プロローグ
フリーゲーム「Ib」のストリーを多少の脚色を加え、出来る限り忠実にノベライズしたものです。
※原作プレイ済みの方を想定しております。
ネタバレがあるため、原作をプレイした後の高揚感のまま、読んでいただければ幸いです。
批評、感想、大歓迎です。
「忘れ物ないわよね? イヴ」
昼下がりの灰色の空の下……イヴとその両親は美術館に向かっておりました。町はとある伝説の前夜とあって、あいにくな天気を打ち消すように色づいております。多くの人々にとって本日は特別な一日でしたが、この家族にとっても今日は特別な日であったのです。
「そうだ。ハンカチは持ってきた? ほら誕生日にあげたやつ」
イヴは母親に言われるとポケットの膨らみを確認しました。イヴは返事の代わりにいつもの笑顔と取り出したハンカチを広げました。純白のレースのハンカチはイヴの口元から見える小さな歯と同じく穢れを知らず、実の母親から見ても眩しいものです。
「ちゃんとポケットにしまっておくのよ? なくさないようにね」
母親にそういわれるとイヴは慣れた手つきで折り畳み、ポケットにしまいます。その様子を見ていた父親は微笑ましい笑顔で見守りながらしっかりとポケットにしまったことを確認し、白い息を吐きながら呟きました。
「さあ、行こうか」
母親譲りのワインを点眼したような深い赤眼に両親を映し、イヴは両親の手を取りました。美術館はもうすぐ――それはイヴにとって忘れられない長い一日となるでしょう。
町はずれの小さな美術館
幸せそうな家族の目的地は町はずれの小さな美術館でした。何でも古い洋館を改装したもので外観は緑のカーテンが伸びており、ひどく裏手の森に溶け込んでいました。そんな人を寄せ付けない外観でしたが、入り口に立て看板が一つ立てられており、『ワイズ・ゲルテナ展』と家族の目的地に間違いなく、家族は入り口に向かいます。
イヴは異様な雰囲気に母親の後ろに隠れ、裾を掴みました。大人びているようで時折見せる子供らしさに両親は、娘はまだ九歳なのだと改めて実感し笑い合いました。そんな両親の対応に一匙の反抗心を見せたイヴは、両親を差し置いて美術館に向かいます。重厚感のある扉を前にイヴは取っ手を掴みました……しかし、思ったように開かず、扉はうんともすんともしません。子供の非力さを思い知ったイヴが扉の前で立ちつくしていると、両親が追い付き父親が軽々と扉を押しました。
「どうぞお嬢さん」
父親の言動に頬を軽く膨らませたイヴでしたが、それでは父親の思うつぼだと毅然とした表情で足を踏み入れました。娘に続いて母親が美術館へと入ります。最後に入室した父親が扉を放すと、重々しい音を立てて扉が閉じました。それは何かの意志をもっているようでした。
「さあ着いたわよ……イヴは美術館 初めてよね?」
膝を折り娘の目線に合わせた母親は、左目に掛かった茶色の髪を脇に流しながら、イヴの面影を残した品のある顔で説明を始めました。
「今日観に来たのは『ゲルテナ』っていう人の展覧会で、絵の他にも彫刻とか色々と面白い作品があるらしいから、きっとイヴでも楽しめると思うわ」
母親は説明し終えると笑顔を見せました。これによりイヴはその薄い表情の下に好奇心を隠せません。
「受付すましてしまおうか」
「そうね、あとパンフレットももらいましょ」
両親は我が子の微細な表情の変化を読み取り、早く見せてあげようと受付にむかいました。入り口から陽光が差し込む大きな窓を二つ過ぎた先にある受付の後ろには、展覧会の目玉の一つである深海魚の様相をした魚のポスターがかざってあります。前売り券を三人分受付に渡す父親とパンフレットを手に取る母親。その後ろでそわそわと両親を待つイヴでしたが、父親が受付と軽い談笑を始めたのを見ると、はやる気持ちを抑えきれずに母親の袖を引っ張りました。
「えっ? 先に観てるって? もー、イヴったら……仕方ないわね」
きらきらと光る娘の目を見てしまっては止められる親などいません。しかし、ただ甘やかす昨今の親とは一線を画す母の顔を見せた母親は、凛とした口調で忠告します。
「いい? 美術館の中では静かにしてなきゃダメよ?」
母親の忠告に少女は強く頷きました。九歳ながら礼節を弁えている自慢の我が子に小言を言ってしまったと、少し反省の色を見せる母親は少し繕った笑顔で付言します。
「……ま、アナタなら心配ないと思うけど、他の人の迷惑にならないようにね」
お互いの信頼を目で通じ合うと、イヴははやる気持ちを必死で抑えていることがわかる足取りで歩き出しました。
「あっ、待ちなさいイヴ。パンフレットに一度目を通してからいってね」
母親の制止に気を削がれたような表情を見せるイヴでしたが、母親がいうことなのだからそれは重要なことだろうと回れ右をし、受付に戻ります。パンフレットには『enter』や『esc』など、ゲルテナの作品と思われるものに説明が書いてありました。これから見る事の出来る未知の出会いにイヴは、高鳴る鼓動が止まりませんでした。