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ペカ梅田

作者: 若葉茂


 ペカ梅田は喜寿を迎えていろんなことを忘れてしまった。昔の悲喜こもごも、それから年、月、週という単位はもう分からない。ただ、日というものがあるだけである。日曜日が終わっても次の日があり、ひと月が経っても三十二日目があり、一年が過ぎても三百六十六日があるばかりである。目は慣性に弱ってゆく。それで日の出は青色が滲んで見え、日の入は赤色が滲んで見えるが、その交代を信号待ちのように感じている。幾千の横断歩道を渡ったところに死期があり、もう春夏秋冬の季節や季節はずれという概念は消失している。だからいつだって凍えている。そうでないときは、そよとの間あるだけである。落ち葉炊きのお芋がほっくほくであったり、日だまりに蒲公英がぽっかぽかであったり、唄声がみっくみくであったりするときだけである。だから日のあたるところ目指して、緩慢な足取りで市の公園に往って、菩提樹の木の下のベンチに腰掛ける。席も決まっていて、老人ホームからきて並んですわっている二人の老人、松田、竹田のひだり端である。


 この毎日並んでいる二人は、梅田より年長である。梅田は口をにっと開いて口もとでお辞儀をする。すると二人は右から順に時間差で、何か別の口が乗り(うつ)った腹話術人形のように口を開き返す。それから梅田はひと声うなって腰掛けると砂の上に杖を立てて曲がった握りの上に双の手を置く。


 ベンチには、真ん中は二つ分高く、右は一つだけ高い、三人の魔法(じん)が見える。この魔法人は百万年と八分前の光子を集めている。陽の中心で水素がヘリウムの灰に変わるとき、赫奕たる光子が生まれる。この光子は百万年かけてを光球を目指す。光球から解き放たれた光子は八分かけて瑠璃色の地球に達する。魔法人はいっしんにこの無窮の光子を集めている。老人とは魔法人である。もう光を追いかけたり、光を追い抜こうとしたりせず、光あるうちに光を集めている。だから通常であれば、菩提樹を背に、表彰台のように、銅、金、銀色に見える三人が、公園の真ん中にあるジャグラー時計の隣でジャンプする少年には、ピッコロ大魔王の肌色に見える。


 梅田は背すじを正して、化石のような目を芝生の緑に注いだ。そこには夏服を着た子供が、マイケルソン・モーリーの鏡の反射のように、とめどなく緑の(むら)の前で飛び上がったりまた落ちたりしている。それが実にまぶしい。梅田はエーテルの風に吹かれている。エーテルは存在する。絶対空間の遊び場がエーテルである。どんな少年も、強く、激しく光る可能性を秘めている。仁星が輝き、エーテルの風に巻かれながら、梅田は、時折、松田があまりに近くよってきた仔犬づれに、銀席(シルバーシート)の標識を出し、距離を保つように諭す仕草や、竹田が雨後の竹の子のように伸びをする動作を目の端に感じている。道の遠いところで端麗な速度で走る自動車の音も、傍を歩く人の足音も、ジャグラー時計が十二時を打つ音も聞こえる。梅田はもう数えない。もう一杯だと打てば十二時でお昼だということが分っている。最後の時計の音と同時に、可愛らしい声が耳もとで囁く。

「おじいちゃん、お昼」

 梅田は(とお)になる明るい孫娘に目の光を折り取られる。瞬間、フレッシュマンがリクルートスーツに包まれたときのように力がみなぎってくる。もういつの頃だったか思い出せないが、日本国籍でありながら、国境(くにざかい)ではなく真の国境(こっきょう)を越えて緊急来日を果たした、深い霧の中にある記憶に気づく。為に、レバーを叩くように杖に力を入れて起き上がり、今度は、顔のまわりの空気をえぐるような勢いで、入れ歯を迫り出しながら口もとで辞儀をする。これは龍の湧水のように壮重でもあり、また、龍の(よだれ)のように滑稽でもある。

「そろわないと噛みついちゃうよ! そろわないんだったら噛みついちゃってもいいかな!」

 そういう熱が口もとから発散している。為に二人は、今度は同時に、何か別の入れ歯が乗り憑った、特殊な腹話術人形のように口を開き、しゃくれ返すのである。この瞬間、静止した公園の中で、ジャグラー時計が今日一番に時めく。少女は輪なげの輪が的棒におさまるような、射的台からお目当てのお宝を打ち落としなような不思議な感覚に襲われる。少女は決まって、おじいちゃんの聖なる渾名がそうさせるのか知らないが、呟くのである。

「あっ、また・・・・・・、ペカった」

 そして松田と竹田とは、おじいちゃんと孫娘との並んだ影法師が木立の向こう側へはぐれるのを見送る。


 どうかするとたまに梅田の腰掛けていた場所に少女の手から零れ落ちた二三本の草花が献花のように残されていることがある。そんな時は、松田と竹田で取り合いになるが、にらめっこに秀でている竹田が勝って、大切な珍しいもののように手にする。松田は喧嘩のあとの寂しさで笑いを納める。竹田はそれで内心恥ずかしがる。それでも老人ホームへ戻り着くと、松田が先に部屋に入って、自身の年齢分の一の必然で、コップに水をいれて出窓の縁におく。そして竹田がそこに花をさすのを、一番暗い隅から見守っている。

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