかどうかもわからない少女も一緒となると難しい。
──タンッ!
まともに応戦しているようではすぐに弾薬がなくなってしまう。そのため敵の様子を伺っていると、突然これまでとは違う銃声が聞こえた。しかもそれは側面から聞こえた。
いつの間に回り込まれていたのかと驚いたが、それに倒れたのは自分ではなかった。
倒れたのは木の影に隠れた獣人だった。どうやら肩を撃たれているようだ。しかし誰が?
自分が疑問に思っている間に更にもう二度発砲音が聞こえ、獣人が更に二人倒れた。発砲の間隔から見て自動小銃の類ではない。おそらくボルトアクションライフルだろう。
「ウルアアアアアァァァァァァ!!」
凄まじい雄叫びと共に今度は凄まじい連射音が聞こえてきた。
側面から獣人たちに向けてむやみやたらに連射される銃弾。
「…………」
撃ち終わるまでに百発は連射されていたはずだった。その暴虐の嵐が過ぎ去った後、生きている獣人は五人に満たなかった。
「死にたくねえなら武器を捨ててとっととどっか行きやがれ!」
野太い声だった。それが放たれた瞬間に一人の獣人が反撃を試みようとしたが、自分が射殺した。それを見て他の獣人は武器を置いて逃げていった。
銃を構えたままそれを見届けた後、木の幹に背中を預けて座り込み、空を仰いで息を吐いた。
「…………」
どうにか乗り切ることができた……。
重い腰を上げて自分は歩いて少女の元へ向かう。
「大丈夫か?」
未だに目を閉じ、耳を塞いでいる少女の元で膝を折り声をかける。おそるおそる彼女に触れると、ビクッとした後に目を開けた。
ゆっくりと上げていた顔が、こちらを顔を見た瞬間に驚愕に染まった。
「私のせいで……ごめんなさい……」
最初は何を言っているのか、彼女がどうしてそんな反応をしているのかわからなかった。でも、何か違和感を感じて頬を拭ってみたときに原因がわかった。
敵の銃弾でできた頬の切り傷からかなり血が流れていたようで、拭った服の袖が真っ赤に染まっていた。
「おーい、お前ら大丈夫かー?」
「ああ。大丈夫だー」
遠くから聞こえてきた野太い声に自分は口に手を添えて返した。
「今からそっちに行くー。撃つんじゃねえぞー!」
こちらにゆっくりと歩いて来たのは二人。一人は獣人だった。見たところ狼の獣人のようで、ガタイもかなり良い。しかも彼が手に持っているのは軽機関銃だった。これを乱射されたと考えると流石に敵を同情しそうになった。
そしてその後について歩いてくるのはハーフの少女だった。おそらく狼の獣人とのハーフ。しかし、その姿を見て自分は息を詰まらせた。
彼女は雪のように白い髪の毛をしていた。腰のあたりまで伸ばされたその美しい白髪は、彼女が動くたび、小さな風が吹くたびに左右に揺れている。そしてその白髪の中からは白い狼の耳が伸びており、腰からは白くふさふさな尻尾が伸びている。
ルグドラクールの伝統的な衣装の上からカーキ色のモッズコートを羽織り、そのダボついたシルエットの上からでもわかる華奢な肩には、スリングを通してあるえらく旧式のボルトアクションライフルを背負っている。でも、まるで雪の精霊のように自分には見えた。
近づいてきた彼女は、自分の瞳を覗き込むように腰を屈めた。
年齢はどのくらいだろうか? 間違いなく自分よりかは年下だ。しかし自分と共にいた狐耳の少女よりかは年上。中学生……にしては大人びている。おそらくは高校生か大学生くらいなのではないだろうか。
整った顔立ち、白く美しい肌、感情の機微がない表情、そして何よりも──青く美しい瞳。
まるで深い海の底から持ってきたような青色をした瞳。その瞳を直視しているとこちらが吸い込まれてしまいそうな瞳だった。それがどこか恐ろしい。
どうして彼女が自分の顔を覗き込んでいるのか、どうして一言も発しないのかはわからなかった。しかしふとその焦点が自分から外れ、狐耳の少女へと向いて、
「──ティナ?」
と言って小首を傾げた。その声はまるで静寂な洞窟の中に一粒落ちる雫のような澄んだ声だった。
「おお! 間違いねえ! お前ティナじゃねえか! 村が襲われたって聞いてたけど無事だったのか! ドミニクの爺さんはどうした?」
狼の獣人が目を見開いて驚きながら言った。ドミニクという名に聞き覚えはないが、おそらくティナと呼ばれた少女のお祖父さんのことだろう。
「……みんな、死んじゃいました……っ」
問いかけにティナはぼろぼろと涙を溢しながら答えた。
しかしどうやらティナと言うらしい狐耳の少女と、助けてくれた二人は知り合いらしい。
狼の獣人は目を伏せた。
「……そうか。とりあえず、武器と銃を回収したら俺らの家に行く。人間、お前もついて来い。せっかく助かった命だ。このルドルフ様に多大なる感謝をしな」
どうしてそう思ったのだろうと思いながら頭を掻くと、すぐにわかった。戦闘の途中でフードが脱げてしまったらしい。これではそうなるはずである。
それにルドルフだと?
「あんた、ファルナの町のルドルフか?」
「ああ、そうだが何か問題があるか?」
「そうか。あんたが。……すまないがその子のお祖父さんに言われてあんたの家でここ数日寝泊まりしていた。勝手に使って申し訳ない」
「……ま、いろいろと事情があるだろうからな」
ため息まじりにルドルフは歩き出す。
それから倒れた敵の武器弾薬を回収し、家に向かった。
遺体を探るときになって自分が本当に人を殺したことを知って、吐きたくなった。