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(3)

 ガラガラと車輪が回る音が続く。

 乗合馬車の窓からリリィはずっと外を眺めていた。

 リリィは生まれてこの方、遠方旅行というものをした事がほとんどない。幼い頃、両親と共に一度旅行したらしいのだがその思い出は無きに等しかった。

「――馬車酔いなどしていないか?」

 隣に座るヴァルダスがそっと声をかけてくれる。出発してこのかた、外ばかり見て黙りこくっていたため心配してくれたのだろう。

「大丈夫。旅行なんてした事がなかったから、つい夢中になって景色を見ていたの」

 答えつつ、

(そろそろ効いてきたみたいね……)

 と、リリィはホッとしていた。


 朝飲んできた粉薬は、以前医師の友人から貰ったものだ。薬は本来高価な上、基本健康体であるリリィが使うことなど滅多にない。

 病弱だった父はかかりつけの医師を持っていた。そうして時折訪れる彼と香草茶の薬効について語り合ううちに親しくなり、その親交は父亡き今でも続いている。

『これは熱冷ましの薬だよ』

 調合して贈った香草茶の礼にと、医師は数袋の剥離紙に包んだ粉薬をくれた。

「至って健康な君に贈るのもどうかとは思ったけれど、熱というものは突然やってくるからねえ。準備しておくに越した事はないよ」

(まさか、今日使う事になるなんてね……)

 昨夜からどうも身体がだるく重いと思ってはいたのだ。幸い症状は軽いらしく、身体が熱っぽく倦怠感がある以外はたいしたことはないようだった。


「リリィ。良かったら、これを」

 ヴァルダスが渡してくれたのは、以前くれたことのあるハッカ味の飴だった。

「以前よりハッカの量を多くしたそうだ。気分が優れない時に摂るといいらしい」

「ありがとう」

 ありがたく受け取り、マスクを外して口に入れる。もう顔の赤みは取れているだろう。

「ヴァルダスって甘いものが好きなの? 飴を持ち歩いてるみたいだけど」

「いや。特別好きというわけではない。城の菓子職人がちょくちょく差し入れをくれるのでな」

 そんな他愛もない話をしながら二人は長い道のりを揺られ続け、やがて目的地の温泉地へと到着した。



 下車をして、リリィはくんくんと鼻をヒクつかせながら辺りを見渡した。まるで卵が腐ったような匂いと温かな空気。

「硫黄の匂いだ」

 リリィの怪訝な表情に気付き、ヴァルダスが教えた。

「温泉に含まれる成分はその地によって違い、この硫黄という成分は効能が高いため人気なのだが……苦手か」

「いいえ。嫌いじゃないわ」

 リリィは街並みから上る湯気を見ながら答えた。

「嗅いだことのない匂いで驚いたけど、非日常な場所なんだって実感しているところ。ちょっと離れた場所でもこうだなんて、世界には見知らぬ地がたくさんあるのね……」

 目前に広がる街だけでなくその先までも想像しているのか、リリィは暫くその場に立ってぼんやりとしていた。

 ヴァルダスが案内したのは落ち着いた造りの上品な宿だった。趣向を凝らした外観の建物が点在する中、奇をてらわず実直な造りを選んだ辺りが実に彼らしい。

「ああ、デッガータ様ですね。はいはい、予約を承っております」

 にこにこしながら宿屋の人の良さそうな主人が出てきて、チェックインの手続きののち部屋を案内してくれた。

「わあ……」

 用意された部屋は、外観から想像していた以上に素敵だった。パチパチと薪の爆ぜる温かな部屋はどの家具も簡素ながら質が良く、出窓には可愛らしい花、机上には水差しと青磁器の椀、それから籠に入った小さな焼き菓子が入れてあった。ベッドもふかふかとしていて、見るからに心地良く眠れそうだ。

「素敵、とっても快適だわ!」

 はしゃぎながらリリィは出窓を開き、外を覗いた。温泉街のあちこちからもうもうと出ている湯気は見ているだけで楽しい。

「ヴァルダス、ここに来た事あるの?」

 振り返ったリリィは、ヴァルダスが困惑した表情で立っているのに気付いた。

「……どうしたの?」

「いや……」

 口を開きかけたヴァルダスの後方、半開きの扉の向こうからガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。

「――あいつらか」

 苦々しげな声で呟くと、ヴァルダスは扉を閉めて出て行った。残されたリリィはきょとんとした顔で扉を見ていた。


「いよっ、ヴァルダスじゃないか! 奇遇だなあ!」

 エントランスで嬉し気に片手を挙げたのはニコラウスはじめ城の屈強の同僚兵6人だった。

「奇遇だと!? 俺がここに泊まると知ってやって来たんだろうが。宿帳に予約名があった」

 ヴァルダスは苦虫を噛み潰した顔でニコラウス達を睨んだ。

「まあまあ、ヴァルガス・デッガータ。どちらにしろ俺達も湯治に来る予定だったのだ」

「そうそう」

「湯治湯治!」

「ついでにお前の恋を応援にだな」

 やいやいと言ってくる集団を前に、ヴァルダスはため息をついた。

「お願いだから、余計な事をしないでくれよ……」

「余計だと? 俺達がいつそんなことをした! お前の事を思って応援しているんだぞ!?」

「そうそう」

「応援応援!」

「……ベリアータの件はお前達のせいだろうが」

 数年前、ヴァルダスと恋仲になった娘に彼らはさんざんちょっかいを出した挙句余計な事まで調べ上げ、結果としてヴァルダスの恋は失敗してしまったのだ。

「何を言う! あれはむしろ感謝してもらわなきゃ困る!」

「そうそう」

「婚約者持ちの身でありながらお前と遊ぼうとしてたんだ、どっぷりハマる前に切れて良かったじゃないか」

「まあ、既にハマってたけどな」

「荒れたな、あの時は」

「荒れた荒れた!」

「やめてくれ……」

 蒸し返され、ヴァルダスは失言を酷く後悔した。

「ところでお前、部屋はどうだった? 別々に取ってたようだったから宿屋の主人に夫婦部屋にするよう命じておいたんだが」

「城の身分証出してまでして変更させてやったんだぜ」

「そうそう」

「俺達、仲間想い」

「……余計な事をしないでくれ」

 ヴァルダスは渋面でため息をつくと、再び部屋に戻っていった。


 残されていたリリィは再び戻ってきたヴァルダスが機嫌が悪そうなのを見て驚いた。

「どうしたの? ヴァルダス」

「リリィ。すまないが、部屋を変更してもいいだろうか」

「えっ。あの、それは構わないけれど……一体何があったというの?」

「それは俺達が説明しましょう!」

 失礼! だの、イエーイ! だの口々に言いながら逞しい男達が一斉にガヤガヤと部屋に入り込んできた。呆気に取られたリリィとヴァルダスの前で、

「初めまして、お噂はかねがね聞いております。俺はニコラウス・サージェントと申します」

「アントニウス・ブレッダです」

「ロジェルト・ヴェーフェです」

「トト・ローです」

「その他1です」

「2です!」

「は、初めまして、リリィ・カーマイルと申します」

 どぎまぎしながらも失礼の無いようにとお辞儀をしたリリィを見て、ニコラウス達はニヤニヤしながらばんばんッ! と一斉にヴァルダスの背を太い腕で叩きまくり、結果ヴァルダスは激しくむせた。

「お知り合いですか」

「ええ、そうなんです!」

 実に爽やかに白い歯を見せながらニコラウスがリリィに話しかける。

「我々はコイツと同じ城兵兼護衛隊員なのですが、たまたま今日! ここに! 湯治に来たところなんです!」

「いや~、まさか、この堅物のデッガータ君が恋人を連れてきているなんてね!」

「偶然って凄い!」

「そうそう」

「偶然偶然!」

「あ、あの、私達、そういう関係じゃ……」

「何言ってるんですかお嬢さん!」

 アントニウスがニヤリとしながら一角を指差す。

「デッガータ君は既にその気ですよ! 見てくださいそのベッドを!」

 言われてリリィがよくよく見ると、ベッドは横に大きな造りで枕が仲良く二つ並んでいる事に気付いた。そして、部屋にある寝具はその一つきりだった。

 リリィの顔がみるみるうちに首まで真っ赤になったのを、その場にいた男性全員がしっかりと見届けた。

「あ、あの……」

 動揺のあまり唇が震えだしたリリィを見て、ヴァルダスはまずいと思った。

「おい、お前ら出て行け……」

 押し殺した声で呟くと、ヴァルダスは兵達を部屋から押し出していった。

「ではまた! 麗しいお嬢さん!」

「ヴァルダス、うまくやれよ!」

「ひゅうひゅ~う」

 扉向こうからニコラウス達の声が聞こえ、やがて静かになった。


 何とも気まずい沈黙が流れる。

「リリィ。ベッドの事だが……」

 ヴァルダスの言葉に、リリィはぴくん、と肩を震わせた。視線も合わせてくれないのを見て、(絶望的だ)とヴァルダスは思った。

「違うのだ……待っててくれ、主人に言って別々に部屋を取る」

 仕方なくそう言って部屋を出ようとしたヴァルダスに、

「……いいの」

 とリリィは言った。

「いや、無理はせずとも」

「このお部屋、ヴァルダスが取ってくれたんでしょ。とっても素敵で気に入ったし、それに……」

 一旦口篭ると、リリィはヴァルダスの方を向き――視線を合わせられず俯きがちだったが――思い切ったように、

「私、あなたと一緒がいい」

 と言った。

 普段鈍感気味なヴァルダスでも、その言葉に心動かぬほど朴念仁では無かった。

「――リリィ」

 名を呼びながら近付き、小さな頬にそっと手を置く。

「その、もう一度ここで言わせてくれないか」

 もう一度? 何の事だろうかとリリィは思ったが、とても呑気に問える雰囲気では無かった。

 ヴァルダスの逞しい腕が背にかかる。そっと抱き寄せられ、甘い予感に息が苦しくなる。

「――好きだ」

 ヴァルダスは溜め息をつくようにリリィの耳元で言った。

「君が好きだ。

 真面目さも、優しさも、俺に見せてくれる笑顔も。それからこの豊かなな髪も」

 ヴァルダスは結び目から落ちる緑の髪をすくい、愛おしそうに口付けした。そうして腕を緩め、リリィが見上げたところで金縁眼鏡を取ると、

「――灰色の、美しい瞳も」

 と呟いた。

 リリィは泣きそうだった。実際、目が潤んでいたのかもしれない。ヴァルダスの顔はよく見えなかったが、その指がそっと目元を押さえてくれたのを感じたから。

「私もよ、ヴァルダス。あなたが好き……大好きなの」

 リリィはヴァルダスを見上げて言った。

「私、今日の旅行が本当に楽しみだったの。あなたが誘ってくれて、嬉しかったの」

「リリィ……」  

 落ちてくる影をリリィは受け止め、二人はそっと二度目のキスをした。

 顔を離し、微笑みあってから、やがてどちらともなくもう一度顔を近づける。

 あの時の激しいキスが嘘のように、それはとてもぎこちなく、そして優しさに満ち溢れていた。

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