第一話 騎士の過去と皇女の船旅
「泣かないで……」
あの日、俺は彼女を守れなかった。
「あなたは…悪くない」
あの時、彼女は必死に笑っていた。苦痛で眉をゆがめながら。俺のせいでこんなことになったのに、それを責めないためだった。
漆黒の瞳が俺をまっすぐに見つめていた。黒髪が力なく抱き抱えた俺の腕からこぼれていた。
「…最後に笑って…お願い」
彼女の最後の願いさえ、あの時の俺は叶えてあげられなかった。せめて笑ってあげられたら。
燃え盛る火ががれきの間にいくつも見えた。
彼女の体には瓦礫の一部が突き刺さり、もう長くないことは医者でなくてもわかった。誰より彼女が理解していたのだと思う。
戦争の要になるこの軍港が狙われることなど、わかりきっていたことになのに。俺のせいだった。
「いかないでくれ!俺は、俺はお前がいないと!」
もう声が出なかったのか。彼女はただ困ったような顔で、でも必死に笑おうと、まるで泣き笑いしたように俺を見つめていた。それが彼女の最期。
この軍港が落ちれば、陸路と海路の両方から帝国に攻められる。そうなれば、この戦争の趨勢は一気に帝国側に傾くことになっていただろう。だからこそ、この奇襲は軍港の火薬庫を狙ってきた。俺がいないときに。彼女が守っていたときに。
俺のこの後悔は、いつか帝国を滅ぼしたら晴らせるのだろうか。3年たってもそう思うときがある。
* * *
ディスタード帝国の周辺国に関するメモが書き込まれた地図が、アデレードの前に広げられていた。先生が指をさしながらそれぞれの国の特徴や歴史、過去の関係について説明している。
あくびをするアデレードに気づかないようなふりをする先生。そのまま講義を続けられて予定の時間までアデレードは耐えねばならない。彼女に我慢を強いることができるのは、この国でも指を折るほどしかいないだろう。
面倒くさいけれど。先生はどういうわけか父上のお気に入りだから。それに私の魔力も効かないし…。
そんなことを考えながらアデレードは胸元のペンダントをいじっていた。
まあ、正直こんなペンダントいらなかったんだけど。
ひれ伏し、震え、涙を落とす下女のなんと無様なことかと、ペンダントをいじりながらその光景を思い出していた。
こんな目立つペンダントを下げて仕事するなんて。
「そのペンダント。ついている黒い宝石はミニエーラ産ですね」
急に先生がそう言うので、アデレードはびっくりして先生を見た。
「アデレード様。それは産出量が少なく、属国のミニエーラ王国でしか取れない宝石です。現在はすべてが帝国に献上されている品で、ミニエーラの南の鉱山でしかとれないのです。ああ、そうそう。ミニエーラ王国はこれから行く最初の訪問先でもありますね」
そう言いながら、地図でその場所を指さしつつ説明を続けた。要は、講義内容に興味を持ってもらうためのテクニックのつもりだろう。
アデレードは興味のなさをあくびで示し、再びペンダントの黒い石を見つめる。
「ミニエーラ王国は帝国によって数年前の戦時中に下し属国とされましたが、隣のレオール王国や連合する国の援助もあって戦争当時はなかなか苦戦を強いられたそうです。そう、やはりレオール王国は強いですね。最近開発された軽量銃もやっかいですし、魔力持ちも多く――」
魔力…。一部の選ばれた者、私のような者が持つ特別な力。でも、この男には効かない。
「軽量銃は連射もきくそうですよ。あれがなければ、帝国の勝利だったのでしょう。レオール王国とは3年前に停戦へ持ち込まれていますね。そう、魔力に頼るばかりではなく、産業改革目覚ましいレオールと対抗するなら帝国も変わらなければ――」
何を言っているのだろうか、この男は。
時計が12時を告げ、それをもって授業が終了する。
「今日はここま――」
「終わり。もういいでしょ」
先生は静かに一礼すると、音を立てることなく部屋を出て行った。
それにしても、今日は船が揺れるな。
あくびをしながら地図を見ないように心がけていたが、それでも少し酔っている。あの男は酔わないのだろうかと、天井につるされたカンテラが揺れるのを見ながらアデレードは眉をひそめた。
酔い覚ましにデッキに出よう。昼食なんて取れない。
ペンダントをいつもより簡素な部屋着のポケットに入れて部屋を出た。昨日から酔いがひどくて、普段来ているような豪奢なドレスより簡素で着やすい部屋着を着ている。
デッキに出ると、あの下女が掃除用具を手に目の前に現れた。
「あ!」
「あって何?」
下女は背筋を伸ばし、すぐに最敬礼して震えていた。
「申し訳ございません!失礼いたしました!」
震える下女は必死に最敬礼を維持している。胸元に両手の指を絡めて、ぎゅっと固く結んで頭を下げていた。
「そうじゃないでしょ…。『平伏』なさい」
ぐんと勢いよく下女は土下座した。膝から落ちるように。下女はとっさのことで頭を打ち付けた。
「謝るときはこうしないと、でしょう?それから――」
アデレードは部屋着のポケットに手を入れようとした。
「アデレード。そのぐらいにしないか」
「…お兄様」
土下座する下女からアデレードが横に視線を移すと、そこに帝国第一皇子のガイウスが立っていた。ガイウスは下女に近づいて立ち上がるように支えると、彼女をそこから立ち退かせた。
「きちんと教育していただけですよ」
「こういうのは教育とは言わないんじゃないかな」
「私に命令するのですか?お兄様」
ガイウスが少し居心地が悪そうに視線を外すのを見て、アデレードは口元だけ笑みを浮かべ、侮蔑の視線を彼に向けた。
「命令ではないさ。君に命令できるものなど、この世にいない」
「でしょうね」
デッキの外は海が波打ち、船の側面に打ち付けるように水しぶきを上げている。その揺れる船のうえ、一瞬、大きな波がちょうどガイウスとアデレードのそばの側面にぶつかってきた。
痛っ!
水しぶきがアデレードの目に入り、アデレードの視界が一瞬失われる。それと同時に、アデレードの右肩が押さえつけられ、左脇に手が差し込まれるのを感じた。だが、感じた瞬間に世界が反転するように右側に回り、アデレードの体はデッキの囲いの外に投げ飛ばされる。
――え?
アデレードが目を開けていられたのは、そこまでだった。
次回第二話 軍港のユリウスとその海の果てで起きたこと