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Ib-美術館の歩き方-  作者: 如月ユウジ
2/5

美術館1F

 パンフレットを読み終えたイヴは、淑女の仮面を外すように小走りで二階の階段を素通りし、一階の大広間に向かいました。通路を通り少し開けた場所に出るとそこには、四角形の人だかりが出来ています。


 イヴは人目もあることから足音を殺し、出来る限りの外行きの顔を繕います。他の人に迷惑をかけないように。それが尊敬していて怒ると怖い母親の口癖であり、イヴ自身が自分に課したルールでもあります。


 その四角形の人だかりは、よく見ると立ち入りを禁止するためのポールパテーションに沿って出来たものでした。揃って上から覗き込むように見る観客に倣い、イヴもかかと立ちで下を覗きます――その瞬間、少女はえも言われぬ感覚に飲み込まれました。


「……水たまり?」


 そこは光の届かない世界。生命の息吹が潜める世界は閑寂で、地上と一枚隔てていた壁は薄氷のそれで、薄くされど確かに存在しています。その漆黒の空間に居つく生物はまさしく異形。ただ食物連鎖を途絶さぬことだけ考えて、生気のない瞳でその日を生きます。


 イヴの虹彩を著しく濁らすその美術品は、彼女に息をさせることを忘れさせました。


「なんか吸い込まれそうで怖い」


 それは現実からの干渉でした。無意識の内にポールパテーションから乗り出していたイヴはハッと息をのみ、その場から離れ呼吸を再開し、胸元に飾られた真紅のジャボを握りしめます。酸素の欠乏か深海の水圧か、イヴの小さな心臓は痛いほど締め付けられました。


 この日、少女は初めて魅せられてしまったのです。この感覚を知らないイヴは、周りの人の反応を確認します。観客は口々に言います。


「へえ……これがよく雑誌とかに載っているやつなのか」


「ずいぶん大きな作品だねぇ……」


「この作品、生で観てみたかったの。やっぱり本とかで見るのとは全然違うわ。雰囲気がもう……もう……ね」


 観客の言下、イヴはその眼を覗き込みました。それではっきりしました。この人たちと自分の感覚はまるっきり別物なのだと。それもそのはずです。彼らの感嘆は浅瀬から発せられており、虹彩も至って正常。恐らく彼らこそ魅せられていたのでしょう。そして、訂正を許されるのであれば、イヴは魅入られていた、とするのが適切でした。その大きな差異に九歳の少女は気付くはずもありません。


 説明のつかない感覚から逃れるようにイヴは違う作品の元へ向かいます。続いての作品は壁一面に飾られた大きな絵です。イヴは作品を見る前に入り口にあった説明板を見つけました。イヴは自分だけに聞こえる声音でそれを読み上げます。


「『ようこそゲルテナの世界へ』

 本日は ご???き 誠にありがとうございます。

 当館では現在【ワイズ・ゲルテナ展】を ?? しております。

 ゲルテナ氏が生前描いた 怪しくも美しい絵画たちを 

 どうか心の行くまで お楽しみくださいませ。                                     XX,XX,XX」


 少女は読めない文字を飛ばしながら音読すると、再び文章を指でなぞりながら目を通します。しかし、読めないものは読めませんでした。読めない文字は後で両親に聞こうと、イヴは先程目に入った作品に向かいます。


「作品名『悪意なき ?? 』」


 イヴは作品名を読み上げます。また読めない文字があり頭を傾けました。隣にいた観客の大人に文字の読みと意味を聞こうとしましたが、すごいなぁと見入っていたため邪魔をしないようにしました。母親の忠告は絶対です。


 なんとなく父が好きそうな作品だなぁと思ったイヴは端から端まで作品を見終えると次の作品に向かいます。その道すがら最初に観た作品の説明板がありました。


「作品名『深海の ?? 』

 ヒトが立ち入ることが許されない。その作品を ?? ために私は

 キャンバスの中に その世界を ? った」


 説明文は万人に対して優しいものではなく作者の妄執的な意気込みが感じられました。イヴは疑問符を浮かべ無表情で首をひねります。


「地上から観られる深海かぁ」


 左隣の女性は深いところから息を漏らしゲルテナの説明に酔いしれます。イヴはそういうものなのかと、再び作品を見つめます。


「こんなの実際にいたらちびっちゃいそうだ」


 右隣の男性は、唖然とした表情で口を開きます。イヴは、その言葉に少し口元を歪ませしまいました。そしてそのことに気付かれないように唇にそっと手を置きました。どうやら気づかれなかったようです。ほっと胸を撫で下ろしたイヴは改めて作品を眺めました。そこで新しい発見をします。


「……また目が合った」


 先程は左から作品を眺めていましたが、異形の深海魚と目が合っていました。そして、場所を移動して正面から作品を眺めても深海魚の目はイヴをじっと見つめています。


 トリックアート? と、イヴは以前両親が言っていたい言葉を思い出します。人を騙す芸術。それは本来目の錯覚を利用した芸術ですが、イヴは言いようのない圧迫感を覚えました。不思議な引力に逆らうようにイヴはその場を後にします。美術館は複雑怪奇でした。


 何もない通路を南に進むと、次の作品がありました。

「作品名『精神の ??? 』

 一見美しいその姿は近づくと痛い目に ?い ??な 

 肉体しか、咲くことが出来ない」


 やはり九歳には難しい文字があり飛ばしながら読んでいきます。イヴは説明板から左に目を移すとそこには身の丈を超える大きな薔薇のオブジェがありました。一輪の大輪、大胆にして繊細、息を呑む美しさにふとイヴの手は伸びます。すると作品の前に立つサラリーマン風の男性が呟きました。


「これちょっとした衝撃でクキの部分折れたりしないかな……もしそうなったら一体いくら弁償することになるんだろう……うわーっ……コワいなぁー」


 弁償という言葉にイヴは正気を取り戻し、伸ばした手を握りながら引っ込めました。確かにそれは芸術品と呼ぶには相応しく素人目にもお高く見えます。


 イヴはもし壊してしまったら自分のお小遣いだけで足りるのだろうかと不毛な想像しました。どう考えても足りません。足りない分は何で支払えばいいか……まさか大事にしているウサギのぬいぐるみを差し出すことになってしまうかもしれないと、一人で背筋を震わせます。イヴはこの時、とあることを思い出していました。


 以前、母親とガーデニングをしていた時のこと、イヴは庭に植えられた真紅のバラの香りを嗅ごうとしようと、衝動的に素手で手折ってしまいました。その際に指先にトゲが刺さってしまったのです。指先に心臓があるかのように痛みはチクチクと鼓動を刻みます。涙を必死にこらえる我が子に気付いた母親は言いました。


 『いい、綺麗な花にはトゲがあるの……だから優しく大事に扱うのよ』


 約束の小指を重ねた記憶が昨日のことのように思い返されます。


「あの落ちている花取りたい」


 イヴはその言葉で現実に戻りました。少年の声はイヴの一つ目線の下から聞こえます。どうやら少年はオブジェの周りに散ったバラの花を取りたいようで、その確認をイヴにとっているようでした。お姉さんとしてイヴは少年に言います。


「怒られちゃうよ」


「つまんなーい」


 少年はそういうとヘソをまげてしまいました。しかし、イヴの言い付けを守りオブジェには手を出しません。数十秒ほど少年を見守っていたイヴは、言葉少なに少年の頭をなで次の作品へと移動しました。


 続いて作品は『せきをする男』。今までの作品とは方向性が違うように感じるこの作品でしたが、どうやらイヴのお眼鏡にかなわない様で、イヴはちらっと見ただけで次の作品に移ってしまいました。


 通路を東に向かうと二つの絵が目に留まりました。作品名は『個性なき番人』。マネキンのようなスタイルのよう女性をかいた絵でした。しかし、なぜか頭がありません。イヴにはそのタイトルの意味と頭がない理由がわかりませんでした。もう一つの絵は黒髪が綺麗な女性が見入っており、イヴは遠巻きにしか見られませんでしたが、花の咲く丘のような絵です。それから通路の曲がり角を曲がると新しい作品スペースがありました。


「作品名『 ?? と星の ?めき 』」 


 またしてもイヴに読めない文字が数か所ありました。しかし、イヴは星という単語からなにか宇宙的なものではないのかと推測しました。そんなイヴの予感は的中します。通路の両脇にショウケースが置かれており、その中は光で溢れていました。


 目移りするこのスペースにはカップルと思われる二人組と装飾品が光るおばさまが絵画など眼中にないといった調子で張りついていました。


「これ欲しいなー」


「…………」


 光りものを前にした女子学生は瞳を輝かせ呟きます。彼氏と思われる後ろ髪を結んだ男性は終始無言でした。


「んまー、きれい……」


 もう一人の観客はまさに没入といった様子でショウケースを覗き込んでいます。イヴは唇を閉じると弾くように開きました。


「んまー」


 どうやら響きが気に入ったようです。イヴはこの言葉を呟きながら北に通路を進み、一階最後のスペースにたどり着きました。複数の絵が飾られており、イヴは目を引くものから順番に見て回りました。


「作品名『 ?? の精神』」


 赤青黄色の絵の具だけで描かれた抽象的な作品は、見る人の脳内を揺さぶります。イヴはどの色か一つでも欠けてはいけないなあ、とゲルテナの色彩感に魅了されました。


「作品名『 ?? の器』」


 二つの器が書かれた作品。イヴは読めない文字を絵から読みとこうとしましたが、当てはまる文字は思いつきませんでした。この作品に続いて隣に移動しようとすると、黒髪の男性が恍惚の表所で作品の前に陣取っていました。


「いやー、さすがゲルテナ先生だ。観れば観るほど趣深い……」

 作品名は見えませんでしたが、その無限に続くような広大な絵画にイヴは思わず息を漏らしました。イヴは、長居はいけないと、次の作品に向かいます。


「作品名『波打ち際の ?? 』」


 寄せては返すさざ波は砂浜にその爪痕を残します。イヴは耳をすませば聞こえてきそうな並みの音を目を閉じながら堪能しました。静かに流れる空間に絵画や彫刻が調和する美術館。イヴは美術館をいたく気に入ったようで、弾んだ足取りで次の作品を観賞に向かいました。


 通路を西に向かうと最初に訪れた大広間に出ました。美術館は回の字になっているようで、作品を見ながら通路に沿って歩くと一周できる作りのようです。イヴは大広間に飾られていた大きな絵画の前に両親を見つけました。イヴは両親のもとに向かいます。両親はゲルテナの作品に夢中でイヴに気がつきません。イヴは母親の裾を引っ張ります。これに気付き視線を下げる母親はイヴの顔にはにかみました。


「ゲルテナってあんまり有名な人じゃないけど、お母さんこの展覧会ずっと楽しみだったの。イヴも好きになってくれると嬉しいな」


 イヴは笑顔を返します。母親は我が子が楽しんでいることに喜びました。


 そして、イヴは母親の感性と自分の感性が同じことに喜びました。その様子を傍らで眺めていた父親は、イヴに語り掛けました。


「ほらイヴみてごらん。この絵、すごいだろー。こんな大きな絵を観るのははじめてじゃないか。イヴ、この絵の意味がわかるかい?」


「わかんない」


 イヴの素直な返答に父は笑います。これに父も素直に応えました。


「うん、お父さんもよくわからないよ。でもなんとなくピアノのレッスンで叱られている子供の絵に見えるかな」


 イヴの素直さは父親ゆずりなのでしょう。二人は笑い合いました。父親は続いて大広間の中央にある作品を指さしました。


「イヴ、そこの魚の絵は観たかい。海の底には本当にああいう魚がいるらしいよ」


 イヴは父親の指先を追ったあと、静かに父親の裾を掴みました。父親はその反応に手を自身の顎に持っていきイヴを見ました。


「怖いって? 確かに見た目は不気味だね。……でもちょっとワクワクしないか?」


 父親は鼻から少しの息を出すと少年の笑顔を浮かべました。ワクワク……イヴは自分の心臓に問いかけます。心臓はその回答を否定しました。初めて見た時の説明できない感覚にワクワクといった感覚は当てはまらないのです。当てはまってはいけないのです。父親はちょっと娘を困らしてしまったかなと、頬をかき話題転換の言葉を出しました。


「イヴ、二階にも行ってみたかい? 2階は絵以外の作品も多いみたいだよ」


 その言葉にイヴは思考を途切らせました。

 父親は受付で聞いた話を続けます。


「イヴ……今お客さんが少ないからじっくりと作品を観られるチャンスだぞ。混んでくると、なかなかゆっくりと観られないからね」


 イヴは父親の言葉に頷きました。

 すると、今度は母親がイヴに語り掛けます。


「イヴ、パンフレットによると今回はアクセサリーも展示されてるみたいよ。すごく小さな宝石がついたアクセサリーですごく綺麗なんですって、あとで一緒に見に行きましょう」


 母親と約束を交わしたイヴは、小走りで二階へと向かいました。その時、イヴはハッとします。美術館では走ってはいけない。イヴはやってしまったと、両親の方を見ました。幸いにも両親は絵画に夢中で、イヴのことに気付きませんでした。


 イヴは美術館に来た高揚感と両親との会話で、外行きの仮面が剥がれかかっていました。イヴは目を瞑り緩んだ表情に力を入れ直しました。そして、目を開けると目の先に両親が映りました。胸元に下げられた紅玉のペンダントように紅く光る瞳。一児の母とは思えない凛とした母親と黒髪黒眼の優しい瞳を持った父親、イヴの両親は絵になります。イヴは両親のような大人になれるようにと身なりを正し、二階へ向かいました。


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