泉 鏡花「榲桲に目鼻のつく話」現代語勝手訳 六
六
「へっ、そこで、その女を誰だと思います?」鉄公は掌で抱えた頤を突き出して言った。
「俳優ですぜ、若い女俳優ですぜ、――お前、あの、水溜の小屋の義経の芝居で、美しい静御前を見たろう、見たかい?」
それは見た。
「あの女が殺されたんです」
何を言うやら、あまりのことに乾三はただ黙って聞いていると、
「芝居小屋の方じゃ、何処かへか遁げ出して行方が分からないってことになってるんです。そら、入りがあまりなかったろう。そんな時はよく遁げるのがあるってよ。――もう一人、何とかって俳優と二人遁げたんだって。そっちの方はどうでも構わないけれど、あの静御前をしたのが居なくなっちゃぁ、お前、なおのこと入りがないぜ。だから、病気で休んでいるって誤魔化していたけれど、それでも、とうとう芝居自体を休止にしてしまった。だもんだから、一座はな、金もなくて、次の土地にも行けず、どうすることもできないでいるんだとよ。それでもあれだ、静御前は遁げたんだと思ってるんだ。――僕ン許は芝居小屋のすぐ前だろう、楽屋にも知った者がいて、よく知っているんだ。それが、お前、本当は、ところで、お前、殺されたんです。誰が殺したと思います? へっ、分かりますまい」
嘘だとは思っても、小耳を立てずにはいられなかった。
「本間の隠居よ」と、スカリと言って、きょろきょろと四辺を見廻す。立派な門が向こうに見える。
「天狗だって言うが、そうじゃねぇ。天狗はお前、人を攫んで去ったって、股から引っ裂いて樹の上にぶら下げたって、悪いことをした者に罰を当てるんだけれど、爺のはそうじゃねぇ。綺麗な娘ばかり狙ってな、人身御供に取るんだい、彼奴ぁ、狒々だぜ」と、額に皺を刻みながら、
「それでもって、お前、あの、美しい俳優をよ、裸体にして食ったんだ。その着物を大藪の溝へ突っ込んで隠したんだぜ。そうら、どうだ。――それからな、食い余した死体をよ、そいつをそうら、……」と、乾三の顔を見る。乾三は鉄公が饒舌るのを聞いた途端、思い当たった。
『榲桲だ!』――と、その通りに、
「榲桲の樹の根方を掘って、突っ込んで埋めたんです。……だから。一人でも、誰か、人が、あそこの傍へ行くのを厭がって、それでもってからに、広告の札を心配したり、杖で打ったり酷いことをしやがるんだ。……畜生、痛いぜ、狒々め」と、顰めた面を泣きそうにして、
「僕ぁ、泣いたことなんかねぇんだけれども、痛かったぜ、畜生! やっぱり食いやがる前に、静御前の姉さんを、あの杖で打って半殺しにしやがったに違いねぇんだ」
『馬鹿なことを』と、思いながら乾三は身震いした。
「それでなきゃ、……誰が黙って食われたりするものか。きっと打ったぜ、裸にして、その、何だい、白壁にちょろちょろ火って、女俳優をよ」
一も二も何もない。撞木杖を撲わされた恨みでもって、不断から乱暴者の癖に、――蛇が家のぬしだと公言するほど執念の深い鉄公であるから、こともあろうにご隠居を殺人犯にして、出任せ放題に言ったことに間違いないと、小児心にも合点がいった。
が待てよ。――嘘を言うにも程がある、とあまりにその話のあくどさに悚毛が立ったが、今の白壁にちょろちょろ火でよく分かった。――鉄公だけの作り話ではあるまい。以前聞き囓った色々な談話を綯い交ぜにしたのである。
――この社務所に、見習いの神官で、渾名を『女郎』と言った、しょなしょなした若い男が居た。面と向かっては、まさか女郎とは言えないから、上臈(*地位の高い女官や御殿女中、あるいは遊女などをいう)さんと言うと、「はーい」と嬌態を作る。……この頃では、もう京阪地で、新派の俳優になった、と聞く。
その神官女郎が、実際談話好きで、よくこの廊下へ前町の小児たちを集めては、身振り、仮色交じりで、様々な物語をしたものである。題は俊徳丸、三荘太夫。そんなものより、武者修行の武勇談が大得意で、一條の中には大抵美しい娘が山賊に囚われるか、人身御供に上がる場面が出る。――その娘が、迫害、或いは陵辱を被ろうとして、あわや! と言うのが白壁にちょろちょろ火で、火が燃えるという意味ではない。着物が解けて、手足を藻掻き、肌に緋縮緬が乱れて搦んでいるという形容である。途端に、『待ってました!』とばかりに英雄が顕れるのだ。
鉄公のは、それをちょっと拝借したのだとは言わずとも分かる。
「じゃあ、それじゃあ、そこで誰か強い人が行って助けるんじゃぁないか」
鉄公は腕まくりをして、威す真似をして、
「馬鹿、そりゃぁ昔の話だい。本当のことがそう巧く行くものか、馬鹿言ってら」
「では、なぜ警察が黙っていますか?」
「あれ! 簡単なことさ。知らねえからさ。でも、こんなことはうっかり饒舌れねぇよ。少将閣下のご隠居のことだからな」
「そうすりゃ、殺された人は可哀相だなぁ」
「だからよ、それだから内緒でお前に聞かせてやるんだ。――お前ん許でもそうだし、お前だって、あの、宮本の小父さんを知っているじゃぁないか。あの小父さんは、お前、何だと思う?……ええ、警察に勤めているんじゃぁないけれど、探偵だぜ。探偵の下働きだぜ。――だからな、小父さんに密とそう言ってよ、どうにかしてよ、静御前の敵討ちをしてやろうじゃぁねぇか」
「厭だい」と、乾三はたちどころに頭を振った。
「告げ口をする奴は、殺した者より、なお悪いや。そ、それだし、そんなことを言ったって、証拠も何もないじゃないか」
「証拠って言うのか? へん! よしてくれ」
笑わせるといった風で、鉄公は怪しい仮声で、うっちゃるように言った。
「あの爺が二度も三度も芝居に入っていたことは僕だって知ってるぜ。――袂の椎を囓ってな。……楽屋の裏は、風呂場も一緒に、お前、崖一つで、すぐに本間の大藪じゃねぇか。寂しい日暮れ方によ、……故郷でも恋しかったろう、長旅の女俳優だから、鼓を持ったままで、ふらりと出るところを、向こうの藪に、あの爺が、あの姿で、薄ぼんやりと、神様だか、魔だか知らねぇが、立っていて、ぬうと撞木杖を出して招いたとよ。……その時な、爺がな、片方の手に、同じ鼓だとか、袱紗に包んだものとか持っていたって、見た者がいるんだ。僕んちの職人の中によ。
見た者がいて、そう言うけれど、あの、椎の実爺め、僕は持っていたのは榲桲の実だと思うぜ。そいつが狒々の通力で、静御前の目には玉子ほどの宝珠の珠とか真珠なんかに見えたのかも知れねぇ。ぼぅっとなって、誘われて行ったところを、それ、大竹藪へ引き込んでな、白壁にちょろちょろ火だぜ」
秋の暮れだの、故郷だの、長旅の女だの、鼓を持ったの、鶏卵ほどの宝珠だの、真珠だの、ぶらぶら誘われたのと、みんなお女郎神官の話の中に織り交ぜてあったのを、何の脈絡もなく勝手に引き出したものらしい。建具屋の職人の中に見た者がいるというが、それにしたって、中僧(*年かさの小僧)、小僧ぐらいな所は、いずれも町内の若い仲間で、お女郎の話の聞き手の中に交じっていたから、鉄公の話はそのままのこととしては受け取れない。
しかし、何にしても惨たらしくて聞いていられない。避けて遁げるように階段へ出て立つと、秋空を颯と一陣の雁が渡った。――あぁ、あの中に、行方の分からない静が交じって飛んではいないか。
どこからか幽かにトントン……と砧(*注参照)を打つように響いたのは、榲桲の実の音かも知れない。
注:砧……洗濯した布を台に乗せ、木槌で叩いて柔らかくしたり、皺をのばしたり、光沢を出したりするための道具。
つづく