第三十五話 二人だけの世界で
灰色の異界は、ずっと遠くの方から少しずつ崩れていっていた。だが、ユリウスには不思議と不安はなく、アデレードを背中から引き上げて抱き寄せ、その様子を見つめていた。
アデレードは静かな呼吸で眠っている。『闇』の魔力と干渉したからか、アデレードはアディ・ライアーの姿から元に戻っていた。美しい黒髪がユリウスの手に少し絡まり、流れていた。
時間の感覚は薄く、暫く遠くの崩れ行く景色を眺めていると、アデレードの呼吸が少しずつ早くなり、そして……。
「ん……」
「アディ!」
「ん?あ、え、ユリウス……?」
「……良かった!」
ユリウスはアデレードを自分の胸に引き寄せ、抱き締める。アデレードのくぐもった声が少し聞こえたがそのまま抱き締め続けた。
いつの間にかエクスの死体や痕跡は無くなっていた。空が少しずつ明るくなり、崩壊の速度も遅くなったような気がした。
世界には二人だけ。ただ抱き合っている。アデレードの温もりから、呼吸、心音まで胸元に感じていた。
「……ユリウス」
アデレードを少し離し、立ち上がった。ただ、まだアデレードの表情がはっきりしていなくて足元も不安があった。そのため、ユリウスはその両肩を外側から支えるようにしていた。アデレードの顔が近い……。
「ありがとう……」
「怪我は?」
「大丈夫……ここって……?」
アデレードはまだ少しぼんやりしているようで、周りを見渡しながら頭に手をやって目を瞑った。少ししてまた目を開ける。
「詳しくは省くけど、『闇』という魔力が作り出した空間、異界の中だよ。使い手はもういないからいずれ出られるとは思っている」
なぜか外縁の崩壊は止まっていた。
「……ん?あ、え?!ユリウス!?」
「どうしたんだ?!」
ぐっと両手でユリウスの胸を押さえるようにして、アデレードは顔を背けた。それから真っ赤になった顔を少し向けて、それからそっぽを向く。
「な、何でもない。ちょっとびっくりしただけ……」
……ああ。
ユリウスも少し顔が熱くなった気がした。
いや、もう俺もいい年なんだ……。ちゃんとしよう。
「……アディ」
「は、はい」
「こちらを見てくれないか?」
アデレードは少し地面の方を見てから、ユリウスに視線を戻してきた。まだ、少し紅潮した頬のまま。
その両手を取った。両手を包むように握る。
「アディ」
「ひ、はい!」
「君を失いかけて改めて思い知った。君のことが大切で、失いたくない」
アデレードは少し涙目になりつつ、静かに耳を傾けていた。
「アディ、君のことが好きだ。愛している」
アデレードはしばらくの間、ユリウスの目を見つめていた。そして、そっと息を吸う。
「私も、ユリウスが特別な人なんだって……初めて出会ったときから多分分かってた。理由は分からない。でも、そう思った。私もユリウスのことが好き。一緒にいると楽しい。一緒にいると落ち着く。一緒にいたいよ、ずっと……」
そうだ。ここでは、関係ない。誰も、国も、立場も。
そっとユリウスが顔を近付けると、アデレードは目を瞑った。そして、ユリウスも目を瞑り、唇をアデレードに優しく合わせた。とても自然で、とてもいとおしい時間……。
温もりを感じ、安心が心を満たした頃、二人はようやく離れて、目を開け、また見つめ合っていた。
「アディ、君と一緒になりたい。そのために、まずは国同士の亀裂を何とかしたい。エニグマに邪魔されたが、今度こそ」
「うん。それで、私も動いていたよ」
「……何を?」
「いくつか、踏まないといけない手順があるけれど、一つの解決策を取りたいと思っているの。エニグマの問題は引き続きあるけれど、それとは別に根幹の問題もあるから――」
――アデレードはその考えをユリウスに説明した。それはとてもではないが普通実現出来ない内容……神々を動かす必要があるものだった。ただ、ユリウスには「アデレードなら」という思いに至って納得した。
「よし。分かった。アディならいけるな。俺も協力するよ」
「ありがとう……。それで、ここっていつまで在るの?」
「……一向に出られる雰囲気がないな」
「そろそろいいか?」
驚き、二人はぱっと、その声の方に顔を向けた。そこにはベールを被った女が一人立っていた。すかさずユリウスはアデレードの前に立ち、サーベルに手をかける。
「……あなたは?」
「教皇ガイア……」
アデレードがその名を口にすると、ガイアは微笑んだ。それを見て、ユリウスはサーベルから手を下ろした。
「あなたが教皇?」
「……そう。あなたがこの異界を維持しているのね」
アデレードはユリウスに顔を向けた。
「教皇ガイアはあらゆる魔力を使えるの」
「なんだって?!そんなことが?」
「……そろそろ未来も固まった。我が異界に留まる理由はあるまい?」
アデレードは一歩前に出ると、頭を下げた。
「はい。ユリウスと次のステップに進みます」
微笑みを絶やさないガイアは、ベールの向こうで目を細めたように見えた。わずかに判別できる視線は、しかし、優しいわけではなく一つ鋭さもあった。ただ、敵対的な雰囲気は感じなかった。
異界の外側から崩壊が再開した。
「では、待っていよう」
ガイアはそう言うと、徐々に薄く透明に消えていった。
崩壊する世界の中心で、二人は再び抱き合った。お互いに決意を固め、それを確認し合っていた。
第三節ここまでです。
次回第三十六話 二手目




