第二話 軍港のユリウスとその海の果てで起きたこと
今月の帝国に関する動向調査報告書を読み終え、ユリウスは疲れた目をいたわるように指で眉根をマッサージしつつ、静かに椅子の背もたれに体重を移動した。
椅子が心地よい音を立ててきしんだ。
カーテンは潮風で揺らされていて、そとの波音がわずかに聞こえている。夕方が過ぎ、少し暗くなり始めていた。
「ユリウスさん。帝国の今後の動きをどう思われますか?」
「報告書の通り目立つ動きは当面無いと思っていいな。今は新しく即位を控える皇女のあいさつ回りが控えている年だ。さすがにこのタイミングでは動かないだろう」
部下にそういうと、ユリウスは机の上の紅茶に手を伸ばした。
「そうですか。ですが、またあんなことにならないように気を付けていないと」
「そんなことはわかっている!」
突然大きな声をかけられた部下はびっくりしてユリウスを見た。
「…すまない」
「いえ…。失礼します」
部下は一礼すると、執務室から出て行った。そのドアがもう一度開き、同期のレオナルドが入ってきた。
「相変わらず暗いなー。まだ引きずってんのかよ」
「うるさい」
立ち上がると、ユリウスは白い軍服の上着を椅子から取り上げた。
「もう三年前の話だぞ」
「わかってる。さすがに、もうそれほどでもない」
「…ん。まあ、確かに最近は…そうかもな」
ベルトにサーベルを差し込んだ。
「そろそろ新しい出会いにも目を向けろよ。でないと、そばにいる俺が彼女を作れない!」
「なんでそうなるんだよ」
「お前のそばにいると!お前のほうに目が奪われるからだよ!世の女性陣の!」
睨むレオナルドを横目にユリウスは執務室を出て、ユリウスは歩いて帰路についた。
今住んでいるところは基地から街の商店街を抜け、海岸そばの邸を借りていた。歩いても問題のない距離だ。
商店街では多くの海産物や輸入品がところせましと並べられ、貿易港としての側面もあるこの街の賑やかな顔がのぞく。隣の帝国とは休戦状態で傷跡は過去のものに、人々の活気があふれていて住みよい街になっていた。
使用人が夕食の手配は済ませていることはわかっていたが、ユリウスはついつい店先に並ぶ干し肉を手に取っていた。
酒のつまみぐらいは自分で買うか…。
最近はさすがに落ち込む時間が少なくはなってきていて、それを感じると彼女を忘れそうになっているようで申し訳ない気持ちも戻ってくる。そうしてユリウスの気持ちは少し行ったり来たりしながら、ただ確実に凪ぐようになってきていた。
さすがに三年もたてば落ち着いては来ていた。
「そろそろ前へ…か」
買った干し肉を眺めながら、それが好きだった彼女を少し思い出していた。
明日は休みだし、あいつの墓参りに行くのもいいかもしれない。干し肉は…とっておこうか。
* * *
皇女が行方不明になったことが明らかになったのは、昼食時を過ぎても現れないことから侍従や兵が船の中をくまなく調査した後だった。
頻繁にいたずらをする皇女だ。
そのため、最初は隠れているのではという考えを抱くものも少なくなかった。しかし、状況から皇女が揺れる船体から船外へ放り出されたと考えるに至っていた。
もちろん暗殺などの事件性も否定されているわけではないが、船からいなくなったことは確かだった。
とにかく今は船を帝国に向けて戻し、その途上で皇女を探すことにある。救出のために多くの兵が四方の海に目を向け、海上をくまなく探している。
「なんということだ…」
今回の責任者となっていた外交官や軍部の上層部は、事態の把握と責任の追及先を探して必死になっていた。だれともなくそんな言葉が漏れるが、もうどうしようもない。
「ガイウス殿下。とにかく、いったん帝国に戻るしかありません」
「まずは『伝令』を使って、陛下に連絡を取れ。陛下の判断を仰ぐ必要がある」
「承知いたしました!」
魔力『伝令』を使えば、一瞬で帝都に連絡することができる。『伝令』持ちの情報官は必ず各部隊に動員されている。
皇帝が皇女を誰よりも可愛がっていることを知らぬものは帝国人にいない。非常に強い魔力を持ち、いざとなれば物事を理解している発言ができる優秀な皇女。長男たる皇子より彼女を優先的に育てていることは、だれの目から見ても明らかだった。
だからこそ、下手をすれば皇子を含めて全員が処刑されることすらあり得るのではないか。
そんな恐怖が船内を支配していた。
絶望の中にあった船内の者たちにとって、皇帝からの回答は意外という言葉では表せないほど驚くべきものだった。
『調査や捜索を打ち切り、すみやかに予定航路に戻ること。計画通り各国視察を行い、名代は皇女から皇子に変更して執り行うこと』
皇帝からの指示はそういうことだった。
そのとき、何人かの上層部の人間は理解した。皇子が犯人かもしれない可能性もあるうえで、素早く跡継ぎを切り替えたこと。皇帝には子供が二人しかできなかったのだ。そして、これからもそれを変えることが難しいことを一部の家臣は知っていたのだった。
次回第三話 アデレードの見た夢