~第4幕~
鳥谷碧は悩んでいた。高校へ何とか進学できたものの、その先はどうなるものなのか全く分からなくて不安である事に。周囲には隠していたが、高校に入学し、実は牛乳配達のアルバイトをしていた。しかし配達先を間違えたりする等の事で叱咤を受け続け、しまいには自ら辞めた。代わりに不良グループの一員になって生計をたてはじめ、自分の居場所を見いだそうとした。一緒に悪行を働く面々がカッコよく見えてきたのだ。
しかし、それも八木真弓との出会いで一掃された。
八木にぶたれた後、彼女は河川敷にあるベンチに座って川の流れをただ眺めた。自分もあの中に溶けていけば楽なのだろうなと、変な妄想も起きた。
「おーい、鳥谷さん」
声が聴こえた。後ろを振り返る。
「ああ、人違いじゃなくて良かった! 鳥谷さん、元気にしていた?」
声をかけてくれたのは牛乳配達のバイトメイトである工藤康子だった。
工藤は鳥谷より少し年上の20代のフリーターだった。牛乳配達の仕事の他にガソリンスタンドで働いているとも聞く。仕事ではとてもお世話になっていたが、情けなさと恥ずかしさから仕事を辞めることは話さないでいた。
最初は嫌々だったものの、話していくうちに鳥谷は仕事を辞めた経緯から不良グループの一員になった経緯まで赤裸々に話していた。そして八木との出会いも自然と話題の中に入れた。
「そうだったの……でも、いいじゃない! プロから『一緒にしましょう』って誘われたのでしょ? それってなかなかない事よ?」
「いや、単に誘われただけだよ。大したことなんて」
「ね、私達こうして話すのは初めてじゃない?」
「えっ?」
「私ね、小さい頃から卓球をやっているの。夢はオリンピックにでるって決めて。ろくに成績なんて残してないけどね。でも、今でも“現役選手”よ?」
「そうだったの……たくさん働いているのに……」
「何でも目標がある人は弱くない。悪い事なんてしなくなる。あなたもせっかくそんなチャンスが貰えたのだから、いっちょ、やってみたら?」
「チャンスなのかな……」
鳥谷碧にとって、柔道なんてそもそもやる気がなかった。彼女が柔道部に入部したのは、葛城花子というカリスマの後輩になる為だった。そのカリスマも蓋を開けてみれば只の小悪党だった。それも惨めに敵前逃亡するだけの。
工藤との邂逅の翌日、彼女は牛乳配達のアルバイトに復帰した。
そしてその日の夕方、彼女は柔道部の道場へ向かったのだ。
八木が一心女子高校柔道部の顧問となった日、鳥谷が突然道場入りをする事で雰囲気がガラリと変わった。ハキハキとしていた月村と安藤もオドオドし始めた。指導する立場の室橋もビクついているのだから、話にもならない。
八木はそれでも平等に「礼」の基本から「受け身」のレクチャーを淡々と指導した。特に受け身に関しては何度もその稽古を施した。
「先生、コレって投げられることが前提でするものなの?」
受け身の練習に嫌気がさしてきた鳥谷は眉間に皺を寄せて質問した。
「そうよ? 何か問題がある?」
「いや、スポーツって言うのは勝つからするものでしょ? 負けることが前提で練習するのって可笑しくない?」
「負けを知らない人は本当の意味で勝ちなど知る筈もないわ。今の貴女が試合に出たら、勝てるかもしれない。でも基本が分かってないのならば、ただ大怪我をしてしまうだけ。その意味がわからないかしら?」
「いや、分かるっちゃ分かる気がするけどさ……」
「そうね、貴女はそもそも分かってない事がありすぎるわ。この2人の顏を見てみなさいよ」
八木はそう言うと手で月村と安藤を指した。2人はその手にビクついた。
「この2人がこんな顔しているのは誰のせい?」
「それは」
「謝りなさい。このままだと貴女がこの道場に来る理由がない」
「それとこれとじゃ話が別じゃあ」
「謝れって言ってるんだよ!!!」
八木の叱咤には室橋も震え上がった。しかし彼女の熱い眼差しに答えられない鳥谷でもなかった。
「今まで……散々迷惑かけてきて……本当に……すいませんでした。これからは月村さんの事も、安藤さんの事も、室橋先生も尊敬して部活動に励みます……」
鳥谷はそう言って静かに土下座した。即座に1年の安藤が「もう、いいですよ! 気にしないでください! これから一緒に柔道しましょうよ!」と鳥谷の背中をさすった。月村も続く。顔をあげた鳥谷は涙と鼻水で濡れていた。
「はい、良かった。良かった。じゃあ練習再開するよ!」
八木は間髪入れず音頭をとった。
その現場に居合わせた室橋は確信した。鳥谷碧は強くなる。否、市川女子一心高校柔道部が強い部になると。その為に自身も八木真弓という柔道家から学んでいくべきだと――