おかしな美術館
両親と別れてから数分後、イヴは用を済ませ洗面化粧台で手を洗っていました。しっかりと水を切ったイヴは、ポケットに手を伸ばします。そこでイヴはあるべきはずのものがないことに気がつきました。
どこで落としたのか思案を巡らせるイヴには、一つの心当たりがありました。二階の廊下の壁いっぱいに飾られた大作の絵…………名前は思い出せませんでした。あの絵を観ていた時に、イヴは転んでしまいました。そのはずみに落ちてしまったのではないかと、推理したイヴは再び二階に上がりました。
階段を上がると一つのことに気がつきます。あの吊るされた男性が描かれた絵画の前で、まだあの人が動いていないのです。よっぽど気に入ったのでしょう。イヴはそう思いながら、本来の目的である大作の絵の元に向かいました。
「……やっぱりあった」
イヴの推理通り、通路の真ん中にレースのハンカチが落ちていました。誰にも拾われてなかったのは幸運でした。イヴはハンカチを拾い、埃を払うとポケットにしまい直しました。両親の元へ戻ろうとするイヴの目の端に、この大作の絵のネームプレートが映りました。
思えば、イヴは転んでしまったことで、この作品名をチェックし忘れていました。イヴはネームプレートの前に立ち、作品名を読み上げます。
「作品名『 ??? の世界』。―っ!」
――突如、世界は不自然な瞬きをしました。その後、イヴの耳にキーンという耳鳴りが響きます。まるで音を失った世界のようでした。
「…………?」
違和感を覚えたイヴでしたが、約束があったためふらふらとした足取りで両親の元へ向かいます。そこでイヴはあることに気がつきました。
「……だれもいない」
二階の展示スペースには人の影がありません。あの吊るされた男の前に立っていた風変わりな人もいなくなっていたのです。閉館時間にはまだ早いと辺りを見渡すイヴでしたが、時計のようなものはなく、窓から空の様子を覗こうと試みてみたもの窓が曇っていて外は見えませんでした。
不安になったイヴは階段を駆け下りました。イヴが階段の最後の段から降りると、館内の照明が急に明滅し始め――消えてしまいました。薄暗い館内は歩くことには支障ない程度の照度がありましたが、目を凝らさないと周りのものは認識できません。
イヴは受付に行き、館内のスタッフを探しますが誰もいないようです。照明関係のスイッチがないか、壁伝いに探すイヴは入り口付近の窓にさしあたります。イヴはこの時、ある音を拾いました。
――ぺた…………ぺた……ぺた。
「……雨音?」
館内に響く雨音のような規則正しい音に、イヴは雨漏りでもしているのだろうか、と天井を見上げましたが、薄暗く音源も判別できません。イヴは外の天気を確認しようと、窓に手を付けました。するとガラス越しに液体が流れ出しました。
「……雨? ――っ!?」
イヴの真紅の虹彩に映る液体は当然のように赤く、ぎこちなくガラスを伝います。突然のことに、驚いたイヴは窓から離れました。イヴは活発に動き出した心臓に説明を付けます。あれは錆びた雨どいを伝ったただの雨で、薄暗いからそう見えただけ、と。イヴはその証拠を掴むために美術館の玄関に向かいました。
「んっ――」
イヴは力いっぱい扉を開こうとしますが、扉は開く気配もありません。イヴは自分の非力さをかみしめます。一人では外に出ることもできないのです。イヴは両親を探すため、一階の展示スペースに向かいました。
「だれも……いない」
大広間。かわらず両親がいたこの場所は、両親はおろか人の気配すらありません。ひたひたと雨音のような音は、フロアを変えても付きまといます。心細さからか、次第にその音は足音のように響きます。イヴはその音から逃げるように、小走りで両親を探しました。
大広間を南に向かうと、大きな薔薇のオブジェが飾られたスペースに出ます。やはりそこにも誰もいません。イヴは通路を東に向かいます。
「えふっ!」
突然の咳払いにイヴは振り返ります。しかし、そこには人影がなくもちろん隠れるスペースもありません。しいて挙げるとすれば、〞恍けた顔の男性〟がいましたが、それは問題外です。なぜなら、そうであるはずがないのです。イヴは気を取り直し、先に進みました。
イヴは周回するように一階を回りましたが、やはり人は誰もおらず大広間へと戻ってきてしまいました。イヴは入れ違いになってしまったのかも知れないと、二階へ向かいました。階段を駆けあがると、イヴは手を膝につきます。先程から歩き回り疲れてしまったのでしょう。しかし、両親を見つけたいという一心で、イヴは再び顔を上げました。
「ん?」
不意に窓の外に人影が走ります。イヴは目を擦ります。どうやら疲れが目にきたようです。なぜならそんなことはありえないからです。ここは二階、人が窓の外を走ることは物理的に無理なのです。イヴは窓に近寄り自説を確かめます。やはり人影はなく、人が走ることが出来る道もありませんでした。
イヴはほっと胸を撫で下ろし、両親の捜索に向かいました。その時です。
――バンっ! ――バンっ! ――バンっ!
館内に響き渡る衝撃音。とっさにイヴは耳を塞ぎました。それは青天の霹靂であり、イヴは聾する耳の治まりを確認すると、及び腰で音源のあった場所に向かいます。音源はなんの変哲もない窓でした。
聡明なイヴは音の正体を強い風が窓を叩いたことだと推理しました。それ以外に考えられないです。見事な推理でしたが、この時イヴは見落としていました。窓についた確かな音の手がかりを――しかし、それは知らない方が幸せでした。納得したイヴは再び、歩き始めました。
イヴは先程から耳に跫然と張りつく音に悩まされていました。その音はどこまでいっても付きまとうのです。視界情報が希薄なこともあって音情報が、イヴの脳内に幅を利かせます。そして新たにイヴの耳は、なにかが落ちたような物音を拾いました。音源は二階の東側にある複数の絵画が飾られたスペースからでした。両親の手がかりを信じて音源に急行した。現場についたイヴは、嫌な音を足元から拾います。
――ぐちゃ!
恐る恐る足を上げてみると、案の定なにかを踏んでいました。お気に入りの靴を汚してしまったイヴは、小さく舌を出し嫌悪感を露わにします。その時、嫌悪感と同時に違和感を覚えました。
「あれ?」
イヴはまじまじと絵画を観ます。その作品名は苦みの果実。先程イヴはこの作品にあまりおいしそうではないな、という感想を持ちました。しかし、今観た感想は何か物足りないな、というものでした。
イヴはその〞何か〟を明確に言葉にはできません。しかし、物足りなく、どこか寂しいのです。何度か頭を捻ったみたものの納得のいく答えは出ず、再びイヴは歩き出しました。
三つのオブジェを横目で見ながらイヴは両親を探します。しかし、かくれんぼでもしているかのように全く気配というものがありません。自分を置いて帰ってしまったのではないかとも考えましたが、両親に限ってそれはないと、イヴは首を振りました。イヴにとって今日は特別な日だといのに散々です。
項垂れながら歩くイヴでしたが、そんなイヴは同情するような甲高い鳴き声が響きました。
――にゃー!
イヴはその鳴き声にあることを思い出します。おさげが可愛らしい自由な少女とその母親のことです。奇しくもこの場所で出会ったのでした。つい先ほどのことだというに、なぜか記憶が曖昧なイヴでしたが、その少女がネコだー、といっていたことを思い出します。
姿は見えませんがもしかしたら、美術館にネコが紛れ込んでいたのかも知れません。イヴはそんなことを思いながら歩き出しました。……思えばこの時からイヴの脳内は疲労しきっていたのかも知れません。
――いったいどれくらい歩いたのでしょう? イヴは薄暗い館内をその小さな足で歩き回りましたが、依然両親はおろか人の影すら出会うことが出来ません。
心身ともに疲れたイヴは、気がつくとあの大作の絵画の元に来ていました。作品名『 ??? の世界』。ゲルテナの世界を凝縮した絵画は、明るい所で見た時よりもいっそうその魅力が増しているようです。イヴはその大作を端から眺めながら歩きました。
すると、先程にはなかった発見をします。
「なんだろう、これ?」
暗がりでよくわかりませんが、額縁から青い絵の具? のようなものが流れ出しています。イヴはその発見に驚き、顔を近づけた――次の瞬間っ!
――ダっ! ダっ! ダっ! ダっ! ダっ! ダっ!
イヴはその異変に膝を抱えて座り込みました。背後に何らかの気配が走ったのです。しかし、その気配はすぐに消え去り、イヴは怯えた感情を必死で殺しながら振り向きました。
「お い で よ イ ヴ」
床に点在する赤文字を読み上げたイヴは、純然に恐怖心を露わにしました。つい先ほどまでは確かにこのような文字は書かれてなく、あの奇妙な音がした一瞬で書かれたものと思われる奇妙な文字列の最後には、まぎれもなく少女の名前が刻まれていました。
思わず後ずさりするイヴは、手に伝わる感触で自分の失態に気がつきました。後ずさりした場所には青い絵の具が流れていたのです。とっさにその場所から離れたイヴは、その手についた不快感よりも絵の具がある変化をしていることに意識がいきました。ただ意味を持たずに流れていたはず絵の具が、なんと認識できる文字列となっていたのです! そして、その文字列は明らかに繋がりを持っていました。
「したのかいに おいでよ イヴ ひみつのばしょ おしえてあげる」
イヴが読み終わると、その文字は流れるままに文字化けてしまいました。偶然の産物……というにはあまりにも出来過ぎており、明らかな超常現象です。人は大きくキャパシティーを超えたことに遭遇すると行動を止めてしまうといいます。
この例外にもれず、イヴも超常現象を前に行動を止めてしまうと思われましたが……すでにイヴは二階にはいませんでした。なぞの意志によって招待された道を歩き出し、〞ひみつのばしょ〟へ向かったのです。その行動原理は何であるのか……答えはイヴにすらわからないものでした。
導かれるままにイヴは大広間へとやってきました。そして、迷いなく中央に置かれた作品に向かいます。ポールパテーションにより立ち入りを禁じられていた作品でしたが、何者かによってその一部が解放されており、そこにはその絵に向かっている足跡がありました。
「……ヒトが立ち入ることは許されない」
イヴは呪文のようにこの作品につけられた説明を暗唱しました。そして、恐る恐る一歩踏み出しました。
――ちゃぽん!
イヴのお気に入りの赤い靴は絵の中に消えてしまいました。同心円を作る水面はヒトを拒むものではありません。
イヴは確信しました。〞ひみつのばしょ〟の入り口を……少女の二歩目はとても軽やかなものでした。
* *
イヴは笑っていました。つぶつぶ泡が流れて行きます。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。
イヴはかぷかぷと笑っていました。この感覚の表現を知らないイヴは、ありきたりな表現を浮かべます。
不安感、少し当たっています。
恐怖心、少しずれているようです。
好奇心、少しかすっているようです。
結局、既存の感覚では説明できないまま落ちていきます。そんなイヴにまとわりつくように、不気味な黒い魚が大口を開けたまま回遊していました。そこでイヴは父の言葉を思い出します。
……イヴは人に見せられない笑顔で笑いました。
「Ib」好きの友達に感想を貰ったら
「なにこれ、攻略本?」
と言われました。
……小説と言ってもらえるように頑張ります。