1-06 禁忌・ブランドー
===今から約二百年前。
当主【ミハイル・ブランドー】と妻【ミリア】の間に、待望の長男が生まれた。
第一子は女子で、ラヴィと名付けられ愛情を注がれ育てられてはいたが、家督を継ぐ男子が生まれたことは、当主として格別の喜びであった。
長男は【サミュエル】と名付けられた。
この後も夫婦の間には、次女と次男を授かり、幸せな家族の形を育んでいた。
バンパイアといえども、人という種の中の一種族なのであり、吸血によりバンパイアとなった者は同種族ではなく、あくまでも下僕で、種の保存という意味では、出産を経て生まれた者のみが種としての正統な後継者たり得る。
吸血という大いなる力を手に入れるための手段が、人からかけ離れた存在と思われがちだが、人と同じように食事を摂り、眠り、時に笑い、時に悲しみ、互いに愛し合い、我が子に注ぐ愛情の形もまた、人間とほぼ変わらぬものであった。
バンパイアの眷族は、世界各地に散らばり根を張って生息している。
国を治める王として君臨する者もいれば、またある者は小さな町の一庶民として倹しい生活を送る者もいる。
夜闇の一族として恐れられる場合もあれば、民に受け入れられている場合もある。
それ程に、バンパイアもまた多様な生き方を享受する、人という種の一部なのである。
ブランドー家は、小さな町ではあったが、過去の災害復興に尽力することで、土地の人間達に受け入れられ敬愛される領主として長い間暮らしてきた。
夜闇にしか満足な活動が出来ないが、決して人を襲うことはせず、住民の為に様々な政務から外敵の排除等を一手に引き受ける領主を、人々はバンパイアと分かっていて尚信頼しており、家臣のように付き従う者も多数いて、陽光下での活動を補い、民と生活を共にしてきた稀有な町だったのだ。
ミハイルは領主という顔の他に、研究者の一面も持っていた。
吸血貴族としてこの世に生を受け、人間を捕食の対象として襲い、大いなる力を維持し、一族の繁栄を図る。それが本来のバンパイアの姿であり、性である。
しかし、彼は違っていた。
人間という種族と共存共栄を成したい。そのためには、どうすればいいのか。
ミハイルは常に考えていた。そして、彼は研究者となった。
バンパイアとしては異端児であろう。
血液を介さずに魔素を取り込む術。言うなればバンパイア版の錬金術。
彼の功績は偉大だったといえよう。
精魔丸の完成。
直接血を吸わずに、魂魄に含まれる精気のみを抽出、精製したカプセル錠を開発、生産することに成功したのだ。
バンパイア達とて、すべての者が人間やその他の種族から忌み嫌われる事を好き好んでしたいわけではない。
ミハイルのように人と共に、というよりもむしろ、できることならば人として生きたいとさえ本気で考えるバンパイアもいるのだ。
根源的に種族の違いは、埋めることのできない深い溝である事を理解していても。
ともあれ、精魔丸の服用により、力の減衰を最小限に抑え、飛躍的に吸血の頻度を減らす事に成功した。
加えて、この製薬は瞬く間にバンパイアの間で広まって、一大センセーションを巻き起こし、ミハイルの町に莫大な富を齎した。
付いた二つ名は【無血のバンパイア】
吸血行為を大いなる力を維持したまま克服し、人間との無血の共存を成し遂げた者として、血を必要としない偉大なバンパイアという畏敬の念が込められていた。
町が潤うのと共に、ミハイル達ブランドー家に裕福な貴族らしい生活が齎され、貧しかった貧乏貴族に幸せな家庭の姿が育まれていった。
民にとっても、領主としての威厳を持ちながら、身分など顧みず気さくに接してくれる領主を皆が信頼していた。
成長し物心ついた頃のラヴィにとっても、そんな父の事が何よりの自慢だった。
ラヴィとサミュエルは、家族のみならず町の民からの寵愛を受けて、すくすくと育つ。
姉は女らしく、弟は男らしく、ブランドー家の後継者として相応しい振る舞いを身に付ける、が母ミリアの教育方針だった。
ただ厳しいのではなく、深い愛情を持って躾ける母に、特に弟のサミュエルが懐いていた。
思春期の青年によくある反抗期など、微塵も見せず、母親を慕い愛していた。
反面、ラヴィは母の厳しい躾に対し、年相応に反発心を抱く、人間でいうところの年頃のレディといったところか。
そんな両極の性情を持つ姉弟だったが、根っこのところでは、母への敬愛は通じていたのであり、殊の外仲の良い姉弟だったのだ。
性格的には、弟より姉の方が男勝りで、武の才があり、バンパイアの中でも武術に対する造詣を深め、一廉の武人然とした雰囲気を纏いつつあった。
対して弟は学者肌で、武術には殆ど興味を示さず、専ら父親の研究を手伝い、尊敬の念を抱いていた。
バンパイアは、強大な魔力を有しているため、武術など嗜まなくても、戦闘においておいそれと遅れをとる事はなく、故に魔力を使用した力押しのお粗末な闘いになる事が多いが、それでも不死に近しい身体を持つ事の優位性は圧倒的なのだ。
男勝りな姉に、学者肌で優男の弟。
二人の成長を、複雑な面持ちながら見守る父母、そして子供達も、両親の寵愛をその身に受けて過ごす暖かな生活が続いていく事を、信じて疑うものは誰もいなかった。
しかし運命の悪戯か、幸せを享受する家族の元に、突然不幸が舞い降りる。
最初に異変に気付いたのは、弟のサミュエルで、ラヴィが成人間近になった頃だった。
「父さんがね、薬の精製に龍神族の魂魄を使おうとしてるみたいなんだ」
「サム、それ本当?」
父がそのような言葉を漏らしていると、サムがラヴィに相談を持ちかけたのだ。
聞けば、薬の常習に伴い、精製した人間の魂魄では力の維持がどうしても難しくなり、吸血への渇望が抑えられなくなるのだと言う。
バンパイアよりも遥かに長寿命で転生を繰り返す、この世界に生きる生物でありながら神域にある一種族。
彼らの魂魄は、膨大な魔素を含有しており、そこから精製すれば、バンパイアの力を維持する事が十分可能な程の魔素を取り入れる事が出来るだろう、との算段からだった。
そのためには、少なくとも一柱の実験体が必要だった。
あろう事か、父は龍神をその手にかけようと目論んだのである。
しかし、神域にある龍神を、殺すどころか生け捕る事など、いちバンパイアの力で出来ようはずがない。
そこで思い至ったのは、同族の血を取り込み、突然変異体へと覚醒して、自身を神域にまで昇華させる事だった。
ミハイルには、確証があった。
同族の吸血は、古より禁忌とされ、始祖をすら上回る力を得る代償に、自我を失い怪物へと化してしまい、種族存亡の危機を招いてきた事が歴史に刻まれている。
でも、それらは皆、自我を保つ為の方策が何もなかった時代の出来事なのだ。
今、彼の元には、嘗て不可能とされてきた魔法の如き薬、精魔丸がある。
精魔丸には、バンパイアの体内を流れる乱れた魔素の調律効果があるからこそ、吸血無くして精気を取り込み、力を維持する事が可能。その精度や用量を増やす事で、変異体化に伴う凶暴化を制御する事ができる筈だ……と。
結論的に、この目論見は失敗に終わる。
何故そんな無謀な目論見を立てたのか。
いや、少なくとも彼に悪意はなかった。
ただ、人間とバンパイアとの共存共栄を願っていただけなのだ。
薬の効用に限界が見え、その改善に際し焦燥があったのかもしれない。仲間から協力者を募り、五人の同種族の血を分けてもらい、共食いと忌避される禁忌の吸血を行使した。
猛烈な拒絶反応により、ミハイルは死に匹敵する程もがき苦しみ続けた。
それを運良く乗り越えたとしても、突然変異体への変貌による、殺戮と吸血への渇望がとめどなく襲う。
そして、彼は精魔丸を服用する。
果たして、効果はあった。
始祖の血を受け継ぐ、正統吸血貴族の力を遥かに上回る力の充満。
身体中に魔力が漲る。溢れんばかりの魔力が。
彼は確信を得て、龍神族と対峙し、闘いを挑む。
確かに魔力の激増は、龍神に勝るとも劣らぬ力を見せた。
始まりこそ激闘で、互いの魔力が拮抗していたのだが、それに薬の効果が追いつかなかった。 一度に大量の、しかも効果を高めるため精度を更に上げた精魔丸を服用しても尚、御しきれない魔力の奔流。
ミハイルは意識を失った。
自我を失ったバンパイア。
文字どおり、見境なく生き血を啜るを渇望し、血の供給ある限り、限りなく不死の身体を持つ吸血鬼。
いや、その姿は、血を求めて彷徨う悪鬼そのものであった。
龍神との闘いを放棄し、更なる血を欲して人間たちの住む町を、嘗て民から信望された領主ミハイルの姿をした、意思持たぬ吸血鬼が襲う。
人々は戸惑い、恐れ、逃げ惑った。
それでも尚、領主としてのミハイルが我を取り戻す事を信じながら。
それほどに、ミハイルは人々に貢献していたのだ。
しかし、哀しいかな、ミハイルの意識が戻る事はなかった。
反撃に躊躇し、完全に機を失った人々は、次々と悪鬼の手にかかり命を落としていく。
犠牲になったのは、人間だけではなかった。吸血貴族やそれ以外の獣人等も、誰彼構わずミハイルの餌食となって、町は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
混乱の渦中にあったブランドー家が、手をこまねいている訳にいかず、邸を挙げて討伐隊が組織された。
また、事態はバンパイアの一族だけに留まらず、周辺の国々へも広まり、当時のハンターギルドを擁する国からは、災害クラスSと認定され、煌翅族へも討伐依頼が寄せられていた。
禁忌を犯したうえ突然変異化して人々を襲い、剰え土地神として崇められる龍神をも手にかけようとしたミハイルは、周辺諸国から、世に災い為すモンスターと断定され、即殺の命が国王から下されたのだった。
煌翅族、そして賞金首ハンターなど、組織化された討伐隊の包囲網は、徐々にミハイルを追い込んでいく。
それでも、致命的な打撃を与えるに至らない。
何故ならミハイルは、突然変異体への変貌時に、特殊能力を覚醒させていたのだ。
【アポーツ・テレポーター】
自分自身以外のものを瞬間移動させる能力。
ミハイル自身はテレポートできないが、相手を陸海空ところ構わず転移させるその能力は、脅威となって討伐隊を襲った。
テレポートの能力は、転移魔術として知られているが、それは太古に失われたロストマジックの一つで、現代において自在に扱える者は殆どいない。
ある空間から別の空間へと瞬時に移動する、所謂空間転移の能力は、魔術によって再現する魔法陣が、世界の様々な遺跡や迷宮などで見つかっており、それらを大勢の魔力を用いて再現、若しくは再利用する形で扱われているのであり、個人レベルで簡単に発現させられる代物ではない。
それ程に空間へ干渉するための魔力は、膨大な量を要するのである。
因みに、バンパイアの始祖は、この能力を自在に操る事ができたと伝承されている。
突然変異化したミハイルもまた、始祖の遺伝子を引き継ぐ吸血貴族であるから、こういった能力を覚醒する可能性は無きにしも非ずだろう。
加えて、尋常でないほど魔力を増大させており、瞬間移動させるという厄介な能力を自在に操る事ができていた。
ミハイルは、自身に向けられた魔弾や投擲物などを驚異的な反射神経で躱し、近接戦を挑んでくる煌翅族やハンター達をテレポートさせる。
遠距離の攻撃は躱すのみでほぼ放置しているところを見ると、どうやら能力の効果が及ぶ範囲は狭いようだった。
それでも、空間転移で運ばれた先が水中や土中、何処かの迷宮などだった者は、それだけで死に至る可能性が高く、少なくとも戦線離脱は免れない。
徐々に人数を削られていく討伐隊。
自我を失ってなお、魔力を増大させていくミハイル。
戦況は、刻一刻と絶望へ傾きつつあった。
討伐隊の中には、若き日の【レオ・イザナキ】もいた。
当時のレオは、煌翅族の中でも抜きん出た身体能力を持っていて、突然変異化したミハイルのアポート(被転移)能力を、ただ一人、既の所で躱し続け反撃に転じていたのである。
当時のレオの二つ名は【ライトニング・ビー(雷蜂)】。
蝶のように華麗に舞い蜂のように刺す………わけではないが、電光石火の如き攻撃は煌翅族随一と噂される程だった。
他の者達にも、転移を免れた者がいないわけでは無かったが、見切っていたというよりは、ミハイルの座標認識の誤差で、偶然転移させられなかったと言わざるを得なく、レオだけが明らかに敵の能力を見切って躱している状況だった。
しかし、ライトニング・ビーの異名を持つレオの攻撃をもってしても、ミハイルに致命打を与えるに至らない。
ミハイルもまた、レオの攻撃を見切る程に身体能力が向上していたのである。
加えて、高位のバンパイアの殆どが、身体を霧状にして移動し、攻撃を無効化する特異能力を有しており、ミハイルもその例に漏れず、この能力を有していた。
実際は、精巧な分身体を現出させ、相手を翻弄する魅惑系統の能力であり、攻撃能力は実体に比べて大幅に劣化しているのだが、これが中々見極めるのが難しいのだ。
所謂分身の術のようなもので、分身体をいくら攻撃しても実体にダメージを与えられず、隙を突かれて転移させられてしまう。
戦いは、討伐隊を幾らか削られながらも、なんとか膠着状態を維持していたが、このままではいずれ、ミハイルを取り逃がしてしまうだろうことは明白だった。
サミュエルは、さほど戦闘に自信がなかったからか、後方に下がり、母親の護衛を任されていた。
ラヴィは、このジリ貧状態を打開すべくミハイルの隙を窺い、魔剣を手にしてミハイルに斬りかかる。
剣は切りつけた刃から魔素を吸い取り、対象の体組織を崩壊させる魔法を施された、所謂マジックソード【魔崩剣】だった。
この剣で負った傷は、如何なバンパイアといえども、心臓を貫かれれば瞬時に治癒することができず、血の供給を断たれ魔力を失うことになり、結果、死に至る程の高い殺傷能力を持っている。
ブランドー家の先代が、趣味で蒐集した魔剣だが、トレジャーハンターや蒐集家が大枚叩いてでも手に入れたがる、有り体に言えばお宝の一つで、嘗て一人の伝説的なドラゴンスレイヤーの愛剣だったとも言い伝えられていた。
武術が好きなだけの、おてんば娘のレベルを遥かに超え、一流の剣筋を会得していたラヴィの斬り込みは、相当な実力者であっても躱すのは不可能なほど鋭い斬撃を誇るが、これもまた既の所で躱されてしまう。
相手を切れなければ、魔剣もただの棒切れに等しい。
飛び交うラヴィの剣尖とミハイルが放つ魔爪。
互いの攻撃は、身体に僅かな傷を付けながら火花を散らす。
力押しのミハイルがやや優勢で、徐々に後退を余儀なくされるラヴィ。
レオも加勢に割って入るが、分身体の牽制やアポート能力の発現に手を焼き、躱すので手一杯だった。
十重二十重と残像が見える程、ミハイルの魔爪による攻撃は出鱈目な程に速度を増し、交差していたラヴィの剣尖が弾かれ宙を舞い、大地に魔剣が突き立った。
衝撃でラヴィは転倒して、強かに背中を打ち付ける。
ひび割れた硝子のような瞳に邪悪な笑みを浮かべ、ラヴィを見下ろすミハイルは、とどめとばかりに右腕に魔力を集中させ、魔弾を出現させていた。
もうだめだ。ラヴィが死を覚悟する。
レオが、煌翅を翻して突進する。
しかし、一瞬早くミハイルの魔弾が射出された。
辺りの森を吹き飛ばしたかと思うほどの轟音が響き渡る。
目を瞑っていたラヴィは、轟音と共に跡形もなく身体も消滅したと思っていたが、身体に負った傷の痛みが未だ感じられ、恐る恐る瞼を開ける。
「大丈夫かの、お嬢ちゃん」
やや甲高い声音で語りかけてくる声が、ラヴィの耳朶を擽り、開けた瞼の向こう側には、山高帽に羽織袴で、少し反りのある細身の剣を腰に差した、武士然とした老齢の男が立っていた。
その男の足下には、地面に張り付くようにうつ伏せに倒れ、背中を踏みつけられたミハイルの姿があった。
「黄龍の報せで久しぶりに野に降りてみたら、とんでもない奴が暴れとったんじゃの」
飄々と語るその声は、どことなくラヴィを安心させる響きを携えていた。
地面に這い蹲るミハイルは、唖然とした表情で、ポカンと背後の男を仰ぎ見ている。
いったい何をされた?
そんな疑問符が見えてきそうな顔だった。
その一部始終を、レオが目撃していた。
いつ現れたのかは分からないが、突然ラヴィとミハイルとの間に武士風の老人が現れ、右手を翳して魔弾の爆風を上空へ逸らしたかと思うと、左前方に入り身で転身し、右手首を左手で掴み無造作に捻り倒したのだ。
一連の動きは、レオでなくとも見えていただろう。そんな程度のスピードだったのに、気が付けばミハイルが地に這い蹲っていたのだった。
ミハイルは、縮んだバネが反発するかのような勢いで跳ね起き、距離をとって身構えた。
「ほほっ!儂の拘束を解きよった。腐ってもバンパイアか。よっしゃ、来い!」
老武士の声を合図としたかのように、ミハイルが飛びかかる。
ミハイルの魔爪が、十重二十重と残像を残しつつ、上下左右から老武士を襲う。
しかし、その魔爪はことごとく空を切った。
ラヴィが、驚愕の面持ちで老武士を見つめる。
その目には、最小限の体捌きで魔爪を躱す小柄な老人の姿がはっきりと捉えられていた。
そうなのだ。ミハイルの魔爪は残像しか見えない程速いのに対し、老武士の動きは、まるで舞踏会で優雅にダンスを楽しんでいるかのように見える。
しゃなりしゃなりと、しなやかな所作で襲い来る爪を紙一重で躱す。
まるで何もない空間に爪が吸い込まれるかのようだった。
足元も、森の中の不整地であるにも拘らず、摺り足で体の転換を行う様はミズスマシのようであり、且つ大地から生える大木の如くに、体軸も全くぶれていなかった。
レオもラヴィも武術を嗜んでいたが、このような体捌きを行う武術を見たことがなかった。
流麗かつ重厚。
そんな表現になろうか。
この老武士の体術は、達人の域へと至った者だけが実現できるであろう、まさに神業だった。攻撃しているミハイルが、まるで老武士の動きに合わせて魔爪を振るう、京劇か演武のような約束組手にしか見えなかったからだ。
見入っていたのは十秒ほどだったか。
ミハイルの懐に老武士が踏み込み、無造作に両腕を突き出して、首根っこと二の腕に引っ掛けて投げ倒す。衝撃が大きいのか、「グウッ!」とミハイルが苦悶の声をあげ、一呼吸置いて跳ね起き間合いを取る。それを三度程繰り返したところで、老武士が腰帯に差していた鉄扇でミハイルの鳩尾を一突き。
堪らずミハイルは、その場に背を丸めて悶絶した。
直後に老武士が、ラヴィの元へ移動して、耳打ちする。
「嬢ちゃんは、彼奴と同じバンパイアだろう?」
「………」
「あんたの親父さんだ」
「………はい」
「この騒動は、あんたが締めくくらにゃならん。いや、あんたにしか出来ん」
「でも、私の力じゃどうにもならない………」
「儂の見立てでは、嬢ちゃんも空間干渉の能力を持っとる。そいつを儂が目醒めさせてやるから、彼奴を亜空間に閉じ込めるんじゃ」
「父は……父をなんとか助ける方法は……」
「完全に自我が崩壊しとる。あそこまで闇に堕ちてしまったんじゃあ、元には戻せん。だから、嬢ちゃんの手で引導を渡してやるのが、せめてもの救いじゃろう。親父さんも、そう願っておるて」
「……そう……ですね……責任を果たさないと……」
ラヴィは込み上げる慟哭を辛うじて押さえ込み、途切れ途切れの台詞を口にして決意する。
そして、老武士が袖口から一粒の丸薬を取り出してラヴィに渡した。
「気付丸薬の一種じゃ。一時的に精孔が全開になるから、ちょっとびっくりするじゃろうが」
そう言われ、微塵も猜疑心を抱かない自分を不思議に思いながら、ラヴィは丸薬を飲み込んだ。
ブランドー家の名誉を、いや、父の名誉を守るために。