プロローグ
桃源郷での一幕
===ある偉大なる魔法使いの回想===
十二の使徒を従え、時を縒り紡ぎし者の探求者。
その者の英雄譚は、巷間に膾炙され、今卜伝として語り継がれる。
しかしながら、その者の素性は靄に包まれ、出自も目的も、まとまった情報が得られていないにも拘らず、神秘の英雄譚だけが真しやかに独り歩きしているのだ。
ある者は言う。彼の者は手に持つ小枝のごとき指揮棒で数多の魔術を駆使し、凡ゆる魔を祓う偉大な魔導師だと。
ある者は言う。彼の者は煙とともに自在に呼び出した精霊を駆り、空を舞い、雷を纏い、嵐を呼び、天に仇なす悪気を打ち滅ぼす審判者だと。
またある者は言う。彼の者はこの世のものにあらず。神ならずして仙界に住まいながら野に下るを選び、拠る辺を求めて現世を彷徨う哀れな放蕩者だと。
様々な伝承が流布される中、この英雄の威を借る輩が後を絶たないが、名を騙るつもりの者がいたら、間違いなく後悔することになると言っておこう。
彼の者は、不死の者である。
英雄譚の数少ない共通項だ。
如何なる炎も水も雷も、如何なる武器を用いても、その者は決して死なない。
この世界において、生きとし生けるもの須らくに死が訪れる。
不老不死は、古からの王達が渇望する究極の悲願であるが、必ず死が訪れるのは史実が物語っているとおり、厳然たる世の理である。
いかなる魔導をもってしても叶わぬ儚い夢。
彼の竜王でさえ、人間に比べれば永劫の時を生きているように思えるが、いずれは老いて朽ち果てるのだ。
決して余人に真似できることではない。
おそらく彼は今も探しているだろう。
【時縒りの者】を。
それは果たして神なのか。
単なる四方山話ではない。
生の根源たるものの存在を求めて。
須らくに齎される死という真理を求めて。
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私は旅をしていた。
偉大なる王。親愛なる我が友であり、民の信頼厚き領主の勅命により、アヴァロンより遥か東方、大陸の最果ての地にあるという幻の郷を探して。
私は王を救わねばならない。
傷ついた王を癒すため凡ゆる魔導の知識を動員したが、いかなる魔法でも癒すことができなかった。
王はまだ生きねばならない。未だ多くの民が王を必要とし、王もまた民のために生きようとしているのだから。
そのために私は、東方に人の身でありながら神域へ到達し、死をも超越した仙人なる者が住まうと言われる郷へ、不老不死を齎す霊薬を求め旅をしてきた。
旅は苛烈を極めた。
いくら退け滅ぼしても、無限に湧き出てくる数多の魔物達と戦い、私の魔力も、そして気力さえも尽きようとしていた。
分かっているのだ。
私も魔導を極めし魔法使いの端くれだ。
須らく生命には死が齎される。それが世の理であることは理屈として理解している。
いつ頃からか、私は諦めにも似た心境に達していた。
そんな折、辺り一面が淡い靄に包まれた森に迷い込み、薄れゆく意識の中、朧な二つの影が近づくのを私はただ望見しているしかなく、そのまま意識を失った。
芳しい桃の香りから鼻腔を優しく刺激され、私は目を覚ました。
どれくらい経ったのだろうか。
瞼を開けるが、まだ重い。視界がぼやけてはっきりしない。
体を起こしてみると、上半身は無理なく起こせる。
ぼやけた視界も徐々にはっきりしてきた。どうやら私は森の木の根元に身体を横たえ眠っていたようだ。
そんな私の耳朶を、老人のやや高い嗄れた声音が叩いた。
「気がついたか?かなり衰弱しとったからな。ほれ、滋養の丸薬じゃ、多少の足しにはなるじゃろ」
そう言って、彼は小豆大の黒い球状の粒を渡してくれた。
外見上は、おそらく私と同程度の年齢に見える。
人間ではない。尖った耳を持ち青みがかった紺色の髪をしており、顔だけ見ればエルフに思える。
服装は噂に聞く東方の島国の民族衣装、羽織袴か?と山高帽を着用しているが、腰に帯刀している姿から小柄な武士に見える。
私が貰った丸薬を口に放り込み噛み潰すと、体に活力が漲ってくるのを感じた。
まるで高位の治癒魔術を受けた時のようだ。
私は武士風のエルフの老人に礼を言い、ここがどこなのか、ここまでたどり着いた経緯、私の旅の目的などを、一息に吐き出すように語っていた。
「ここは、世間から桃源郷と呼ばれとるところじゃよ。見たところ、あんたもワシと同じく見た目以上に歳食っとるだろう?さぞかし高名な魔導師と言ったところかな?」
本来ならここで名乗るべきだろうが、彼は私の素性をあれこれとは訊かず、ゆっくり休めと言って立ち去った。
漸く辿り着いた。おそらくあの老人は仙人だ。いや、間違いないだろう。
ここは桃源郷。
大自然の精気と一体となって、肉体を保ったまま神聖域へと至る術を極めた者を「仙人」或いは「神仙」と呼ぶ。
東方から伝わった古文書に書かれた理想郷。
そこには不老長寿の果実や神酒、霊薬があると聞く。
先に処方された丸薬も、霊薬の一つだろう。
私は居ても立ってもおられず、逸る気持ちのまま仙人を探した。
桃源郷は周りを深い森に囲まれていた。甘い桃の香りが辺り一面にかすかに漂い、靄の中を明るい方へ抜けると小高い丘の上に出た。眼下には陽光を煌めかせる澄んだ湖と、その中央に浮島があり、廟に囲われた家が一軒建っている。
湖の畔には水浴びをして遊んでいるのか、人や獣らしき姿が見える。
私の姿には気づいていないのだろうか?
特に注目される風もなく、私は彼らの脇を通り浮き島へ渡される橋を渡った。
先程の仙人の姿が見えたからだ。
不老長寿の妙薬のことを聞きたい。願わくばそれを王の元へ持ち帰りたい。
私は仙人に訊ねた。
「現世においても長寿は可能じゃよ。だが不老不死は不可能だ。あんたも分かってるじゃろ」
仙人は淡々と答えた。知っていて当然だろうとでも言いたげな表情で。
長寿の方法なら魔法でも寿命を延ばすことが可能だ。
だが、それは単に死を先へ延ばしているだけであり、病に罹ったり、大怪我を負えば死を迎えるし、いずれは寿命が尽きるのだ。
仙人も同様のことを語った。人間の寿命に比べれば、永劫の時を生きるように思えるが、命の灯はいずれ尽きる、と。
「仮に、永遠の命など得られたとして幸せかと言えば、そうではないじゃろ。限りある時の中で精一杯に生き、そして満足して死ぬ。それこそが生あるものの幸せというものじゃろ。それにな、この世界の理を統べる【時】は、永遠の存在を許さんだろう」
仙人は、この桃源郷も含めた世界の理を語ってくれた。
無の中に光と闇を生み出し、【時】が存在する世界に命の流動を紡ぎ出したのだと。
その中で全ての生命は、生きた証しを刻み、引継がれた生命の刻を紡いでいく。
命には限りがあり、限りがあるからこそ紡がれ、数多の世界が創られていくのだと。
時の理を外れた者は、この世界に存在することからも外れることになるのだと。
「ここは【時】の影響が揺蕩うところ。刻の流れが紡がれぬ場所。
ここに来た時の姿のまま、見た目には老いることのない場所じゃ。
だが、それでも死は訪れる」
桃源郷にも【時】が存在するが、生命を紡ぐ刻の流れが存在しないところ。
外界との時の流れが隔絶された世界。
不老なるも、死は訪れるという。
生命の死は、決して避けることのできない、普遍、無二の理。
「まあ、一人だけ理から外れたであろう者が、この地に逗留しとるがな」
なんと、仙人は不死の者の存在を示唆したではないか。
私はその不死人のことを訊ねた。
仙人曰く、その者はこの不老なる桃源郷において、人間のように年をとり、病にも罹れば怪我もする。しかしながら死の直前、または客観的に死んだと見えても、その直後には若返り蘇生するという。
どこからやって来たのか、素性は判らないが、フラリとここへ転がり込んで以来住みついているそうだ。
「そいつはな、不死を喜ばず限りある命を望み、人としての生を取り戻したいんじゃと」
【時】により生と死が齎される世界において、その理から外れた者。死から解放され永劫の時に生きることを良しとせず、限りある生の中で生きたいと願う者。
我々からしてみれば贅沢な願いではあるのだが、目的もなく生きるだけなら、堪え難い苦痛となるだろうことは想像に難くない。
それでも人々は、永遠の生を渇望してやまない。必要とする者がいるから。成し遂げたい目的があるから。
件の不死人で、ひとつ気になることがあった。
"理から外れた"とはどういう意味だ。
「見た目には死ぬんじゃよ。一度死んでもそこから立ち返って来よる。死の痛み苦しみ、死の恐怖を抱えてな……まるで呪いじゃな。
不死の者に前例はないからな。わしにも彼奴が永遠に不死かどうかは分からんが、少なくとも現世の理からは外れとるわな。例外というやつじゃ」
いずれにせよ、私の目的を達成し得る答えが得られることはないのだ。
私がいくら願っても、王も人間である以上、必ず死ぬ。私も含めて例外なく。
仮に例外となったとしても、そこに幸せは決してないのだ。
「まあ、せっかくここまで来たんだ。現世とここでは時間の流れが違う。ゆっくりしていけ」
仙人はそう言って、部屋を用意してくれた。
どれくらいの時が流れたのか。
非常に平和で安穏とした時の流れに、旅の目的を忘れてしまいそうになる。
仙人も含めて、ここの住人は私の素性をあれこれ聞くことはない。
この郷に住む者は、世間から敢えて離れることを選んだ者達ばかりだというから、お互いの素性を根掘り葉掘り聞かないのが暗黙の了解なのだろう。
王を死から救うことはできない。それでも、王の遺志を継ぎ新しい世代を育て、王の願いを、民の願いを護っていかねばならない。それが、魔道に堕ちかけた私を助けてくれた王であり、かけがえのない友にできる、数少ない恩返しなのだろう。
私は王の元へ戻ることを仙人に伝え、郷を出ることにした。
◇◆◇
異国の魔法使いの背を見送る二つの影。
瑠璃色に煌めく眼、乳白色の体躯に輝く白銀の鬣を蓄えた龍神が、仙人に寄り添い声をかける。
『気まぐれだな、惣仙翁は』
その言葉に仙人は、口端を僅かに綻ばせる。
「お前だってそうじゃろうが。辰の座をあっさり譲りおってからに」
『私は翁に付き従うを宿命づけられた身だ。この身果てるまでな』
「こんなジジイに憑かんでもいいのにのう。わしゃ堅苦しいのは苦手じゃ」
『私が翁を選んだのは、気を遣わんからだよ。私も好きに振る舞える』
仙人と龍神は、微笑みとも取れる表情で薄く溜息を吐きながら、魔法使いと共に郷を出るもう一つの影を見つめていた。
「時縒りの者か。わしは伝説として伝え聞く存在程度にしか知らんが。黄龍のお前さんは会うたことがあるんじゃったな?時の神と」
『時を統べる者、時を超越した存在、時の神など、様々な呼び名があるが、私が会った者は【時縒りの者】を名乗ったよ』
「八百万の神々とはちと違う、根源的な神といったところか」
『そうだな。我々龍神が行う転生術の際に必ず干渉する者で、転生は理に反するから特例だとか、生命の紡ぎを乱してはならない等あれこれ小言を言われるよ。神々の一柱といえばそうだろうが、あまり神らしくないヤツだな。
あの男が巡り会えるか、会えたとして望む結果が得られるかは分からんがね』
「龍神の魂魄と融合しとるんだ、いずれは干渉してくるじゃろう。なにせ不死という甚だしく外れたトコにおる埒外な奴じゃ。十二生肖の連中も懐いとるし、厄介ごとには事欠かんよ。彼奴の行動が時の神に干渉するかは時の運じゃろう」
『時の運か。正にそうだろうな。彼自身が時の行く末を見届けるを任された者かも知れんしね』
「彼奴の夥しい程の魔素は、現世にあるまじき常世を彷徨う精気の群れ、みたいなものだからな。暫くは様子見じゃ。いい暇つぶしになるぞー」
気まぐれな仙人の無邪気とも思える笑顔に対し、龍神がまた吐いた溜息を合図としたかのように、郷が濃い靄に包まれ見えなくなった。
◇◆◇
桃源郷から王国への帰り道。
私の道案内として、一人の青年が付いてきてくれた。
魔物が多い地域を避けるためだ。
アヒルの嘴のような鍔付きの黒い帽子を被った青年は、ワイバーンを従えていた。その姿は一見すると、高位の竜使いだ。
そして、彼は件の不死人である。
見た目の魔力量は然程でもなく、駆け出しの魔術士クラスに思える。
しかし、いざ戦闘になれば、キセルと呼ぶ細身のパイプを手に様々な従魔を召喚し、敵を殲滅していく、なんとも不思議な魔力を持った青年。
彼のお陰で往路に比べ、帰路は魔物との遭遇頻度が格段に少なくなった。
とは言え、強力な魔物に何度か遭遇したが、青年は護符や煙を操り、それをサポートする従魔は、尋常ならざる強大な力を発揮して、襲い来る魔物達を薙ぎ払い寄せ付けない。
それでも一度だけ理不尽な程強力な魔物に遭遇した時、私は彼の不死性を目の当たりにした。
地竜の群の中に地竜王がおり、稀にしか遭遇しないことに不意を突かれ、油断した私を庇い、青年が竜王の爪の餌食となったのだ。
青年は、目の前で確かに心臓を抉られ絶命した。
なんとか治癒魔法を試みようとはしたものの、地竜王の対処に全神経を費やしていた私にそんな余裕はなく、拮抗した攻防を維持するのが精一杯だった。
蘇生するまでの経緯は分からない。
しかし青年は、気付いた時には結界を展開して地竜王の動きを封じていた。
地竜王の亡骸を前にして、青年は言う。
ある龍神から聞いた、生命の刻を紡ぐ【時縒りの者】の存在を探していると。
件の者なら、理から外れた我が身を理の中へと紡ぎ入れ、人としての生を齎すやもしれぬと。
普通の人間として生きて、普通の人間としての人生を送りたい、と。
私はそのような存在を知らない。
この世界は創造主たる神が創りたもうたとしか。
或いは神代の太古より存在し、神話を伝承する龍神の眷族のみが知り得る超越の神なのか。
私から見れば、神獣妖魔等十二の使徒を自在に召喚し、面妖な魔術を駆使する不死なる御身の彼こそが、真理に抗う存在、時を縒り統べる神に思える。
別れの時まで、私は彼の素性を敢えて聞かなかった。
素性を聞いたところで、彼の願いはおろか、苦悩をすら軽減させることができないのだから。
そう。桃源郷がそうであったように。
去るも留まるも訪問者の判断に委ねられ、それが故に自身の道を見つめ直さんがために。
別れ際、彼は一言「いつかまた会えたら、美味しい紅茶をご馳走してよ」と飄々《ひょうひょう》とした口調で、ワイバーンに跨がり颯爽と立ち去っていった。
幸いにも、王は一命をとりとめ国政に復帰できるまでに回復した。
王は私の見聞録を大層気に入り、桃源郷に行きたがったが、私自身にもどうやってあそこへ辿り着いたか見当もつかないだけに、何時しか夢物語のごとく語られるようになった。
そして時は流れ、王位も代替りし、桃源郷を目指す冒険者や、その冒険譚に差し挟まれる不死なる者との遭遇に纏わる英雄の噂話。果てはその英雄話にあやかり、英雄を騙って一儲けしようとする者まで出てくる始末で、王の側近から受ける相談にも些か食傷気味だ。
先王の相談役兼近衛筆頭魔導師の回想録として、ここに記す。
件の英雄譚、決して真似をしてはならないと言っておこう。
その者を知る唯一の目撃者として。
また、最高級の紅茶を用意しておこう。
再会の時の約束を果たすために。