第14話.閉幕
その場から去る男を、誰も追おうなどと考えないように思われた。
それでもただ一人だけ、その背中へと追いすがった者が居た。
「お待ちください!」
侍女の張り詰めた呼び声に――男は王宮から遠ざかっていた足を止めた。
だが振り返りはしない。侍女はぜえぜえと息継ぎをして呼吸を整えようとするが、その間に男が口を開いていた。
「先ほどの話に気を悪くされたならすみません。あんなものはただのこじつけのようなものに過ぎませんから、お気になさらず」
あの部屋に居たときよりも、よほど男の声は淡々としていて人間味がなかった。
だが侍女は思った。それこそ、男が強がっている証拠なのだと。
そう気がついた以上、侍女は黙って引き返すわけにはいかなくなった。
「あなたは……あなたは先ほど、こう言いましたよね。犯人というなら、この場に集った全員が犯人だったのでしょう……と」
「ええ、言いましたね。それが何か?」
「あの会議室に集まったのは庭師と、公爵令嬢と、近衛騎士と、王太子殿下と、侍女と、国王陛下と、そして――あなたです。あなたは、つまり――自分も聖女を殺した犯人だと仰った」
「…………」
沈黙する男に、侍女はその言葉を突きつけた。
「あなたは……探偵では、ありませんね?」
男は侍女を振り返った。侍女は挑む目つきで男を見つめた。
二人はしばらく、向かい合い……男はやがて、根負けしたように苦笑いをした。
「君の方がよっぽど、そう呼ばれるのに相応しそうだ」
「……では、やはり」
「ああ、俺は探偵じゃないよ」
男の回答を、侍女は予想していた。
しかし分からないこともあった。
「左胸のバッジブローチは、どうやって……」
そう、男の胸に今もある銀色の輝きは、限られた立場の者しか持ち得ない証なのだ。
しかし男はこともなげに笑う。
「俺は小さい頃から鍛冶細工が得意でね、見よう見まねで造ってみたんだ。そろそろ本物の探偵が王都に到着する頃だろうから、こうして逃げ出してきたわけだけど」
鉢合わせになったら捕まるだろうし、と男はあっさりと言う。
侍女は眉根を寄せ、辛抱強くその言葉を聞いていたが……男もそんな話はどうでもいいと気がついたのか、小さく咳払いをした。
「君が、俺に彼女の手紙を届けてくれた人かな?」
男の問いに侍女は小さく頷く。
「ありがとう」
男は人なつっこく笑い、礼を言う。
あの小さな部屋で異様なまでの異彩に満ちているように見えた顔は、今や、凡庸で年若い青年のものでしかなかった。
「君は、彼女に――ルーシーに、全て聞いていたんだね」
「…………はい」
侍女はゆっくりと、噛み締めるように返事をした。
閉じた目蓋の裏側に、失った日々を垣間見るようにして呟く。
「聖女様――ルーシー様は、泣きながら、震えながらも、私に全てをお話ししてくださいました」
男は頷く。
自らの推理に一つ、誤りがあったとするならその点だったのだろうと男は思う。
聖女は周囲の誰もに秘密を隠していたわけではなかった。
たった一人だけ、聖女の妊娠を知らされていた者が居たのだ。
聖女の侍女。彼女が心からの信頼を寄せていた相手。
二人の出会いは決して偶然ではない。
侍女の父親は亡き第一正妃によく似たルーシーを聖女として祭り上げ、自らの強欲のために彼女を国王へと売り渡した。
その結果の副産物として、冴えない地方貴族の娘でしかなかった少女は、聖女付きの侍女として王宮に召し抱えられたのだ。
それでもルーシーにとって、歳の近い侍女の存在はどれほどの支えだっただろうか。
侍女の張り詰めた顔を見ていれば……その答えは男には手に取るように分かるのだった。
「そして"あの日"の、数週間前……『手紙を届けてほしい』と、ルーシー様がおっしゃったのです」
「君はわざとルーシーに遠ざけられた振りをして、密かに手紙を届けるために王宮を出たんだね」
侍女はずっと気になっていたことを訊くことにした。
しかし訊かずとも男がこの場に立っている以上、その答えは分かりきっていた。
「ルーシー様のお手紙は……読まれましたか?」
「ああ……読んだよ。書いてあったのはたった一言だけだけど」
男は苦い笑みを浮かべる。
家の郵便受けを開けて、宛名も封蝋もない白いシンプルな封筒が入っていたとき、何故か不思議と予感がしたのだ。
いやな予感だった。ざわめく胸を必死に抑えつけながら、男は中身を取り出し――その内容を確かめたのだ。
『どうか私を許して』
便箋に書いてあったのは、その一言だけだった。
サインも何も無かった。神経質なほど強張った筆跡には、見慣れた面影も無かった。
それでもすぐに彼女のものと男には分かった。分かったが――その頃には何もかもが、遅かった。
「昨日、聖女の部屋に調査のために入らせてもらったけど、机の下にも大量の紙くずが転がってた。インクが滲んだ文字ばかりだったけど、ちゃんと読み取れたよ」
男はそう言いながら、ひとつずつ、ひとつずつ開いて確かめた文字列をなぞるようにして目を閉じる。
――『どうか私を許さないで』
――『どうか私を許して』
そんな文字を、男は指の腹で何度もなぞった。
日が暮れるまで、何度も、何度も、何度もなぞった。
そう、"あの日"、聖女が命を落とす直前。
頭を打って朦朧としながらも、揺れ動く意識の合間を彷徨いながらも、聖女が必死に『許して』と懇願していた相手は――騎士団長でも、公爵令嬢でも無かった。
彼女がそのとき謝っていた相手は、他でもない自分だったのだろうと、男は理解していた。
「……申し訳ございません。あなたが間に合わなかったのは、全て私の所為です。私がお手紙を、すぐに届けなかったから。その所為で……」
侍女はひたすら、男に頭を下げた。
彼女が覚悟していたのは男からの罵倒の言葉に他ならなかった。
だが、次に男が口を開いたとき――その口から漏れ出たのは、穏やかな青年のそれに過ぎなかった。
「『大した手紙じゃないの。あなたの大切な用事が終わった後、物のついでに最果ての村に立ち寄って、青い屋根のお家の郵便受けに入れておいてくれるかしら』」
……ああ、と侍女は唇を戦慄かせた。
青年の声音は、侍女の耳には愛する女性の声と重なって聞こえた。そのもののようだった。まるで死者の国から、彼女が蘇ったかのようだった。
それでも震える侍女の目の前に佇むのは、見知らぬ青年でしかない。
「ルーシーの考えそうなことは、俺にはだいたい分かるんだ。彼女はいつも、自分のことは後回しにする癖がある」
「私は……私はそれを、知っていたのに……」
「いいや。どちらにせよ、君の所為じゃないんだ。君が里帰りした初日に俺の家に手紙を届けてくれたとしても、俺は彼女のところにはどうしたってたどり着けなかったんだよ」
侍女を気遣ったつもりはなく、男は真実そのものを口にした。
ルーシーの窮地を悟った男が家を飛び出し、一目散に王都の王宮に向かったとしても――ただの平民である男は、門前払いされていたに決まっているのだ。
時間と手間をかけて入念な準備をし、王都にて情報を集め下調べをし、探偵と身分を偽ったからこそ呆気なく王宮に入り込むことができたが……元々はただの青年である男に、そんな真似は不可能だったのだ。
そしてきっと、自身に危険が迫っていることにも聡いルーシーは勘づいていた。
だからこそ親しい相手である侍女を、王宮から遠ざけたのだろう。だが、それを口にしようとは男は思わなかった。
「じゃあ、俺はこれで」
そこで侍女は思わず、声を上げた。
「お待ちください。最後にどうかこれを」
差し出されたそれを見つめ、男は静かに目を見開いた。
「……スズランの、髪飾り。そうか、君が持っていたのか」
男はようやく得心がいってそう呟いた。
ルーシーは既に土に埋葬されていたが、検死を担当した医師は聖女はアクセサリーの類を身につけていなかったと言っていたのだ。
騎士団長は物盗りの犯行に見せかけるために杖を盗んだと言ってはいたが、髪飾りのことは一言も口にしていなかった。それならば髪飾りはどこに行ったのかと、男は胸に引っ掛かりを覚えていた。
聖女の死体を発見した直後に、きっと侍女が取っておいたのだろう。手紙を受け取った主が、いつかここを訪れるはずと信じて。
――スズランの髪飾り。
高級な宝石や、優れた鉱石は一つも使っていない。田舎町の鍛冶師見習いがどうにか手に入れられる程度の素材を使って、ひたすら丹精込めて造ったものだ。
金銭的な価値など、何一つとして無い。
それでも、そうと知りながら、受け取ったルーシーは本当に嬉しそうに笑ったのだ。
その日のことを今でも昨日のことのように男は記憶している。二度と戻れない、遠い昨日のことだったが。
――懐かしさが込み上げたからか、拭えぬ寂しさによるものか。
男は独り言のような調子で呟いた。
「子供の頃、俺が造って渡したんだ。ルーシーはスズランが好きだから」
「ええ、存じております。好きな男の子が『ルーシーはスズランの花のように白くて小さいね』と笑ってくれたから、と」
「……ルーシーは、そんなことまで君に話していたのか」
「はい。もっとたくさん、お話をしたかったです」
「……ああ……俺も。俺も心から、そう思うよ」
男は身を翻した。
侍女はその姿を、目で追う。
そしてその背中が朧げになる直前に――こう問うた。
「どこに、行かれるんですか」
男は立ち止まらずに答えた。
「ルーシーの隣だけが、俺の居場所だったんだ。だからもうどこにだって行けるし、どこにだって行けないんだよ」
――それから間もなくのこと。
王宮には、様々な変化が訪れることとなった。
騎士団長は毎日の責め苦によって理性を失い、首を落とし処刑されたあげくに、死体は三日三晩野ざらしにされた。
国民は美しく清らかな聖女を殺めた騎士団長を許さず、腕が持ち上がらなくなるまで彼に石を投げ続けた。
庭師は男の言葉を胸に刻みながら、それでも聖女の愛した花を育て続けた。
美しい花を誰も気づかない王宮の片隅にてひっそりと育て、愛情深く水をやった。
公爵令嬢は名を捨て、自ら望んで修道院へと入った。
晩年まで恵まれない子供たちのために身を粉にして励み、働き続けた。
近衛騎士は騎士を続けるか迷いながら、それでも歯を食いしばり王宮へと残った。
実力を伸ばし続け次期の騎士団長候補と目されていたが、本人は辞退した。
王太子は王位継承権を放棄し、王の臣下へと下った。
何度か公爵令嬢に会いに修道院に行ったと言うが、二人の対面が叶ったことは一度とて無かったという。
国王は聖女の死を悼みながら、神殿の取り壊しを決定した。
今ではその跡地には、庭師の育てた花々が咲き誇っている。
侍女は変わりゆく王宮の様子を、遠くから見つめ続けた。
こうして聖女の死の真実は、関係者の胸の内だけに永遠に秘められた。
名も無い男の行方はといえば、誰も知らない。
誰も知らない。