誰もいないの
プロローグ
「これからはいつも4人一緒よ。ねぇあなた、もう絶対遠くへ行ったりしないで、いつまでも私たちのそばにいてください。あぁ、あなた、こんなに、温かかったのね。私は、もう、どこまでも。」
1
私には二人の息子がいます。小学校4年生の哀と、小学校2年生の佑です。
二人の父親は、つまり私の夫は、次男が生まれる前日に、会社のビルから飛び降りました。
落ち着いてから話したほうがいいと言う医師からの配慮があったらしく、私がその事実を知ったのは次男を生んだ、3日後でした。
二人目の子供が生まれたのに、病院にも顔を出さない、何かあるとは思っていましたけれど、まさか自殺するなんて思いもしませんでした。飛び降りたビルの屋上には、手紙が残してあったらしく、そこには家族への感謝の言葉と、子供を残したままで申し訳ないという謝罪の言葉が短い文で書いてあったそうです。飛び降りた理由は、どこにも書いてなかったということです。
ショックでした。ほんとに前日まで、毎日病院に来て、私のことを笑顔で励ましてくれていたのに、突然いなくなっちゃうなんて、私は気が狂いそうでした。二人の子供は?私たちの将来は?ねぇ、なんでそんな遠くに行っちゃうのよ、と泣き崩れた夜もありました。
それでも、この子達はあなたが残してくれた唯一の宝物です。失うわけにはいきません。私は自分ひとりでこの子達を育てていくことに決めました。
二人の息子には、パパは遠いところに行ってて帰って来れないと言ってありました。
私たちの住んでいる家は、二階建ての小さな庭のある一軒屋で、二階に寝室があります。
夜、階段を上って、寝室へ向かうとき、二人はよく私にパパの事を色々聞いてきました。「パパはいつ帰ってくるの?」そう聞かれたとき、私はいつも同じ事を答えていました。
「良い子にしてたら、すぐに帰ってくるわよ。パパはあなたたちの事をいつも見てるんですから、ちゃんと良い子にしていましょうね。」
「うん。わかった。パパ早く帰って来ないかなぁ。」
そういう会話を階段を昇りながら今まで何度もしてきました。
2
それは普段と変わらない一日のはずでした。それがまさか・・・
その日、二人が小学校から帰ってきたとき、台所にいた私に哀がいきなりこう言ったのです。
「やったー、ねぇパパが帰ってきたんだ。ほらみて、あそこだよ」
そう言って哀はリビングの窓から庭のほうを指差しました。佑はその様子をただ不思議がってみていました。
「一緒におうちの中に入ろうよって言ったら、パパはもう少しここにいるから、早くママにただいまって言ってあげなさいって言われたの。だから、ほら、早く、パパのところ行こうよ」
最初、この子は何を言っているんだろうと思いました。でも、哀が玄関へ走り出してしまったので、とりあえず外に出てみることにしました。玄関で靴を履いているときに、後ろからついてきた佑がひとこと言ったのが聞こえました。
「お庭には誰もいなかったよ?」
3
玄関を出た私は、佑と一緒に庭のほうに向かいました。
哀は、先に庭にいました。空を見上げて何か喋っていました。
「ねぇなんでずっとおうちを見てるの?」
悪寒が
「あぁ、そっか。そうだよね、久しぶりに帰ってきたんだもんね。」
体中を
「うん。毎日いっぱい食べてるからだよ。パパも背高いね。ママより高いよきっと。」
駆け巡りました。
私はその場に立ったまま、傍らにいる佑をしっかり抱きかかえて、静かに言いました。
「哀、こっちにきなさい。哀、そこには誰もいないのよ。こっちにくるの。哀。」
哀は、私に気づくと私を指差しながらまた空を見上げて言いました。
「ほらママだよ。あれ?どうしたの?何で泣いてるの?」
「ああそっかぁ懐かしくてかぁ。良かったね。久しぶりにママに会えて。」
「あれママ?何でこっち来ないの?せっかくパパに会えたのにさぁ。」
私はひざから地面に座りこんでしまいました。ほんとにあのひとが?哀には見えるの?
「哀、そこには誰もいないでしょ?」
「何言ってるのママ。パパがいるじゃん、ほら」
そう言って、哀は右手を開いて自分の頭の高さくらいに上げて、前方のほうに突き出しました。すると、右手はまだ伸びきらないところでぴたっと静止したのです。そしてその右手を、ゆっくりと閉じました。まるで何かを握っているように。そう、まるで、誰かと手をつないでいるかのように。
「え?何?どこかいくの?」哀は空を見上げて言いました。
「ママ、パパが楽しいところに連れて行ってくれるって。一緒に遊びに行ってもいいでしょ?」
「哀、だめ、哀、こっちにきて、お願いだから。」私の目から涙があふれました。あの人が哀を連れて行ってしまう。行かないで。でも、私はもう立ち上がる事もできませんでした。不安、恐怖、色々な感情が私の身体の自由を奪っていました。
「大丈夫だよ。すぐに帰ってくるからさ。じゃ、行ってくるねー」
楽しそうに歩き出してく哀の右手はずっと掲げられたままでした。
「哀・・・哀・・・」
佑を抱きしめながら、私はただ名前を呼ぶことしかできませんでした。
哀はそれっきり、もう二度と帰ってくることはありませんでした。
その日は、夫の命日でした
4
哀がいなくなってから2年が経ちました。佑は小学4年生。あのときの哀と同じ年になりました。
あの日以来、パパの話をまったくしなくなった佑は、前よりも私に甘えるようになり、さびしくさせてはいけないと思った私は、佑に努めて明るく接していました。
そして、あの人の命日の日がやってきました。それは哀のいなくなった日でもあります。
去年は、佑も学校を休ませて、一日中私のそばにいさせて過ごしました。何事もなく一日を終えることができた私は、その夜、少し泣きました。
今日だって、佑を絶対に失うわけにはいきません。私は佑を去年と同じように一日中そばにいさせることにしました。
朝起きるとまず、仏壇に向かい、あの人のためにお線香を供え、合掌をして、私たちを離れ離れにしないでと、祈りました。佑も小さい手を合わせて、目を閉じていました。
一日中、ずっと佑を抱いて二階の寝室でベッドに横になっていました。
うとうとしてきたと思ったら、急にガラガラという音がして、目が覚めました。いつの間にか本当に寝てしまったようで、あたりはもう暗く、月明かりがかすかに部屋を照らしていました。隣に寝ているはずの佑の姿がありませんでした。
「佑!」飛び起きた私は、庭側の壁に備え付けてある窓が開け放たれている事に気づきました。あの音は窓が開けられる音だったようです。そしてその窓から身をを乗り出すようにして、佑が庭を覗きこんでいました。
「何やってるの!危ないでしょ。佑!!」言いながら、下を覗きこんでいる佑の身体を抱きかかえようとしたとき、佑がひとことだけ、確かに言いました。
「パパ、いま行くよ。」
佑に伸ばしていた手が一瞬止まりました。驚いて、声も出ませんでした。
ただ、はっと気づいて、次の瞬間、手を伸ばして抱きかかえようとしたその先にはもう、佑の姿はありませんでした。空を切った私の両手が手にしたのは、小さな佑の体ではなく、どすっという鈍い音だけでした。
5
いつの間にかに、朝でした。窓の手前で、震える背中を丸め、床に何度も頭を打ち付けました。
「どうして私だけ、どうして・・・」
声が枯れるまで叫び続けたせいで喉が擦り切れるように痛みました。目から流れた涙は、床に染みをつくり、朝日に顔を上げると、窓から遠くの景色が見えました。まぶたが腫れているせいか、焦点が合わず、すべてがぼやけて見えました。
自分が何で泣いているのかすらもう頭になかった私は、遠くを見つめていた視線を自然に下に下ろしました。
焦点の合わない目が、小さい塊をみつけました。昨夜の出来事が一気にフラッシュバックしました。あぁもう私だけ。あの人も哀も佑も・・・
それでもまだ私の理性は生きていました。佑を起こしてあげないと、ずっと地面に寝かせたままなんて、可哀想過ぎるわ。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋を出ようとしました。しかし私は部屋の扉を開けることはできませんでした。声が、かすかに聞こえたような気がしたのです。後ろから、そう、窓のほうから。
じっと耳をすましていました。思い過ごしで合って欲しいと願っている自分と、その逆を期待している自分、頭の中には二つの思考が確実にいて、そしてきっと後者のほうが少しでも勝ったから、再び聞こえたのでしょう、あの声が。
「ママー。」
重なった二つの幼い声。絶えられませんでした。ドアに向かっていた私の足は窓のほうへと引き返し、窓から身を乗り出した私は戸惑うことなく下を覗いてしまいました。
三人が笑顔で私を見ていました。
あの人の笑顔、久しぶりに見ました。もう、一生見られないと思っていたから、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに。
あの人が、待っている。哀が、佑が、私を待っている。そして、結局、窓から身体の半分を乗り出している私の背中を最後に押したのは、やっと聞けた、あの人の優しい声でした。
「良くがんばったね、おかえりなさい。」
落ちていく間も、私は三人の笑顔を見ていました。
あの人の胸に飛び込んだ私は、涙流れる目をこすりながら、かみ締めるように言いました。
「ただいま。」
エピローグ
「二階のベランダから落ちたというのに骨折だけで済んだなんてまったく運が良かったとしか言いようがないな。しかし、どうもこの患者、地面に落ちたとき頭を強く打ったらしく、重度の幻覚症状を引き起こしているんだ。どうも、亡くなった家族が出てくるらしい。君も、彼女と接する際には十分に注意して行うようにな。」
医師は複数のレントゲン写真を見ながら、担当の看護婦に言いました。
「失礼します。昼食の時間です。」
昼食の時間になり、看護婦が、病室のドアをノックして、静かに開けました。
そこは窓とベッドが一つだけある個室になっていて、今朝救急車で運ばれてきたばかりの女性が、全身に包帯を巻かれて、ベッドに寝かされていました。
女性は窓の外を眺めながら、優しい声で話していました。
「これからはいつも4人一緒よ。ねぇあなた、もう絶対遠くへ行ったりしないで、いつまでも私たちのそばにいてください。あぁ、あなた、こんなに、温かかったのね。私は、もう、どこまでも、あなたと一緒です。」
終わり。