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こちらは、「集荷チェッカー、リリィ」(全4回)の後日談、『お泊り旅行編』です。
(……どうして、こうなっちゃったのかしら)
リリィ・カーマイルは額に汗を滲ませ、頬を上気させながらぼんやりと思う。
そんなつもりは無かったのだ。
ただのんびりと、彼と共に楽しくひと時を過ごせれば。そう思っていただけのはずのに、本当に人生は何が起こるか分からないものだ。
それはきっと相手――ヴァルダス・デッガータも同じ思いであったのだろう。ほんの少し前まで、二人はいつも通り談笑していたのだから。
なのに、今は。
リリィは喘いだ。火照った身体がそろそろ限界に近付いているのを感じていた。
この状況がどうにも良くないのだと頭では分かる。けれど、とろけるような温もりとあまりの気持良さに頭の奥がぼうっとし始めていた。
ああ、もう、身体がおかしくなりそう。
「あっ……ヴァルダス……わたし……もう、だめ」
掠れた声で呟くと、リリィはその逞しい腕にすがりつき、そのまま気を失った。
* * * * *
ヴァルダスがその話を切り出したのは、湖で魚釣りをしていた時だった。
リリィがドラゴンの赤子、ピュルイ(鳴き声を名前にした)の餌を釣るのに彼は付き合ってくれていたのだ。
「女性一人じゃ心許無いこともあろう」
ヴァルダスはそう言うが、本当のところを言えばリリィは一人で大抵の事はできた。
手順をしっかりと調べておけば、気力と行動力で何とかなる。重い木箱を持つのだって、肉の皮を剥ぐのだって、本気でやろうと思えば誰にだってできるのだ。
女性は守られるもの。
女性は男性に頼るもの。
そんな考えの世にあって、ヴァルダスの台詞は至極当然だと言える。が、僅かではあるがリリィはそういう類の言葉に反発を覚えることがある。
ただ、それは誰にも言ってはいけないということも彼女は知っていた。賛同する者などほとんどいないだろう。
(けれど、やっぱりミミズに関しては助かるわ)
にょろにょろと身をくねらせながらうごめくバケツに入ったそれを、眉を潜めてリリィは見た。ミミズは釣り針の先に外れぬよう丁寧に刺す必要がある。ヴァルダスは太い指で簡単に付け終えると、その竿をリリィに渡してくれた。
釣竿さえ水に入れてしまえば、後はじっと待つだけだ。
二人はそれぞれの釣竿を持ったまま、いろんな話をした。
すぐ脇にはピュルイが蝶々を追いかけまわしてはしゃいでいる。時折作ってきたサンドイッチをつまんだり、お茶を飲んだり。寒ささえ気にしなければ、何とも幸せなひとときだといえた。
「――それにしても、動かないと芯から冷えるわね」
ぶるっと身を震わせてリリィは身を縮こまらせた。
「年の瀬だからな。まだまだ冬の本番はこれからだ」
言いながらヴァルダスは竿を一旦引き戻すと、自身の着ていた外套を脱ぎリリィの肩に被せた。ずっしりと重いそれを羽織った途端、ぽかぽかと暖かくなった事にリリィは驚く。
「凄いわね、これ。とっても暖か」
「城からの供給品だからな。質がいい」
「へえ。こんなものまで供給されるの」
「野戦もあるからな。風邪を引いては元も子もない」
「成程ねえ……」
呟き、その温もりを確かめながら、やはり彼は自分とは違う世界の人間だと改めてリリィは思う。
彼は特殊護衛隊員も務める程実力のある若き武人。
対して、私は一介の中年公務員。
言葉にすると、あらためて寂しい風が心に吹く。
けれど、暫くはこのままの関係でいいのだとリリィは思っていた。
『子ドラゴンの世話で手伝えることがあれば、何でも俺に言ってくれないか』
あの出会った日の帰り道。追いついたリリィにヴァルダスはそう言ってくれたのだ。
そして、その言葉通り彼はこうして頻繁にリリィと共に時を過ごしてくれる。
あの日、ドラゴンのタマゴを共に運び、共に闘った仲だ。やはり思い入れがあるのだろう。
そう、そして彼とキスもした。
燃えさかる炎の中でそれ以上に熱い、大人のキス。
けれどそれっきり、互いにそのことに触れることはなかった。
それが大人だとリリィは思う。きっとあれはちょっとした盛り上がりでやっただけのお遊び。そう思っていないと、この恋する気持ちをどう持っていけばいいのかわからなくなりそうだから。
(あれはきっと火遊びみたいなものだったのよ)
今ではそう思うようにしてリリィはやり過ごしていた。
(だって、少なくとも一年の間は一緒にいられるんですもの)
ピュルイは一年後に父親である赤のドラゴンに返す。それまでこの楽しい時間を無駄に壊そうとする必要もない。
リリィは現状で充分に幸せだと思うようにしていた。
「はい、ありがとう」
彼の香りのする外套を脱ぐのは惜しかったが、ずっと自分が着て相手に風邪をひかせてしまうのはもっと駄目だ。肩にかけ直したリリィに驚き、ヴァルダスは彼女に戻そうとしたが、
「いいの。一体何のためにあなたに支給されたものなのか、もう忘れてしまったの?」
と頑固に言い張る彼女に根負けした。
「では、もう少ししたら釣りを終えるとしよう」
と言いながら、ヴァルダスは外套を羽織り直した。カーキ色の立派なそれは、茶色の皮ブーツに黒い短髪の彼にとても良く似合う。
(私よりだいぶ若い筈なのに、しっかり貫禄あるのよね……)
それだけの実践を積んできたということなのだろう。
そう思いながら眺めていると、ヴァルダスが一瞬「ん?」と戸惑ったような表情になった。
「どうしたの?」
尋ねると、
「――いや。何でもない」
とヴァルダスは短く答える。
何でもない筈がない。
(だってそんな表情、普段見せないじゃないの)
「あ。もしかしてあたし、臭うのかしら?」
腕を持ち上げくんくんを鼻を動かすリリィに対し、
「いや、違う。逆だ」
とヴァルダスは慌てて否定した。
「その、不思議な香りがしたので、つい」
「不思議な――?」
しばし考え、
(ああ、香草のことね)
とリリィは納得した。
リリィは香草を扱う魔女だ。
幾種もの乾燥させたそれらを使い、茶を煎れたり薬を作ったりしている。風呂上がりにはこれらの成分を入れた保湿用の油を塗ったりもする。
そうやっていつも自宅で香草を扱っているうちに、自身では気付かぬうちに身体に匂いが染み込んでしまっているのだろう。
「ごめんなさい、私、香草を扱うのが好きだから。男の人は苦手かもしれないわね」
すまない気持ちで伝えると、
「いや。俺は好きだ」
とヴァルダスは答えた。
その『好き』という言葉に他意は無いと分かってはいるのに、聞いた瞬間、リリィは身体が甘く痺れたように感じてしまった。
(ああ、これだから恋に慣れていないおばさんは!)
ヴァルダスは無骨な男だが、時折どきりとする事を言ったりする。
先程の外套だって、本当はときめいて仕方無かったのだ。
ともすれば自惚れそうになる自身に対し、
(平常心平常心! 外套だって女性なら誰にだってそうするでしょうし、これはただの香りの話!)
と、リリィは必死に言い聞かせつつ、
「それは良かったわ」
とだけ答えた。それ以上話そうとすれば、余計な事を口走りそうだった。
そうして、その後はたいした会話もなく間もなく釣りは終わった。
帰り道。
リリィを送ってくれながら、ぽつりとヴァルダスが言った。
「あー、リリィ。君は『温泉』というものを知っているか」
「温泉? ええ、聞いたことはあるけど……」
『湯治』と言って病気の治療のために幹部を湯に一定期間毎日浸ける治療があるという。それに使用する湯を『温泉』といい、薬効成分が含まれていると言われている。
もっとも、聞いたことはあれど入ったことは一度もない。生まれてこのかた、ありがたいことにリリィは大病や大怪我とは無縁の生活をしている。
「そうか。それはよかった」
頷き、ヴァルダスは暫く黙っていた。が、やがて立ち止まるとリリィに向き直り、思い切ったようにこう言ったのだ。
「リリィ。良ければ、年末休みを俺と過ごしてはくれないだろうか」