泉 鏡花「榲桲に目鼻のつく話」現代語勝手訳 九
九
「乾ちゃん、私にその榲桲を見せてくださいましな」
数日経った日、夕も暮れた頃、乾三は音羽に手を曳かれて、不思議な所を歩行いた。
夢路を辿るのでもなければ、雲を踏むのでもない。が、町内の深い路地の突き当たりの、まだ入ったことのない邸の中の、広庭を通り抜けるのである。
――そこが茶の湯を開催するために借りたという、黒塀の木戸の家であることは、すでに分かるだろう。――
音羽の言うには、何度も榲桲の下へ行ってみたが、顔のある実というのは、自分では一顆も見当たらない。で、乾三の手で見せて欲しいのだと言う。……それはいいが、乾三を呼び出して、この頼みごとをする時、音羽は不思議なことを訊いた。
「乾ちゃん、もしか、そんな榲桲を神官さんに見せたことはない?……」
乾三はビクリとした。理由は分からないが、とにかく、榎の法印の前に転がした時は、ちょうど音羽がそこを通りかかった時だったから、何か気に掛かることがあったかも知れない。けれども、神官の、あの様子を知っているはずはない。どうして? と訊くと、
「否ね、何でもないんですが、あれからこっち、毎晩のように、私、法印の夢を見るのよ。同じように、お宮の神主さんも、――そして、私をね、酷い目に遭わせるの」
乾三は、知らない、と言ったが、泣きたくなった。神官に榲桲の実を渡したことで、音羽の身に何か影響が及ぶなどとは露にも思わなかった。……ご褒美だって、色鉛筆とノートが一冊だったのだし。
気落ちがしたが、それでも、袖について従って、荒れた庭を通り抜けた。
と、音羽が塀の内へひたとついて、密と節穴から外を覗いた。
「あの目だ」と思ううち、静かにギーッと木戸を開けた。
町も坂も、裏返しにひっくり返して見るような気がして、物珍しさの小児心に、悄気ていたけれど、威勢よく坂の上へ飛び出した。
「密とよう」と、音羽が低声で制したので、決まり悪く、静かにした、が、さて、同じなら、贔屓をしたくて、この娘さんには、落ちている実ではなく、いつかのように地主神の屋根に一顆乗っかっていればいいのに、と熟と見た。……が、月があの時よりも大きく丸いだけ。落葉の他には樹の影ばかりで、何もない。
振り返ると、音羽が直ぐ傍に引き添っているから、節穴にはもちろん目は無く、その替わりに木戸の内側の薄が透いて見えた。
「見つかれよ、いい榲桲」と、しゃがんで探せば、乾三が手を動かすよりも前に熊笹がざわざわと動く。……その動くのが、がさがさと激しく響いた。
垣の中に人の気配。
真っ先に思い浮かべたのは、白髪の総髪。ヒヤリとして後退りすると、音羽も浮き腰だって、ひったりと木戸に身体をくっつけた。
「音羽」
「…………」
「音羽」
「あれ、父上?」
「俺だ。――静かにしねぇよ」と、くぐもった錆声をして、木槿垣の根を、低く、暗く掻き分けながら、這うようにしてぬっと出たのは……驚いた!……宮本の小父さんである。
蜘蛛の巣か、土か、汗か、髪の抜け上がった角額を、平手ですっと横に撫でると、感慨の籠もった深い息をホッと吐いて、
「ああ……、久しぶりで」と、乾三に言ってから、
「音羽、やったぞ。……女俳優を殺した奴ぁ、分かったよ」
…………
「まあ」
「しかも、死骸はこの樹の根にある」
「ああ、父上」
「俺の娘が、こんなことに怯えてどうする。いや、惨たらしく遣りやがってな、この内側のな、土手下の穴に埋めておったぜ。――なあに、……探索も苦心もない。……榎の法印め、この榲桲を拾って、目鼻がある。……気にするなよ、音羽、お前の味がすると吐すそうで、不埒な奴だ。それがどんな榲桲だか見た上で、引っ懲らしてくれようと、珍しくもねえ樹の下で、ふと風の吹くように考えた。
榲桲に顔がある。ただそれだけのことなんだが、ひょっと浮かんで、一気に任せて、無駄だと知りつつ、ちょっと潜って、よく探すと、直ぐに分かったぜ。こいつは手柄というよりも因縁事だよ。……輪廻というのだ」
「で、父上、殺したのは?」
「もちろん、隠居だ」
「ええっ?!」
「白髪の狒々よ」
「あの、そしてどうするお心なんです?……」
「知れたことよ! 引っ縛る」と、胸を反らした。腰にひたりと、昔の十手を携えていた。
「しかし、俺はその職分じゃねぇ。……ああ、その職だったらな、少将の親だろうが、大将の子だろうが、この場から踏み込むのにな」と、俯いて額を撫で、
「警察へ知らせて、婦の敵を取ってやろうよ」と、着流しの肩を寂しく、腕を組んで毅然とする。
音羽がじっと寄り添って、
「父上、女俳優のその方は、あのご隠居の言うことを肯いて殺されたんでしょうか。肯かないので殺されたんでしょうか。ねぇ」
「馬鹿を言え――知れたことよ……柔順に自由になった者を殺す奴があるものか」
「父上」
「うん?」
「私ゃ、私ゃ、すみませんが、その方が羨ましい!……親子兄弟……五人のためと、あ、諦めてはおりますけれど、嬲り殺しにされるよりも、私の方がどれだけ辛いか知れません。……女に生まれて、一生に、男は一人でございますものを」と、ぐっと力を籠めて乾三の手を取った。乾三はただ震えていた。
「男は一人でござんすものを、――今日はこの家に居り侍り――御方様たち、おなぐさみ。――」と、声が震えて、はっと泣いた。
聞くうちに段々と十手を下げた。その尖が地につく、と、父親は俯いて、ハタと十手を落とした。中腰で両手を上げ、抱くようにして、音羽の力の抜けた身体を押しながら、榲桲の根が溢れ出た垣に寄せて立たせたが、蒼白む顔に鬢のおくれ毛が掛かり、沁み入る月を暗く包んで、すっと浮く音羽のその姿は、幽霊と少しも違わない。
墓に跪くように、ひたと膝をつき、老いた岡引は手を支いた。……
「殺されたご婦人、あなたの霊にお詫びを申します。ああ、娘の言う通り、俺なんぞに他の罪を発く資格はない。……なるほど、なぶり殺しの方がましだ。……音羽、お前も堪えてくれ」
榎の法印は、二年後に、聳え立つような洋館を営んでいた。摩訶不思議な新薬を商い、それは内々では媚薬だと噂された。葡萄牙伝来の秘薬だと称し、壜の商標は人面を描いた果実である。これが大いに売れたのである。
兄は東京へ遁げた。
――この大商館の細君が音羽である。
(了)
今回で、「榲桲に目鼻のつく話」は終了しました。
拙い訳文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
例の「今日はこの家に居り侍り、御方様たちおなぐさみ」の意味は、おわかりになったことと思います。
「おなぐさみ」は「お楽しみ」の意。
月に6回、茶の湯の席を設けると称して、音羽は一家を支えるために、春を鬻いでいたのでした。
この文を敢えて現代語に置き換えるのは野暮というものでしょう。
最後の部分で、「兄は東京へ遁げた」とありますが、この「遁げた」という言葉からすると、兄も静御前殺しに関わっていたのでは? との推測もできそうです。とすれば、兄と隠居とはどんな関係にあったのか? 気にもなります。
また、音羽が榎の法印の妻におさまったのをどう見るか。
可哀相と見るか、したたかと見るか。それとも……。
色んな疑問や感想もあります。
で、いつものお約束? できれば、原文を読んでいただければと思います。
この作品はまだ、青空文庫にはないようです。
「鏡花全集 第二十巻」、「鏡花小説・戯曲選 第四巻」に収録されています。
あるいは「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイトでも読むことが出来ます。
他には、別に宣伝するつもりはありませんが、個人的には、原文を読むなら、河出書房新社の絵本タイプの本である「榲桲に目鼻のつく話」をお勧めします。
フォントがすっきりして読みやすいし、何よりも絵がとても綺麗で、作品を理解するのに役立つと思います。
是非、原文をお読みになって、鏡花の文章に触れていただければと、思っています。
そして、もしも興味があれば、読者の方、お一人お一人が、自分なりの現代語訳をされるのもいいかと考えています。
実際にこの作業をすることで、鏡花の文章の「あや」を知ることが出来るのではないかと思います。そしてまた、私の勝手訳よりも、ずっと好い訳が出ると期待もしているところです。