泉 鏡花「榲桲に目鼻のつく話」現代語勝手訳 五
五
「乾ちゃん」
ここは榲桲の樹のある所とは反対側の、すぐ前町の片側で、軒続きの家々の裏口が見える場所。氏神の宮の縁の片隅に小さく胡座をかいた鉄公が、声を密めて、ものありげに、
「乾ちゃん、お前、何だなぁ、この間あれだなぁ、本間さんの坊ちゃんの庭へ遊びに行って、大藪の中で何か見たって言ってたけど、――本当か?」
「藪玉(*ホコリタケ科のキノコ)よ……それか、大きな蜘蛛の巣か」と、つい何気なく言った。
「馬鹿言ってら」と、鉄公は低い鼻を仰向けて、日向を吸って嘯いて、
「藪玉とか蜘蛛の巣が何になるって。そんなものを訊いているんじゃない。ヘッ、そら、真紅な何だか綺麗なものがあったとか、居たとか言ったじゃねぇかよ」
「ああ、それはね、藪の中じゃぁないよ」
「では、何処だい?」
「うん、藪の中は藪の中なんだけれども、ずっと奥へ入った崖のね、深い溝のちょるちょろ水が流れてる所に居たんだ。――綺麗なものだった。真紅でね、上にきらきらと金色が懸かって光っているんだ。ちょっと見ただけだよ。僕たちは妖怪退治の真似をしに入ったんだから。坊ちゃんが声色を使って、『ようし、来てみろ』って、そう言って持っていた矢を放したんだ。当たってね、僕たちは直ぐに隠れたけれど、追いかけてくると怖いからって、遁げ出したんだよ。ああ」
「君!……」と、鉄公は猪首をすくめて、一層低声で、
「何だと思う?」
「何を?」
「その、紅い煌々した綺麗なものをよ」
「本間さんの家の、ぬしですよ」
鉄公は蜻蛉取りをしていた時のことがまざまざと目に浮かんで、今は散っているが、境内の百日紅の色よりも濃い、生垣を隔てた傍の裏口に咲き残っていた夾竹桃の花の色を思い出したが、乾三が見たのはそれよりももっと濃かったに違いないと思いながら、乾三にそう訊いたのだった。乾三は、
「五百年経った赤蛙だって言うけれど、違う……僕んちのは化緋鯉だ、って坊ちゃんが言ってた」
「へ、嘘だい」
「じゃぁ、坊ちゃんにでも誰にでも訊いて見ればいいさ。……ぬしは居るんだよ。何処の家にも、蟹だの亀だの、鼠だの、蜘蛛だの」
「そりゃ、そりゃ居るさ。ぬしは居ますさ。僕んちのなんざ、蛇だけれどもよ。……お前の見たのはそうじゃねぇや」
「だって、坊ちゃんが……」
「そのな……坊ちゃんだって知らねぇんだ。知らねぇで、ぬしだと思っているんだ。けれど、違う。……おい、言って聞かせようか、誰にも言うなよ」と、肩をいからせて、また低声で、
「それはな、帯か、袖か、腰巻か、何でも女の着るものなんだ」と鼻水で筋になっている袖を引っ張り、膝小僧を小刻みに敲いて饒舌る。
乾三は目の前に、ぱっと虹が架かったように目を睜った。
――思えば、藪から洩れ出たその一幅が草隠れに水に映ったのを見た時、乾三には虹の彩にも見えたからであった。
つづく