第三話 虐殺
2020年12月21日・ルグドラクール共和国・ラシェンタの町
『ニベールの町では残虐非道なザナの人間たちの手により、既に300を超える罪なき同胞たちが殺害された! 野菜売りのべルーグの妻、アイシュが殺された! 奴らは妊婦のアイシュの腹を生きたまナイフでかっさばき、腹の中の赤子を掴むと、それを地面に叩きつけた! 家具職人のダベルの一人息子、ナルグが殺された! 家を焼かれ、父と母が生きたまま焼け死ぬのを目にしたあと、柱に縛り付けられ、奴らの銃剣突撃の練習台にさせられた! このような行為を国の内側から手引きした貴様ら穢れた血を、北部最大勢力の我らルグドラクール愛国戦線は、このダガームは決して許さない! 貴様たちは過去の反省もせず、またもや我ら獣人を不幸にした! この罪を償うには貴様らの死を以て償う他になしッ!』
ソラの視線の先には広場の台に乗った一人の獣人がメガホンを手に叫んでいた。男のすぐ横には既にこと切れたハーフが一人転がっている。丸太に首を乗っけた彼は数秒前、抵抗虚しく頭を拳銃で撃ち抜かれたのだった。そして正に今、でっぷりした獣人の部下の獣人がその体を蹴って丸太の上から退かした。それをソラは少し離れた草むらに隠れて見ていた。
獣人の男は犬系で、歳は40を過ぎている。獣人はただでさえ人間よりもデカいが、体格に比して小さい身長の関係もあり、でっぷりと太った体がよりその姿を顕著に表していた。
彼の話ではザナ国防軍が北進して虐殺を行ったらしい。そんな装備も人材もPKOには足りていないというのに。
弾薬は敵が本気で攻めてきたら一日持つかどうか、兵士のほとんどは戦闘が得意とは言えない工兵たちだ。あの基地で戦闘ができる兵士なんてせいぜいが三百人。加えて戦車は一輌もなく、軽装甲機動車も輸送用トラックも基地を防御するなら兎も角、どこかに攻めるのだとしたらまったく足りない。ヘリだって、一機が撃墜されたのだからしばらくは敵地を飛ばしたくないだろう。
それに愛国戦線が北部最大勢力というのは誇張しすぎだ。北部の最大勢力は王党派と呼ばれている連中だ。愛国戦線なんて規模的に見ても王党派と比べれば三流もいいところだ。
あの家で目を覚ましてから3日が経っていた。今日背中の痛みがひいたために外に出て南へ向かっていたら、どこからか声が聞こえてきて、その場所に来たらこれである。
その場所は町だった。ソラはその町の外にある丘の上からその様子を見ている。
広場には獣人と人間のハーフたちが集められていた。そしてそんな彼らを監視するように広場の周りには銃で武装した獣人の兵士たちが囲んでいる。そして更にその周りをこの町の住人と思われる獣人たちが囲んでいた。住民たちは兵士たちの凶行を止めるどころか、熱狂の渦の中にいるようだった。
完全にアテが外れた。
獣人と人間とのハーフに見える姿ならば町に入ることも、そこで食料を調達したり宿を拵えたりできるだろうと考えていたが、これを見たあとではそんな考えが甘かったと思わざるを得なかった。せっかくハーフに見えるような民族衣装を着たのに、これではなんの意味もない。今自分がこれまで生きてきた中でも見せたことがないような最大限の笑顔で町に入っても、彼らはいい獲物を見つけたとばかりにあの広場に連れていくだろう。
目の前で殺されているハーフたちと、殺された仲間たちの姿が脳裏で重なって、ソラは口の中を噛んで眉を顰めた。
悔しいが、彼らを助けることは出来ない。軍人である以上、ソラにも守らなければならない規則がある。敵を殺すときにももちろんそれはある。それを違えてしまったらソラはすぐに軍人ではなく殺人者になってしまう。
それに敵の数が多い。この数をすべて排除するのも、この数から逃げるのことも出来そうにない。
それでも、この場でこうしているのは何故だろう? 助けられないはずなのに自分は何故この場に留まり続けるのだろう?
また新たにハーフが両脇を獣人の兵士に抱えられて丸太の上に首を据え置かれた。そのハーフの男の歳は二十代前半くらいで恐怖に顔を歪めている。連れていかれる途中もハーフは抵抗していたが、獣人にはそんなささやかな抵抗は敵わない。
そもそもからして、骨格からして違うのだ。ハーフの体格は人間と変わらない。外見的には人間に耳と尻尾が生えただけなのだ。
「頼む! 俺は何もしてないんだ! 俺はこんな見た目だが心は獣人だ! なぁ、頼むよ……っ」
暴れながら男が喚いた。その光景を見たでっぷりした獣人は無表情のまま、ハーフの男に銃口を向けている部下を呼び出して耳打ちをした。
それに頷いた部下の獣人は無造作に丸太に刺さっていたナタを手に取った。そしてハーフの男に向けて大きく振りかぶる。ハーフの男が大きく目を開くのがハッキリと見えた。
「──ッな!?」
ソラは片眉を上げて口を開けた。
獣人が振り下ろしたナタはハーフの首に深々と刺さっていた。ハーフは痙攣を起こしながらもナタを取ろうとしており、首からは血が一定の間隔で──とまで確認してソラは目を塞いだ。
自分の顔面が真っ白になっているのが分かった。あまりに残酷すぎる殺し方にどうしようもなく気持ちが悪くて吐きそうだった。
銃殺ならばまだいいだろう。しかし目の前のこれはなんだ? まるでショーではないか。どうしてわざわざこんな殺し方をする必要があるのか。
荒い息で呼吸したまま銃の照準をでっぷりした獣人に合わせる。
「フゥ──────」
だが弾は撃てない。こんな状況でも心はまだ冷静さを保っていた。
広場ではハーフたちがざわめいていた。しかし予想よりも彼らは落ち着いていて、困惑しているものの暴動が起こったりその場から逃げ出そうとしたりはしていない。
大人しくしていれば自分だけでも見逃してもらえるとでも思っているのだろうか?
心が苛立っていく。
集められたハーフたちの中に子どもがいると気がついたのはそんな時だった。
ハーフの人混みの中で四方からおしくらまんじゅうをされて揉みくちゃにされている小さな少女だった。金髪で、狐の血が多く混ざっており、大きな耳が特徴的だった。垂れ目とまでは言わないが、優しそうな瞳をしている。そして着ている服は他のハーフと比べると多少綺麗に見えた。もしザナに生まれていたのなら、彼女は今ごろ小学校高学年であっただろう。
『今、ここで断罪を受ける者たちは、この村そして周囲の村で潜伏し、我ら獣人の情報を密かに人間どもへ流していた者らである! 中には女や子どももいるが、容赦することはない! 我らが神たるカンリシャの断罪は、全ての咎人に平等に与えられるからである!』
他にもいないか探してみるが、子どもは彼女一人のようだ。
彼女も殺されてしまうのだろうか?
そう考えてソラは奥歯を噛み締めた。
大人なら死んでもいいという訳では無い。しかし子どもまで殺されるというのはあんまりではないか。
だが何も出来ないのだ。もしここで彼らを奇跡的に助けだせたとしても、その後彼らが行く場所は何処にもないのだ。
味方の前線まで連れて行くことは現実的ではない。あんな大群を連れて歩いていたらすぐに見つかってしまう。近隣の村に逃すことなら、もしかしたらできるかもしれない。しかしそうしたところですぐに愛国戦線の兵士が来て同じ結果になることだろう。そもそも食い扶持を持たない余所者の、それもハーフを受け入れてくれる村など存在するかも怪しい。酷な言い方にはなるが、彼らに生きる道はもうないのである。
心の中でそう言葉にすると、ふっと体から力が抜けた。
──この場から去ろう。
自分にできることはない。このままここにいても敵に発見されるリスクが高まるだけだ。自分がこの場に留まり続ける意味は無い。
「ったく。めんどくせーなー」
「口を閉じろ。ダガーム将軍の耳に入ったら大変だぞ。それに警戒任務も大切な任務だ。今ごろザナの猿が将軍を狙ってるかもしれない」
「そうは言ってもよー。ったく、なんでこんな時にザナも仕掛けてくるんだか。停戦の話はどうなってんだ? 明日は息子の誕生日なんだぜ?」
「諦めろ。それに情報が錯綜しててなんもわからん。南へ兵を移動させろという話もあるが、戦闘なんて始まってないんだから動くなという話もある。ま、妙なことを口走って死にたくないなら口は閉じておけ」
「へーい」
すぐ近くから複数人の声が聞こえ、危うく声を出しそうになってソラは慌てて口を手で塞いだ。
声と足音からしておそらく二人いる。話している内容からして武装もしているだろう。
マズい……完璧に長居しすぎた。
心臓がうるさく鼓動している。今すぐにこの場から逃げ出したいという衝動に駆られたが、そうする訳にはいかない。2人の獣人を無力化するには銃を使わなくてはならない。しかしそうすれば銃声が町中の獣人に聞こえてしまう。そうなればどうなるかは言わずもがな、だ。
「……っ!」
身動きがとれないため、町を見ているとあるものを見つけてソラは息を飲んだ。
それはソラから見て右側の町の端の道から入ってきた馬そりだ。
あれを手に入れれば移動が大分楽になる。それにいざという時は馬を潰して食料にもできる。できれば手に入れたい。
しかし馬そりの周りには兵士がいる。手に入れるにはどうにかして彼らを退かさなければならない。
「おい、なんだか人間の臭いがしないか?」
「……言われてみれば」
獣人たちの会話で空気が糸のように張り詰めるのがわかった。
ヤバい。かなりヤバい……!
足音が近づいてくる。
ソラの額からは汗が滴り落ちる。
どうする? どうすればいい?
獣人相手に近接戦は御法度だ。やるなら距離が離れている今しかない。しかし本当にそれでいいのか?
音を出せば必ずバレる。そうすれば敵兵がたくさん寄ってくる。それに──
「…………」
人を……殺すのか……?
そう思いつつも唾を飲み込んでこちらに向かってくる獣人の一人に狙いをつけた。二人との獣人は銃を構えながら警戒したようにずり足で迫ってくる。
軍人だからといって人を殺すことに抵抗がないわけでもない。必ずしも心構えができているとも限らない。初めてその事態に直面すると恐ろしいのだ。訓練のために銃を持つのと、人を殺すために銃を持つのは違う。後者だと気持ちが悪くなる。それに今の自分は軍の指揮下にない。判断をくれ、責任を取るはずの上官もいない。その現実が心に重くのしかかる。
クソったれ、と心の中で呟き、引き金に指をかけた。照準はもう獣人の頭に合わせてある。この距離なら外すはずもない。引き金を引けば一人の命を奪う。そしたらすぐにもう一人の獣人に照準をつけてまた撃つ。そしたら走って逃げる。
撃って、逃げる。撃って、撃って、逃げる。追手に捕まらないよう迅速に。
そこまで考えると、何故だか嫌になった。
……また、逃げるのか?
引き金にのせた指の力を抜き、考えた。
どこに逃げればいいのかも分からない。いつ終わるのかも分からない。本当に自分はそんな旅を続ける気力があるだろうか? 南へ歩いて味方の前線にたどり着く? そんなバカバカしい話があるだろうか? そんなことは実現できないと分かっているはずだ。自分は一人で、追われる身で、食料も弾薬も全然ない。それに、自分は何キロ歩かなければならない? ヘリは確実に一時間、おそらく二時間は飛んでいた。それなら自分は単純計算でも雪が積もっている中を400km近く歩かなければならないし、ルグドラクール北部は山が多いからそれを迂回したりすることも考えるともっとだ。ならば今ここで彼らに捕まって政治取引の材料にされたり、あるいは殺されて仲間たちの所へ行った方が楽でいいのではないだろうか?
心が折れてしまったのだと自分でも分かった。そして自分の心はこんなにも脆かったのか、とも思った。
タタタターン、とこ気味良い発砲音が聞こえてきたのは正に獣人たちに投降しようとした時だった。
「おい、町へ行くぞ」
「ああ!」
獣人たちは血相を変えて町の方へ駆けていった。
心臓がバクバクとうるさい中、ソラは町を見た。
ハーフたちが広場から逃げ出そうと走っている。何があったのかと辺りを見てみると、アサルトライフルを構えた一人の老いた獣人が弾を撃っていた。しかもその射線の先にいるのはあろうことか先程までハーフたちに銃を向けていた獣人の兵士たちである。
獣人の兵士たちはまだ状況を把握しきれていないらしく、各個に応戦しているものの、中には逃げるハーフたち、または周りに集まっていた獣人たちに発砲している者さえいた。
しかし事態を把握していないのはソラも同じと言えた。何が起こっているのか分からない。
「同士討ちか?」
何が起こっているのかは分からない。しかし幸か不幸か、あの馬そりの辺りからは人がいなくなっていた。周りにいた兵士たちも銃声を聞いて広場に向かったらしい。
「…………」
ソラは小さくため息を吐くと、立ち上がって走り出した。
だがいきなり町の中に入る訳にはいかなかった。町の外を回って馬そりに近づいて奪う。
馬は町の入口のすぐ近くに放置されていた。そして馬の近くに人影はない。そりとそれに載せられた物資もそのままだ。しかも多くは食料のようだ。
「……ん?」
息遣いが近づいてくるのに気づいたのは、席に座ってそのまま町へ出ようと馬の歩を進めた時だった。近づいてきた人影が小さなものであったからソラは馬をとめた。すると彼らは馬のすぐ近くまで駆け寄ってきて息も絶え絶えに立ち止まった。
「ワシはいいから孫を……!」
そう言いながらゼェゼェと肩で息をしている老獣人と、老獣人に片方の手を引かれて、もう片方の手を膝につけている狐のハーフの少女には見覚えがあった。
老獣人は獣人の兵士たちに銃を撃っていた者で、ハーフの少女は広場にいた子どもだ。
二人に追っ手はいないようだが、人数が増えればその分見つかりやすくなるリスクは高まる。それに馬の速度も落ちるだろう。
どうする? と思ってソラは二人の顔を見た。
老獣人は長くボサボサのまつ毛の下に鋭い眼球を覗かせているがどこか不安げだ。ハーフの少女は優しげであったろう瞳を震わせている。
「いいから二人とも後ろに乗れ」
そして二人が荷台に乗ったことを確認すると馬を再び走らせ始めた。
弾薬の補給もできず、まともに戦えるのが自分だけという現状においては、戦闘は避けるのが基本だ。
もし今敵に見つかって増援でも呼ばれたらたまったものではない。だからこそあの町からは一刻も早く離れなければならない。
それからは……どうするか。どうすればいいか。
「あ……あの」
「なんだ!」
今にも泣きそうな少女の声に大きな声で返すと、彼女はひっと短い悲鳴のような声を上げた。
「血が……おじいちゃんの血が、止まらないんです」
しかし少女は怯え、嗚咽を漏らしながらもその言葉を口にした。
その言葉の意味を理解するには数瞬の時を要した。しかし意味を理解して、慌てて振り返るとぐったりとした様子の老獣人と、手を真っ赤な血で染めている少女とを見て、最悪の事態に考えが至った。
「あんた撃たれてるのか!?」
老獣人はその問いに消え入りそうな渇いた笑い声を返すだけだった。
気がつかなかった。あれだけのことをやってのけたのだ。むしろその可能性を考える方が自然だった。しかし色んなことで頭がいっぱいで、そこまで考える余裕はなかった。
「ははは……少し無茶をし過ぎてしまったわ。……人間よ、ここから西へ……10キロ行ったところに……ファルナの町がある。そこにルドルフという者が住んでおる。……そこに行くのだ。……奴ならば……」
そこまで言うと力尽きたかのように言葉が途切れた。少女は叫びながらおじいちゃんと連呼しているのを聞いて、居ても立ってもいられなくなる。
「君、俺の代わりに馬を頼めるか?」
尋ねるが返事は返ってこない。当然のことだろう。きっと彼女にはこの数時間でいろいろありすぎた。もしかしたら自分が彼女に何かさせようとすることは残酷なことなのかもしれない。
「爺さんを助けたいんだろ? 診てやるから変わってくれないか?」
あくまで優しく、諭すような言い方を心がける。自身はないが、多分こうした方がいいはずだ。
しかし診てやる、なんて偉そうなことを言っても自分にできることなんてのはたかが知れている。自分は医者でもなければ衛生兵でもない。国内部隊用の個人携行衛生品と比べてPKO派遣部隊のソレは充実しているが、それでもできることなんてのはせいぜいが応急処置だ。
「これは……」
荷台でぐったりとする老獣人を目にして思わず口に漏らす。
助からないかもしれない。というのが第一印象だった。
お腹の辺りの服が血で真っ赤に染まっていた。となれば出血箇所は腹部なのだろう。せめて臓器は避けていればいいが、この出血量ならもしかしたら大きな血管をやってしまっているかもしれない。
感染症対策のため救急品袋から出した手袋を身につけると、次にハサミを出してルグドラクールの伝統的な衣装を切ると、すぐ体毛に覆われた腹部が見えた。その光景に思わず顔を顰める。
人間であればこんな場所に皮膚を見えなくするほどの毛は生えていない。皮膚が見えないということはそれだけ出血箇所が分かりづらいということだ。
しかしうだうだ考えていても現状は良くならないこともわかっている。
救急品袋から今度は止血ガーゼを取り出す。
袋を破って出てきたのは一辺がたった二十センチほどの一枚の布切れだ。外国の軍隊ならばもっとちゃんとした大きな包帯状のものを採用しているのだが、今は無い物ねだりはできない。
あとできることはこれを傷口に押し当てることだけである。
それだけしかできない。
長い体毛に隠れた傷口にガーゼを押し当てる。この圧迫で止血する。自分にできるのは、あとは祈るだけだ。
ここがもし味方のいる場所であるならば、衛生兵なり救急車なり救急ヘリが来て、負傷者を後送して入院させることができる。しかしそれができないのなら後は祈るだけである。
「おじいちゃんは……?」
「……ルドルフという奴のところを君は知っているか?」
「わかりますけど……」
「ならそこに向かってくれ」
祈るだけしかできない。
ガーゼがもう血でぐじょぐじょになり始めている。生温かい血が外気に触れてどんどん冷たくなっている。
「孫を……ッ」
「喋ってはいけない」
「いい。ワシはどのみち、病で死ぬ予定じゃ。それよりも……孫を頼む……ザナの兵士よ」
「諦めないでくれ。あんたが死んでしまったらあの子はどうする?」
「もともとワシは家族失格じゃ……ただ一人の家族だのに、ハーフだからといって随分と冷たいことをした。酒を飲んでばかりで……本当に……」
「だとしても……会って間もない男に頼むことじゃない。何をするのかわからないんだぞ」
「いいや……あの子に貴様はそんなことできん。わかるぞ。ワシは……鼻が良くてな……」
と言ってへへっ、と力強く笑うと、それきり老獣人は動かなくなった。
「適当なこと言いやがって」と悪態をつきたくなる。
脈はない。息もしてない。心臓も動いていない。死んだのだ。
心臓マッサージをすれば、一時的に蘇生することもできるかもしれない。しかし、そうしたところで、だ。
蘇生したところで血は止まらない。
この爺さんが言った村までは10キロ。馬そりでは一時間ではつけない。医療水準も高くはないだろう。諦める諦めないの次元はとうに越え、もう手遅れだ。心臓マッサージをしても、それは彼の苦しみを長引かせるだけだ。
死んだのは、知らない人だ。
仲間でもなければ、知り合いでもない。名前すら知らない人だ。
悲しくならず、ただ死という事実に恐怖する自分の反応は正常なはずだ。
しかし、失われたのは紛れもない一人の命なのだ。少なくとも、誰かにおじいちゃんと呼ばれるような一人の命だったのだ。それを、無理矢理にでも悲しむのは間違っていることだろうか。自分があの時、愛国戦線の将軍を狙撃していれば、もしかしたらこの人は死なずに済んだかもしれない、そう後悔するのは間違っているだろうか?
味方の場所に辿り着けるかもわからない。明日にはない命かもしれない。それならば、自分が大切にすべきことは、規則を守ることや命をなんとか引き伸ばそうとすることではなく、何を成すかではないのか?
頭がふつふつと湧き上がる思いでごちゃごちゃになり、拳で思いきり荷台を叩こうとして、寸前のところでとめた。
そして、今は一心不乱に馬を操る少女に、彼女の祖父が死んだことを伝える決心をしたのだった。