泉 鏡花「榲桲に目鼻のつく話」現代語勝手訳 三
三
巡査は立ち止まった。
狭い坂の上を、直角に切ってぶるぶるしている杖のせいである。
掻い潜るか、引っ払うかしなければ、たちまち髭にゴツンと当たって、通れはしない。
「何で……ありますか?」
巡査はちょっと手を挙げて敬礼をした。この界隈を受け持っている警官である。この隠居は小児たちでもよく知っている少将閣下の父君であるため、地方のことでもあり、敬意を表したものであろう。
「はあ、何でありますか?……はあ、この札ですか」と、剣を垂直に直して懸札を見て立つと、隠居の杖も垂直に下りた。で、ぶるぶるとその薄黒い唇を動かす。小児の目から見ても、杖で指し示した懸札の意味を隠居が問い詰めているとみてとれる。
「はあ、ははあ、……今日――いや、今日は、か。今日はこの家に居り侍り……ふん」と、挘るように髯を捻って、
「……御方様たちおなぐさみ、と、……ふん、ははあ、はて? ……いや、本職もただ今初めて気づいたです。が、何の広告、どういう意味でありますかな。――居り侍り――な。むむ、書いたのは男子ですが、女子の言句のようでもあるですて。変です。不可解ですわい。はああ……いや、ご注意いただき感謝です」と、また一礼しようとするところに、杖が再びぶるりと指す。
「は、一応検べるです。……直ちに取検べんけりゃなりません。――開きますかな? しかし、ここは開くのかな?」と、一歩退って、ざっと板塀を見廻した。が、すでに木戸に手を掛けると、ぎしぎしと軋んで開いた。
その時の格好が可笑しかった。半身が庭の中にのめり込み、洋服の腰と剣が靴を爪立てて外に出ている、いわゆるへっぴり腰の格好だ。巡査はぐっと入身になって、中を窺っているのであろう。が、やがて、一跨ぎして入った。
隠居は心持ち頷いた。
乾三は、ちょろりと地主神の祠の裏から顔を出して覗いたが、もう一足奥には、がさこそさせながら、鉄公が銀杏の落ち葉の中に潜んでいる。興行中の芝居にかぶれ、弁慶だか忠信だか、悪びれた面になるように、色を塗って隈取っていたのである。
……が、それほど時間も経たないうちに、
『おっ、もう出て来たぞ。取検べの早い巡査さんだ』乾三は胸の中で呟いた。
「ご隠居、ハハ……」と、巡査は隠居の顔を見て、浅く笑い、
「速やかに相分かりました。問題ありません。これは――ご存知でもありましょうが、前町の角で旅店を営んでおります、あの宮本ですな、宮本の主人がですな、かねがね活花、茶の湯などを嗜んでおりますが、自宅は手狭でありますので、この家において、庭に面しました一室を借り受けて、時々、出張に出てくるそうであります。――釜を懸けて、ちゃんと控えて居ってです。――はあ、で、同好の者は遠慮なく、ここに来て慰み、共に楽しむようにと、すなわち風流の友を招く、この懸札はその口上だそうであります」
『なんだ、そんなことか。それなら巡査さんより僕の方がよく知っている』と、乾三は小耳を立てながらそう思った。
宮本と言って、背の低い、額が両際に禿込んだ、演劇に出てくる落ちぶれた浪人のような小父さんだ。
旅館と言っても、ほんの素人旅籠で、女中一人置いている訳ではない。町内の若い者が、それも大勢ではなく、四、五人が集まる程度で行う俳句の批評をしたり、今言った活花だの茶の湯だのの、手ほどきをする――兄なども時々出かけている。
その小父さんがここに来て、茶の湯とかをやっているのだ。
「はッ!」巡査は吃驚したように、懸札の文字を見た。隠居がまたしても唐突に杖を突き出したのである。
「ははぁ、――居り侍り、――いや、女子の言句らしい点については、ですな……別に立ち入って訊き正しもしなかったですが――娘が来ておりますわい、宮本の、はあ。娘と一緒にと主人が言うておったですからして、やはり茶の湯をやるのでしょうな。でありますから、口上のうちに女子らしい言葉が含んでおるかにも考えられます。はあ、で、ご隠居には何かご不審の点――ははぁ、ご了解いただけましたか。……ご隠居も、いかがです、お暇な時にでも、ちとお楽しみ」と、木戸を閉め状に言いかけて、
「しかし、奇異ですな、誰もちょっとこれには気がつきますまい。御方様たち、おなぐさみ――」と札と隠居を等分に見ながら、
「では、失礼」と会釈をして、隠居の前を抜け、反身で境内の方へ――。剣の鞘が光って行く。……
鉄公と乾三は二人して、言い合わせたように祠の陰からひょいと出た。
何かひと騒動起こりそうなことで、巡査がわざわざ庭へ入って検べたほどの懸札である。小児にとっては降って湧いた物珍しさ満開の出来事だ。口には出さないが、二人とも同じ思いで、好奇心はもう止めようがない。
「や、これだい、これだい」と、鉄公は札の前で、二度ばかり躍り上がった。攀じ登りそうな勢いで、
「乾ちゃん、読めるかい?」
「読めらい」
『今日はこの家』と読んだ時、ふと気になったのは札の横の節穴で、縦裂も横破れも隙間は塀に矢鱈とあるが、その一番小さいのに、水晶のような目が一つ。
「ああ、音羽(*後書き参照)ちゃんだ」と、即座に思った。――今しがた噂になった宮本の娘である。
「今日は――この家――に居り居りだい。……その次は変な字だぜ」と、鉄公は跳ねながら、背後に天狗の居るのも忘れた。……縦囓りに榲桲に、みしと歯を立てて、下歯で引っ掻いて、フッと青い皮を吹き散らしたと思うと、
「ワッ!」と叫んで、飛び上がった。
ご隠居の杖が、その出尻にぴしりと一つ見舞ったのである。
「痛ぇ! 痛いや」
負けん気の強い鉄公は、遁げ状に足を捻るようにして、隠居に歯向いた。隈取った異様な形相を万華鏡で形を崩したようなくしゃくしゃな顔にして、
「へッ、樹から奪ったんじゃござんせんや。拾ったんで、へッ、拾ったんでございますよ。痛えなぁ」
また、ゴツン。
「痛えッ! 酷いや、酷いなぁ」
強情な奴でなかなか遁げない。泣きながら地団駄踏むのを見て、隠居の唇はひときわ暗くなって、撞木杖を振りかぶった。
振り上げながら、そのまま振り向いて乾三の方をじろりと見た。と、遁げるにも、杖の下を潜らなければならない。――乾三は泣き出した。
ぎぎぃと木戸が開くと、紅い蹴出しがちょこりと出た。
「ご免なさいましよ」と、優しい声。
結綿島田(*日本髪の島田髷の一つ)の大きなのをゆらゆらと、白い片手で翳すように杖を留めた。が、その片袖で包むようにして庇ったのは乾三の方であったから、隠居の杖は下がりしなに鉄公の頭を掠った。
「きゃッ!」と叫ぶと、くるくると舞うようにして遁げた。
踵まで届く長い裾と、素足に庭下駄を穿いている音羽ちゃんの妙に媚いた格好を、下目で見ながら震えていた乾三は、袖の中から密と顔と島田を見た。
この時である。四辺は森然として、榲桲の香りが満ちる中、赤い帯をした姿を、百合の花そのままだと思ったのは。
「さ、行きなさい」
背中を撫でて、押すようにして袖から出してくれた。駆け出すところを、背後から、
「お兄様によろしく……ね」
ただ、榲桲の下を垣根に沿って、一方に奥殿の玉垣(*神社の周りを囲んでいる木や石で作られた垣)を見ると、――お宮の神主が高い廻廊の北の端の所に、欄干に手をついて伸び上がって、暗闇坂を差し覗いているのに気がついた。
『嬉しい……氏神のおもり役は、小児の泣き声を気にかけてくれて』――
原文の「音羽」の振り仮名は「おとは」である。
では、実際の読みは、OTO「HA」なのか、それとも、OTO「WA」なのか?
現代でも、「HA」ではなく、「WA」と読む方が一般的なようです。
それは姓の場合に多いようです。名としては、「HA」もありだと思いますが、ここでは通例的に「WA」、すなわち「おとわ」とルビを打ちました。
※ 「今日はこの家に居り侍り、御方様たち、おなぐさみ」
これを現代語訳にしようと、最初は考えていました。しかし、考えてみれば、今ここでそうするのは、野暮というものだと、考え直し、そのままにしています。
この作品を最後まで読めば、いや、最後まで読まずとも、分かるだろうと、思ったからです。
もしかしたら、最後に、勝手訳として書くかも知れません。いや、書かないかも……。
つづく