第九話 下女のケイト
皇子ガイウスに名代を替えて継続することとなった外遊は、何事もなかったかのように進められていた。あたかも初めから皇子が後継者として選定されたことを示す外遊であったかのように。そして、一行はミニエーラ王国北側に面する別の国に行く途中だった。北に進むにつれ徐々に寒くなってきていた。
アデレードの行方不明についてどのように処理されたのか、下女にすぎないケイトには分からなかった。ただ、船からアデレードが消えたことを誰にも話さないよう、偉い人から厳命されていた。
下女たるケイトの仕事はコックの手伝いから、馬車や船内の掃除、洗濯など、つまりは雑務全部であり、今は馬車の汚れた床を雑巾で掃除していた。その時、失ったものに堪えきれなくなった。涙が頬をつたってこぼれ、雑巾にその涙が吸い込まれていく。屈んだまま馬車の天井を見上げた。夜の空気が冷たく、濡れた手指に突き刺さってきた。
かじかむ手をそっと自分の手で包むと昔のことを思い出す――。
* * *
帝国の冬は浮浪者を整理する寒さで知られ、その年は特に寒かった…。
牢は大人一人が寝転がれば一杯になる大きさしかなく、一枚だけぺらぺらの布切れが寝床として渡されていた。この地下にはそんな小さな持ち運びができる牢がいくつも並べられ、そこにいろいろな人が入れられていた。その労の一つに入れられていた幼いケイトは、必死にその布切れをかぶって、故郷では経験したことのない死神のような寒さに抵抗していた。
この頃、戦禍に巻き込まれたケイトは戦時奴隷として帝国に奪われていたのだった。
「生きてるか?顔をあげろ」
鉄格子に杖を叩きつけてきた奴隷商の男はケイトを睨み付けてきた。
ケイトはその音と声に震え上がりながらも布をよけてゆっくり顔をあげた。
「お客様。こちらがおっしゃる条件の品になります。ただ先程も申し上げた通り、あまりお勧めしませんよ?」
奴隷商の後ろから綺麗な黒髪の女の子が現れた。その姿はこの地下室にはとても似つかわしくなく。群青のキラキラ光るドレスを着ていて、今までケイトが見たことがない美しい人だった。
「私の勝手でしょう」
その言葉を聞き、奴隷商の男は胸元から鍵を取り出してケイトの牢を開けた。牢にかかっていたプレートを引っ張って、それに書かれている奴隷商は目を凝らす。
「…ケイト、か。お前は今日からこちらの御方に買われた。良かったな」
ふんと鼻をならした奴隷商に右手でケイトの頭はつかまれた。体がびくりと縮こまる。
「待ちなさい。あなたの魔力は不要よ」
「よろしいので?」
「私を誰だと思っているの?」
「失礼いたしました。皇女殿下」
ケイトの頭から奴隷商の手が遠ざかるのを感じて、そっと顔をあげた。するとそこに、黒い瞳から放たれる強い眼差しがあった。ケイトの体は自然と屈して両手を床について…いつの間にか平伏していた。ただ、不思議と恐怖は感じなかった。
「今日から私がお前の主となったから。立ち上がり、ついてきなさい」
顔をあげると、無表情な顔がこちらを見ていた。けれど、ケイトはその瞳の奥に故郷の暖かさのようなものを感じていた。
「はい」
ケイトはこの日からアデレード殿下の下女となったのだ。
次回第十話 ケイトのペンダント




