九話
『すみませんが、誰ですか?』
メッセージアプリには、由美子の名前が表示されていた。
飲みにいった際に撮影されたと思われるカクテルの画像アイコンは、プロが撮影した写真のように美しかった。
『中山順也です』
たった六文字を入力するだけで三分ほどの時間を必要とした。
既読マークが付くと、一分も経たずに返事が返ってくる。
『え、順也くん? 由美子だよ、覚えてる? 珠希と連絡取ってる?』
「早すぎ、みんなスマホに慣れすぎだろ……」
誰かから連絡がくることも想定していなかった順也にとって、由美子からの連絡は青天の霹靂だった。
思わず漏れる言葉に構っていられない様子で、入力したい言葉をスマホに打ち込む。
スマホどころか、ガラケーでさえもほとんど使わなかった順也にとって、文字の入力は至難の技だった。
もどかしい文字入力を繰り返していると、音声着信の画面に変わった。
電話がかかってきたようだ。
「――もしもし、由美子か?」
『そう、返事遅い! 久しぶりだね、やっと原始人が文明を手にするときがきたかぁ……』
電話越しの由美子は、最後に会った二年前と変わらぬ口調で語りかける。
「……珠希とのこと、その……悪かったな。荒れただろ?」
『そりゃあ、もう凄く荒れたよ。浮気したから別れてほしいって言ったんだって? おかげで一年くらい飲み歩きに付き合わされたんだから!』
「え、珠希が酒を……?」
『まさか! ほら、最近流行ってるでしょ、タピオカミルクティー。おかげで毎週胸焼けに悩まされたんだからね』
「そんなことで済んで良かった……」
自暴自棄になって無茶をしていないことに安堵の呟きを溢すと、由美子はスマホ越しに怒った。
誰かと、こういうやりとりをすることは久しぶりのことだった。
順也は、自分の日常に帰ってこられた気がした。
再び昔の友人と繋がったことで、以前の暮らしに戻れるのではないか、とまで思えた。
珠希と別れた二年の間、自分がどうやって生きてきたのか、どうやって呼吸して食事をしてきたのかも、はっきりと覚えていなかった。
押し寄せるさまざまなことを見送るように過ごしてきた。
『――本当に浮気だったの?』
触れてほしくないところに由美子が切り込んでくる。
察しが良く、抜け目のないところも変わっていない。
「実は……二年前に事故で両親が死んでさ。頭の中ぐちゃぐちゃで珠希に会うとか、それどころじゃなくてさ。婚約者だって紹介するために、こっちに呼んだ帰り道の事故でさ、あいつ絶対に責任感じるだろ? 俺だって別れたくなくて必死に隠したんだけど、ひとつ嘘ついたら、全部がうまくいかなくなっちゃって……。だから無理矢理にでも別れることにしたんだ」
『それ……珠希知らないの? 言ったら良かったじゃん、夫婦になる相手だったんだよ? そういうことを乗り越えるための結婚じゃないの?』
「今思えばそうだな、当時は本当に頭が回らなくて……。まぁ、今となっては終わったことだよ。それより、このアプリになんで由美子がメッセージできたんだ?」
『電話番号で追加されるんだよ。私の番号登録したでしょ? その感じだと珠希の番号も登録したよね。今は……連絡しない方が良いかも。私もタイミング見て少し話してみるね』
電話を切った後、先ほどまで入力している途中だった文章が表示された。
中途半端な文章は、中途半端なままだった自分を思わせるようで順也は頭を振って考えないようにした。