3 新たな異変
シュガーラディッシュの群生地がディーオの脳内地図に表示されたのは、探索を始めてから一時間ほど経ってからのことだった。
しかし、普段とはあまりに異なるそれを信じることができず、目視できる地点まで移動を続けることにした。
「……おいおい、なんだよそれ」
その場所は、ディーオや同行している『新緑の風』の者たちだけでなく、マウズの迷宮へと入り浸っている冒険者の誰一人と見たことがないような状況になっていた。
「いきなりどうしたというの?」
耳聡くディーオの呟きを聞いた魔法使いのリンが尋ねる。
「あっちの木の上あたりを見てくれ。……薄く色づいているのが分かるか?」
指をさした先では木々が寄り集まり森のようになっていて、そのすぐ上に何かが漂っているのが見えた。
「うん?ああ、言われてみればあの近辺だけ色が違うな」
「本当ね」
「うむ」
「薄い紫?それとも桃色かしら?見ていると落ち着かなくなりますね」
「気持ち悪いな。俺は好かん」
それを見た五人が次々と感想を口にする。こういう時にきっちりと反応を示してくれるのはありがたい。
情報の共有は行動を共にする上で必須のことだ。互いが互いの何を理解していて、何を理解できていないのかを把握していないと、思わぬところで足元を掬われてしまうことがあり得るのだ。
「ルセリアさんにガンスさんの感じた通り、あれは俺たちにとっても良くないものだ。あの薄く色づいた煙のような霧のようなものを媒介にして、シュガーラディッシュたちは精神攻撃を繰り出すとされている」
「つまり、あの煙の下にシュガーラディッシュがあるということなのね」
リンの問いに首肯することで答える。ただし、これまでに報告されたことがないほど大規模な群生地ということになるが。
「シュガーラディッシュが見つかったんだからいいことじゃないのか?」
そこに続けてグリッドからの質問が飛んでくる。台詞だけを聞くと、問題が起きていることが分かっていないようであるが、その口調やこちらに向けられた眼差しから、通常では起こり得ないようなことが発生していることに勘付いているようであった。
要するに、さっさと続きを話せと促されていたのである。
「シュガーラディッシュがいるであろう場所と、その周りの木の位置が近過ぎるんだ。ついでに言うと、木々同士の位置も近過ぎる」
この二十階層にある木は全て魔物であり、動物型の魔物とは比べるべくもないが、それなりに動き回ることができる。故に互いが上空からの光を存分に浴びることができるように、適切な距離を保っているのである。
事実、視線を横へと向けた先にある木々は、地面である床部分にまで光が差し込んでいて、まるで人が手入れをしているかのように均等に並んでいた。
「それなのに、あそこの森の木々は枝がぶつかり合うくらいにまで密集している。既に精神攻撃を受けてしまっていて、そして多分シュガーラディッシュを守るように命令されているんだと思う」
シュガーラディッシュが行う精神攻撃とは、対象を魅了状態にすることである。その根本的な原理は未だ不明な部分が多いのだが、葉や茎から発生させる煙もしくは霧の中に幻覚・幻聴作用がある物質が含まれていることが近年の研究で明らかになってきている。
先ほどディーオはこの煙や霧を媒介にすると説明していたが、正確には幻覚・幻聴をかけて、魅了状態へと落とし込みやすくする、いわば増幅装置とでも言うべきものであって必ずしも必須ではない。
ただし、これなしでは魅了状態にするのは著しく困難なようで、精々鼠くらいの大きさの小動物までしか効果がないとされている。よって実質的には必須のものだと捉えても問題ないだろう。
「そう言われると、あそこの木々は簡単に奥へと進まれないように妨害の柵のようになっているようにも見えてくるわね」
リンの言葉に納得したように四人が頷く。密集したあの木々をすり抜けて進むのは骨が折れそうである。加えてあれらはただの木ではなく、魔物であることも頭に入れておかなくてはいけない。
シュガーラディッシュの支配下にあるとすれば、まず間違いなく近づいただけで攻撃を仕掛けてくるはずである。
「とりあえずこの周囲をぐるりと見て回って奥へと入れる箇所がないか探してみよう」
「まあ、それしか方法はないか。しかし奥へと進めないようならどうする?」
「別の群生地を探すよ。普通ならこの階層中の至る所に群生しているはずだし」
肩をすくめながら努めて明るく答える。
そして「だけど群生どころか、ここ以外にシュガーラディッシュが存在していない可能性が高そうだけれど」という言葉は胸の内に仕舞いこむと、眼前に広がる森の様子を探るために歩き出したのだった。
それと接触する羽目になったのはシュガーラディッシュが群生している森の周囲を半周ほどした時のことだった。
もっとも、それの存在に気が付いたのは随分と前のことである。なにせそれは高さが数十尺にもなろうかというほどの巨木だったからだ。幹の周りも数尺はあるだろうか、巨人族の者でも一人では手を回しきれそうにもないと思わされた。
そんな巨大な大木が、荒野の中にたった一本だけ聳えていたのだから目立つのは当然のことだろう。
「まさか、あれも魔物だって……?」
「この階層は何度か通ったことがあるけれど、あんなに大きな個体は見たことないわよ……」
人は巨大なものに対して畏怖を覚える生き物である。更にそれの正体が魔物、つまりは敵対関係に近い存在であることもあって、六人は揃って根源的な恐怖を感じていた。
「エルダートレント、なのか?」
ディーオの脳内には間違いなくそう記されていたが、これほどに巨大なものがいるとは見たこともなければ、聞いたことすらなかった。
依頼を受ける際に支部長からは何の注意もなかったことから、恐らくは彼のハーフエルフドワーフですらもこのことは知らなかったのだろうと思われた。
「とにかく、いくら大きくてもトレントなら近寄り過ぎなければ手は出せないはずだ。急いで通り過ぎてしまおう」
「そ、そうだな。今回俺たちの仕事はあの化物を倒すことじゃない。無視してしまっても構わないだろう」
「ですが、用心くらいはするべきではありませんか?」
「それもそうか……。クウエ、一応警戒をしておいてくれ」
「うむ」
とはいえ、シュガーラディッシュ群生地を有する森からも一定の距離を取る必要があり、結果的にエルダートレントの巨木へと近づいてしまうことになってしまった。
「随分歩き難いと思ったら、土が掘り返されているな」
「本当。まるで辺境の開拓村で見た切り株を引き抜いた後のようね」
「そうでしょうか?あちらの方がもっと大きな穴が開いていたように記憶しています」
「ふむ。それは他者に無理矢理引き抜かれたものと、自ら進んで外に出たものの違いであろうな」
「それは面白い仮説ですね。しかし、自ら大地から離れるとなると、トレントなどの魔物でもなければできそうにありませんから、検証は難しいでしょうね」
「ルセリア?誰と話しているの?」
二等級という高レベルな冒険者であるルセリアがそのまま話し続けてしまったくらい、それは余りにも自然に彼らの会話へと滑り込んできたのだった。
「え?誰って……、え!?」
その得体の知れなさに指摘を受けたルセリアだけでなく、指摘をしたリンを始めとした他の者たちもぞわりと背筋が凍えていた。
そしてその時になってようやく六人の中でただ一人、巨木の側を警戒していたクウエが立ち止まっていることにも気が付いたのだった。
「おい、クウエ!どうかしたのか?」
グリッドが呼びかけてみるが返事がない。列からほんの数歩分離れた位置、距離にすれば三尺もない程度だ。やろうと思えば簡単に走り寄ることができるはずのその間が、どうしようもなく遠くに感じられた。
ひどく嫌な予感がする。
こういう時の直感というものはバカにできない精度を誇る。
否。それだけの精度を持つことができているからこそ、ここにいる者たちは今まで生き延びてこられたのである。
「〈障壁〉!」
ディーオがそう叫んで、とある『空間魔法』を自分たちと巨木の間に展開させたのはほとんど反射的な行動だった。
直後に地面から木の根のようなものが飛び出してきたかと思うと、展開した魔法、不可視の壁へと殺到してきたのだった。
「ほほう。正面から儂の根を受け止めたか」
驚きながらも楽しそうなその声は、なんと巨木の発したものだった。その太い幹にいつの間にか顔らしきものが浮かび上がっている。そして先ほど殺到してきたのは本当に根であったらしい。
「今すぐこれを引け。さもなくば敵対心があるとみなして切り捨てる」
「おおっと、切り落とされてはかなわん。すぐに戻すから少しだけ待っていてくれ」
言うや否や壁に張り付いていた複数の根はシュルシュルと短くなって、やがて地面の下へと消えて行ったのだった。
「ディーオ……、今の技は一体……?」
「俺のことは後で話す。今はあのエルダートレントの方を片付けてしまおう」
グリッドの疑問を片手で制しながらも、どう説明するべきか頭の片隅で考え始める。
奥の手の一つや二つを隠し持つのは冒険者としての嗜みのようなものだ。二等級冒険者の彼らが根掘り葉掘り尋ねることはしないと願いたいものである。
ともかく、一旦そちらは後回しにするとして、巨木のエルダートレントの方へと向かおうとしたところで、クウエに立ち塞がれることになった。
「なんだ?文句なら後で――」
「助けてくれたこと、感謝する」
と、クウエが口にした瞬間、背後からどよめきが上がった。
「え?あ、ああ。パーティーを組んでいる仲間なんだから助けるのは当然だ」
何のことへの感謝なのか分からなかったディーオだったが、すぐに自分たちと数歩分離れた位置にいた彼も守ることができる大きさの〈障壁〉を張ったことに対するものだと気が付いたのだった。
「うむ。我も何かあれば必ず助けることを誓おう」
「頼んだ。……でも、そういう状況にならないのが一番のような気もするな」
「それは我ではどうにもならん。自分で気を付けろ」
「了解」
素っ気ない口ぶりではあったが、きっと自分の目の届かないところに気を配ってくれるのだろうという予感がして、ディーオは知らず知らずのうちに口角が上がっていた。
余談だがそんなディーオの背後では、残る『新緑の風』四人が、
「クウエが会話しているわ!?」
「おいおい、それって何年ぶりのことだよ?」
「三年……?いえ、四年ぶりでしょうか?確かキュクロプス討伐の時に……」
「あの時は一方的に叫んだだけじゃなかった?」
「覚えていない。俺は知らん」
などと驚愕すべき内容を話し合っていたのだった。
それを聞いたディーオは呆れた顔で、
「会話なしでよく意思疎通ができているなと感心すべきところなのか、判断に迷うな」
呟いていたのだが、当のクウエは相変わらず「うむ」とだけしか口にすることはなかった。