(4)
丘まで続く宿や施設の合間からもうもうと白い蒸気が立ち上り、石畳通りの両脇には目を惹く看板や色とりどりの垂れ幕が並ぶ。客呼びの賑やかな声に混じりガラスや真鍮の鐘がカランカランと鳴り響き、通りを行き交う人々は皆似たようなくだけた服装で頬を上気させている。
『長移動で疲れているだろうから少し休んでおこう』
というヴァルダスの意見に対し、
『せっかく初めて来た場所なんだから探検するのが先よ』
とリリィは張り切って答えたので、こうして二人で温泉街を散策しているところだ。
温泉街はそれまで自分の街を出たことのなかったリリィにとって、わくわくするほど新鮮だった。
「ねえねえヴァルダス、あれを見て」
はしゃいだ声でリリィはヴァルダスの服を引っ張り、目に付くものに逐一反応していった。
「素敵ねえあの窓。一体どうやってあんなに複雑な組み木ができるのかしら」
「あそこで売ってる黒くて丸くて湯気が出ているものは何? お菓子?」
「まあ、あのお風呂、外から丸見えだけど大丈夫なの!? 入っている人は恥ずかしくないのかしら」
飛んでくる質問に対し、ヴァルダスは知る限り逐一真面目に答えていった。その度リリィは感心したふうに頷きながら、
「ヴァルダスって何でも知っているのねえ」
と、白い息を吐きながら嬉しそうに見上げてくる。
「いや。俺はむしろ無知な部類に入る」
平静を装って答えつつも、ヴァルダスは既にリリィにメロメロだった。
『――ほほう、ヴァルダス君の恋のお相手は随分と年上なのか! そいつぁ手とり足取り教えてもらわんとなあ』
城でリリィの事を白状すると、ニコラウスは根掘り葉掘り詳細を知りたがり、ニヤニヤしながら脇腹をつついてきた。
確かにリリィは自分よりずっと年上だ。だが、正直な所ヴァルダスにはその実感が全く無かった。こうして無邪気に楽しんでいる姿を見ていると、むしろしっかり守ってやらねばと思ってしまう。
リリィの見た目も原因の一つなのかもしれない。普段は室内作業ばかりな上、幼い頃より香草茶を飲んでいたという彼女の肌は透けるように白くそばかすの類も無かった。城の女性の多くが流行のヘアスタイルやら化粧を気にし、香水を吹き付けているのを知るヴァルダスの目には、彼女のしているのか分からないほどの薄化粧は好ましく映る。
温泉というものが美肌効果もあるのだと知ると、
「じゃあたくさん入っておかなきゃ」
とリリィは喜んでいたのだが、これ以上綺麗になる必要は無いとヴァルダスは思っていた。あまり磨き過ぎてしまって他の男に群がってこられては困る。そうだ、あのニコラウス達とも同じ宿なのだ。女好き6人のうち、万が一誰かが彼女に惚れようものなら、俺は――。土産物屋で肩たたき棒を前に妄想していたヴァルダスは、ぶるりと首を振り馬鹿らしい考えを捨てた。
リリィの姿は飾り櫛が並べ置かれた前にあった。真剣に物色しているのだろう、目を近づけようと俯いた拍子に高い位置で留めた緑の髪が滑り、ほっそりした白いうなじが覗く。いつもの黒く大きな魔女帽子を見慣れていたヴァルダスにとって、それは酷く蠱惑的に見えた。
「欲しいのか」
近寄って尋ねてみると、
「ううん、可愛いけれど私にはちょっと若すぎるから……」
と答えが返ってきた。
ヴァルダスはリリィが手にしていた櫛を取り上げると店主に見せ、「いくらだ」と革財布の紐を解いた。
「ちょっ、ちょっとヴァルダス、いいから」
「へえ、60シリーヌです」
ヴァルダスは金を払うと櫛を手にしたまま店を出て、リリィの髪にそっとさした。
「あ――ありがとう。派手じゃないかしら?」
リリィははにかみながら頭に手をやった。赤と白の布花束が緑の髪にちょこんと咲いている。
「――よく似合っている」
それ以上褒めるのは気恥ずかしかったのでヴァルダスはスタスタと歩き出し、慌ててリリィはその後を追った。
遅い昼食の代わりに、二人は蒸気の上がる温泉傍の露店で熱い酒と共に温泉やその蒸気で蒸した芋や豆、それから鶏肉や卵に塩を振って食べた。年末で気温は低かったが、温泉の蒸気や賑やかな熱気、それから熱々の食べ物のおかげで凍えることは無かった。リリィはご機嫌だった。特に卵は黄身よりも白身の方が柔らかいのが気に入ったらしく、帰るまでにもう一度食べたいと言った。
「ヴァルダス、温泉っていいわねえ。私、とっても好きだわ!」
リリィは頬を赤くしながらにこにこしていた。
「まだ実際に浸かってもいないだろう」
真鍮の杯を傾けながらおかしそうな口調でヴァルダスは言った。
「あ、ええっとそうだったわね。でも本当に最高の気分。こんなに楽しいなら何度でも訪れたいわ」
「それは良かった」
何度でも連れて来てあげよう、とヴァルダスは思った。いや、温泉地だけじゃない。彼女が喜びそうな場所はもっと他にもたくさんある。世界はどこまでも広いのだ。
「そういえば、旅行をしたことなかったと言っていたが」
「ああ、うん、そうなの」
リリィは急に口篭ると、杯をあおって溜め息をついた。そうしてそれ以上その事に触れようとしなかったので、ヴァルダスも特に何も聞かなかった。
宿に戻るとリリィは「温泉に入りたい」と言い出した。
「いや、先程酒を入れたばかりだ。やはり少し休んでから――」
「だってせっかくの温泉よ、時間は有効に使わないともったいないわ。ヴァルダスはゆっくり休んでて」
リリィは鼻歌を歌いながらいそいそと支度を始めた。
「着替えを持ってきたのだけれど、チェストに入っているこの服を着てもいいのかしら? さっき通りの人の大半が来ていたから、ずっと気になっていたの」
「ああ。毎日洗濯したものと取り替えてくれるから、滞在中は自由に着ていい」
「わぁ、じゃあさっそくこれを持っていこうっと」
チェストから服を取り出すと、リリィは「いってきまーす」と部屋を出て行った。
ヴァルダスは上着を脱ぐと窓を開け、細長い小箱を取り出した。開くと中には簡易式の煙管が入っている。
煙草の類は普段やらないのだが、呑んだ後や気を落ち着けたい時はこれで一服する事にしている。カチリと組み立て中身を詰め、火を点ける。部屋に煙が篭らないよう、窓辺にもたれてゆっくりと楽しむ。
去年までは一人、もしくは職場仲間とこうして夏や冬の休暇に湯治に来ていたものだ。
闘いの場に駆り出される身としては、いつ何時命を落とすか分からないと、そう思うようにして生きることにしている。だから今まで、彼は自己鍛錬や体調管理を怠らずにいた。本気で鍛え、闘い、生き抜く。それが武人としての努めだ。
だが恋愛に関しては、『なんだかんだで遊び程度にしておくのがいい』というのが仲間達の弁だ。ある程度の地位があるならともかく、今の平身分では前線に赴くのが常。
『まあ、入れ込み過ぎると死ぬ気で戦えんくなるからな』
とりあえずは肉欲と刹那の寂しさを紛らわせばいいのだと、大多数の仲間は城の若い娘と一夜の恋をしてみたり、娼館に通ったりと軽い恋愛を楽しんでいる。勿論、本気で好いた相手と付き合っている仲間もいる。ヴァルダスもその類だった。
仲間が自分の恋を応援してくれるのは、不器用だと知っているからだ。こうして湯治に来る度に女を買えと勧められたり、ハッカ飴等の差し入れをくれるローサを『気があるからだ』とデートに誘うようけしかけられたりもしていた。まあ、勝手に部屋を一緒にしたのは過ぎた節介だと思うが、結果的に想いを確かめ合えたのだから良しとしておこう。
『あなたが好き……大好きなの』
潤んだ瞳で告げるリリィの顔を思い出し、ヴァルダスは誰もいないのに一人咳払いをして頬が緩むのを誤魔化した。
正直、部屋を共にする事を意識せずにはいられない。煙管を出したのは酒が入ったからというよりも、気を落ち着けるためだった。湯上りの彼女を見るのは楽しみだったが、同時に両思いと分かった今ではいつまで己の理性を保てるか自信が無かった。
ここの宿の温泉はなかなかに評判が良い。リリィも楽しめているだろうか。
ふとベッドの上に目をやったヴァルダスは、湯上り用の簡易服が一枚残っていることに気が付いた。
ピチャン……。
すくった湯はとろりとしていて、指の隙間から溢れた後も肌が滑らかなのが分かる。だんだんと薄暗くなり始めてはいたが、夜になりきらないうちに一人で入る風呂は何だか贅沢で、とても気持ち良かった。
リリィは木でできた湯船に一人浸かっていた。本当は大風呂に行こうかと思っていたのだが、入り方を受付で尋ねているうちに、実は温泉が初めてなことや人前で裸になることに緊張しているのだと知ると、人の良さ気な主人は、
「それなら、個人用の風呂がまだ空いていますよ」
と教えてくれたのだ。2~4人程度が浸かれる広さで、事前に申し出をすれば誰でも使用できるらしい。
「まずはそちらでのんびりされてから、後々大風呂にも入られるといいですよ」
にこにこと受付紙を取り出してくれた主人に礼を言い、こうしてリリィは一人のんびりと寛いでいる。
(温泉って本当に素敵……)
初めて嗅ぐこの香りは、浮いているたくさんの木の玉から立ち上っているらしい。上品な清涼感ある香りととろみのあるたっぷりした湯が、旅疲れした身体をじんわりと癒してくれる。
(美肌効果があるって本当みたいね)
腕を持ち上げ、そっと触れてみながらリリィは微笑んだ。健康に自信はあれど美容にはこれまでさして気を使っていなかった分、こうして美肌効果を実感できるのがちょっと嬉しい。
ヴァルダスも気付いてくれるかしら?
それとも、こういうのって見ただけじゃ分からないものなの? 触ってもらうまでは……。
そこまで考えてから、リリィは顔を赤くした。
(べ、別に今のに深い意味は無いのよ!? だってあの人は真面目だし、そんな事考えてないかもしれないし……)
部屋での優しいキスを思い出す。それから、初めてあった日の情熱的なそれも。
リリィは「ひゃー」と変な声を出しながらぱしゃぱしゃと湯で顔を洗った。あんまりぱしゃぱしゃやっていたので、自分の名を呼ぶ遠慮がちな声に暫く気付けなかった。
カタン、と扉が少し開いた。
びくん、として固まったリリィだったが、
「――すまない、呼んだが気付かなかったようなので」
という声がヴァルダスのものだったのでホッとした。
ヴァルダスは顔を出さないように気遣いながら尋ねてきた。
「持っていった服は二枚で着るんだが、部屋に一枚残っていたんだ。それで、宿の主人に居場所を訊いて持ってきた」
「え、あら、そうなの? ごめんなさい、予備なのかと思っていたわ。ありがとう、そこに置いてもらえるかしら」
「ああ」
そのまま締まりかけた扉は、再びピタリと止まった。
「――リリィ。君はこの服の着方が分かるか? 楽ではあるが少し独特な着付けなんだが」
「え……あの、ごめんなさい、分からないわ」
ヴァルダスは何か考えているようだった。が、ややあってから思い切ったように、
「その……君さえ良ければ、俺も一緒に風呂に入ってきてもいいだろうか。そうすれば、上がる際に着付けてやれるんだが」
と言ってきた。
「えっ」
「あ、いやすまん失礼! 忘れてくれ!」
珍しく慌てた口調でヴァルダスが詫びてきた。その声が少しおかしくて、何だか妙に愛しくて、
「いいわよ」
とリリィは答えてしまっていた。
「いや、無理はしないでいい」
「無理なんてしてないわ」
年上の余裕があるフリをしてリリィは言ってみた。
「お風呂、とっても気持ちいいわよ。ヴァルダスも試してみる?」
暫くの静寂の後、扉はそのままにしてヴァルダスが離れた気配がした。ゴソゴソと衣擦れの音がする。やがて、キィ、と軋む音と共に本当に裸になったヴァルダスが、腰布を巻いた状態で入ってきた。
リリィの心臓がドクン、と跳ねる。
「――失礼する」
「あ、はい……」
互いに視線を合わさずにぎこちない動きで、ヴァルダスはかかり湯をし、リリィは狭い湯船のなるべく端に移動すると膝を曲げて身体を隠した。
木桶で湯をすくうと、ヴァルダスは身体を洗った。リリィに気を使ってか背を向けたままだったので、その間、リリィはこっそりとヴァルダスの身体に目をやっていた。
(……凄い)
がっしりと鍛えられた大柄な身体には、いくつもの傷跡が刻まれていた。彼の闘いは赤のドラゴンと対峙した際に見ていたが、その体躯に合わない程敏捷なものだった。きっとあの時のように今まで幾度も厳しい戦闘を繰り返してきたのに違いない。
温泉に来るのが湯治目的だという意味が、あらためて分かった気がする。
傷跡を見ているうちに、リリィはどんどん胸が苦しくなっていた。彼の生き様がいかに厳しいものなのか、この身体が教えてくれている。この国のために、私達国民を守る為に作られた傷なのだ。
身体を洗い終えたヴァルダスは遠慮がちに湯船に浸かろうとして、リリィが眉間を歪ませていることに気が付いた。
「どうした」
慌てて湯に入るとざぶざぶと近付き、その顔を覗き込む。
「――ヴァルダスは……武人なのよね」
その言葉が自分の傷を見てのことなのだと、暫し考えてからヴァルダスは気付いた。
「ああ、そうだな。何度かヒヤリとした事もあったが、有難いことにこうして生きながらえている」
真面目に答えたヴァルダスは、リリィの顔が今にも泣き出しそうになったのに動揺した。何かまずい事を言ったのかと考えていると、リリィが手を伸ばしてしがみついてきた。
「お願い、ヴァルダス。絶対に死んだりしないで」
ああ、そういうことか。とヴァルダスは納得した。傷を見てしまったが故に不安になったのだろう。
「俺は死なんよ」
ヴァルダスはリリィの頭を撫で、そっとその背に片手を回した。
「本当に?」
「ああ。約束は守る」
「絶対よ?」
「絶対だ」
それきり、しばらく二人はじっとしていた。
たぷん、たぷん
揺れる水面が二人の身体の狭い隙間に入り込み、音を立てる。
互いに互いの温もりを気持ちいいと思っていた。湯の温もりと違う、心満たされる温かさ。いつまでも、こうして抱き合っていたい。
(……どうして、こうなっちゃったのかしら)
リリィは額に汗を滲ませ、頬を上気させながらぼんやりと思った。
そんなつもりは無かった筈なのに。
ただのんびりと、彼と共に楽しく旅ができれば。
初めは確かにそう思っていた筈なのに、本当に人生は何が起こるか分からないものだ。
それはきっと相手――ヴァルダス・デッガータも同じ思いであったのだろう。宿につくほんの数時間前まで、二人は友人としていつも通り談笑していたのだから。
なのに、今はこうして恋人となり、互いに裸で抱き合っている。
リリィは喘いだ。火照った身体がそろそろ限界に近付いているのを感じていた。
この状況がどうにも良くないのだと頭では分かる。けれど、とるけるような温もりとあまりの気持良さに言い出すこともできず、だんだんと頭の奥がぼうっとし始めていた。
もうとっくに、熱冷ましの薬は切れてしまっていた。
長湯によるのぼせと身体の内から来る発熱、そうして好きな人に触れ合う熱とで身体がおかしくなりそうだった。
「あっ……」
くらり、と世界が反転しだして、リリィは再び喘いだ。
「ああ……ヴァルダス……わたし……もう、だめ……」
掠れた声で呟くと、リリィはその逞しい腕にすがりつき、そのまま気を失った。