私を好きだといった婚約者候補が、いつの間にか姉と恋仲になっていた
ルエナ・シャルディネは、緩やかな癖のある銀の髪を真珠で飾り、腰をきつくコルセットで締めあげて胸を強調した空色のドレスを着て馬車に揺られている。
馬車の隣には、二十五歳になってもまだ結婚していない姉、そして正面には五年前に夫を失った義母がいる。
父の後妻には子ができなかった。シャルディネ伯爵家には男児がいないため、ルエナの母が七年前に亡くなったあと、跡取りを望んで父は再婚した。しかし義母が孕むことは一度もなかった。
それでも義母は明るく優しい人柄で、夫婦仲はよかった。ルエナも義母を慕っている。だが彼女はシャルディネ家の血をひいていない。そのため父が亡くなったあとの家の管理は、姉のシエンナの役目になった。
ルエナよりも姉は十歳年上だ。
二十歳で王都大学を卒業したシエンナは、結婚よりも自立を望む、強い女性だ。
父が亡くなってから、伯爵家を取り仕切っている。それこそ義母が口を挟む隙などないほどに、彼女は優秀で賢かった。
ルエナにとって彼女は、年が離れすぎていて、姉というよりは保護者という感覚が強い。
「今どき、デビュタントでその年の一番可憐な令嬢を選ぶなんて、馬鹿げているわ。そう思わない、ルエナ」
「そう……なのでしょうか。ファルセイラの薔薇は、名誉な称号ですよ」
「あんなもの、なんだというの。女性の見た目、立ち振る舞い、家柄やらダンスの上手さで、いったいその人間のどのような価値がわかるというのかしら? 知識や教養、功績……大学での優秀さの計りかたのほうが余程まともよ」
シエンナは、社交界に対して否定的でもあった。
伯爵家を守り血を繋ぎ、領地を守っていく大切さは理解している。
けれどそのために、女らしさを磨き、令嬢としての立ち振る舞いを学び、よりよい男性に選ばれる──ということが、どうにも受け入れられないようだ。
特に、デビュタントの年に王妃の選ぶファルセイラの薔薇。
こちらの制度が、気に入らないらしい。
これは伝統的な行事だ。その年に社交界入りする令嬢の中で、王妃が一番美しい者を決める。
家柄やダンスの上手さ、表情や礼儀作法、兎角大切なことは、体つきや顔立ちやドレス選びのセンスである。
見た目だけで人を判断するなと言う姉は、ルエナの目から見ても美しい。
しかし反骨心が昔から強く、デビュタントの時は不貞腐れて、壁の花になっていたそうだ。
困った子だと、母が生前言っていたことを、ルエナは幼いながらに覚えている。
義母を迎えるときも『私がいるのだから、男児などいらない』と、父に食って掛かっていたのを、ルエナは震えながら見ていた。どうにも、争いや喧嘩が苦手だ。これは性分である。
ルエナはシエンナとは違い、大人しくおっとりとしていて、令嬢として生きるのはまったく苦ではなかった。
煌びやかなドレスは好きだし、茶会もダンスも、そして華やかな社交界も嫌いとは思えない。
シエンナと話をしていると、ルエナが間違っているような気がしてくる。
ルエナはいつもシエンナの言葉に、静かに頷いていた。
義母は控えめに「ルエナさんは綺麗だから、きっとファルセイラの薔薇に選ばれるわ」と言った。
姉は彼女を睨み「選ばれたら不名誉よ、エイダさん。まるで腐肉に群がる虫のように男が寄ってくるわ」と、酷く嫌そうな顔で舌を出した。
黙っていれば美しい姉だが──そういった態度のせいで『シャルディネ家の鉄の女』と呼ばれていることを、ルエナは知っている。
豊かなシャルディネ家の婿の座を狙うものは多いが、そのためには姉の心を射止める必要がある。
けれど、姉が怖くて誰も近づけないでいるのだ。
城の広間で、十五歳を迎えた貴族の子供たちの列に、ルエナも静かに並んだ。
自分の容姿のことは、自分ではよくわからない。けれど、義母に言わせると、亡くなった母やシエンナに似て、ルエナもとても美しいそうだ。
亡くなった母もまた、ファルセイラの薔薇だった。上品で綺麗な人で、いつも優しく微笑んでいた。
彼女が亡くなったときルエナは八歳。母がいなくなったのは寂しかったが、義母が優しい人だったためにその寂しさも薄らいだ。
シエンナはすでに十八歳だった。懐くのは、難しかったのだろう。
彼女はいつでも義母に他人行儀で、怒りさえ抱いているようだった。その姿を見ていると、義母をすぐに受け入れた自分が、母を裏切った薄情者のように感じられてルエナは辛かった。
それでも優しくしてくれる人に対して、冷たい態度はとれないのだ。
それはルエナがまだ少女だったせいでもあるのだろう。
ルエナは未だ、義母が嫌いではない。むしろ好きだ。父が亡くなり、いつ姉に家から出て行けと言われるだろうかと怯えているように見える義母が、哀れだった。
ルエナの番になり、王妃の前で淑女の礼をする。
「ルエナ・シャルディネです。シャルディネ伯爵家の次女です。今は亡き母エリカテーナは、かつて王妃様にファルセイラの薔薇に選んでいただきました。私もそうなればいいと、願っております」
「なぜ、ファルセイラの薔薇になりたいのかしら。お前の姉は、そんなものはくだらないと暴言を吐く、シャルディネ家の鉄の女でしょう」
今までずっと黙って、令嬢たちの挨拶を眺めていた王妃がはじめて口を開いた。
隣にいる姉は、表情さえ変えずに王妃を見据えている。
ルエナは内心戦々恐々としながらも、穏やかな笑みを浮かべた。
「シャルディネ家は、五年前に父を失い、姉は一人で家を支えなくてはいけなくなりました。姉は私のために強くならなくてはいけなかったのです。私はそんな姉に少しでも恩を返したいと考えております。私がファルセイラの薔薇になれば、良縁に恵まれるでしょう。そうすれば姉もきっと、私という重荷から自由になることができます」
「あなたはエリカテーナに似ているわね。シエンナとは違う。気に入ったわ」
全ての令嬢の挨拶が終わると、ルエナは再び王妃の元に呼ばれた。
そして、薔薇を模して作られた髪飾りが渡される。
それはファルセイラの薔薇の証。ファルセイラの薔薇だけが、社交界で頭に金の薔薇を飾ることが許されるのだ。
「今年は、ルエナ。あなたがファルセイラの薔薇よ」
「ありがとうございます。これほど名誉なことはありません」
王妃の侍従が頭にその髪飾りをつけてくれるのを、ルエナは内心の興奮を隠しながら静かに受け入れた。
「あぁ、ルエナさん。よかったわね。本当に嬉しいわ」
「ルエナ。あの言葉はなんだったの。私はあなたを重荷だと思ったことなど一度もないわ」
義母とシエンナの反応は真逆だった。
義母は喜んでくれたが、シエンナは「一度でもあなたになにかを強制したことがあったかしら」と怒り、「面倒なことになったわ」と苛立っていた。
「ごめんなさい、お姉様」
「余計なことを言わずに穏便に終えていれば、こんなことにはならなかったのに。あぁ、きたわ。ルエナ、これから求婚者が山のように来る。その中にはろくでなしも多く混じっているわ」
「ろくでなし……?」
「あなたが夢を見ているほど、貴族の男たちは身綺麗ではないのよ。誰が今年のファルセイラの薔薇を落とせるか、競っているの。あなたを嫁に迎えることは、男の勲章になる。誰も彼もがあなたを見ていない。見ているのは、ファルセイラの薔薇という称号だけ」
早々に婚約者を決めておくべきだったとシエンナは言うが、シエンナが結婚していないのにルエナに結婚を申し込むことなどできない。義母の話では、それでも勇敢に婚約を申し込んでくれたものもあったが、シエンナが丁重に断りの手紙を書いて出しているそうだ。
まだデビュタント前のルエナと婚約したいなどという男は、ただシャルディネ家の財産を狙っているだけだと言って。
シエンナの言うとおり、ルエナの元に様々な男性たちがやってきた。
まだルエナは十五歳だが、結婚を三年後と想定すれば、同い年の少年から三十歳手前の男まで、挨拶に来るのはそうおかしなことでもない。
貴族社会において、男性は何歳になっても結婚できるが、女性は若いうちしか結婚の適齢ではないのだ。
子を産ませるのなら二十歳までに第一子を、などと言われている。
子は多ければ多いほどよく、三人以上産ませるためには妻の年齢は若いほうがいい。
ルエナはさして疑問を感じなかった。それはそうだろうと思ったからだ。
貴族の女の役割は子を産むことだ。そして産んだ子を立派に育てあげ、社交界に出して良縁を結ばせる。それが普通で、シエンナのような生きかたが例外だった。
だからこそ、ルエナはシエンナを尊敬しているし、眩しく感じている。
「まったく、いやらしい。あの侯爵は、若い後妻が欲しいのよ。まだ十五歳のルエナを欲しがるだなんて」
「でも、シエンナさん。侯爵は豊かな農園を持っているわ。悪い相手ではないと思うけれど」
「エイダさんは、ルエナの実の母ではないから、そんなことが言えるのよ」
「お姉様……」
義母が萎縮し、ルエナはシエンナの腕をひいた。
今の言葉は言い過ぎだ。義母は義母なりに、ルエナの幸せを願ってくれている。
「……悪かったわ」
「いいえ、大丈夫よ、シエンナさん。口を出した私が悪いのだから。あぁ、ディーセル公爵よ。まさか公爵の目に留まるなんて……!」
義母がやや興奮気味に言う。渋々といった様子で彼女に謝罪をしていたシエンナは鼻白んでいる。
ゲイル・ディーセル公爵は、齢二十五歳の眉目秀麗で優秀だと評判の男だ。
女好きという話だけが玉に瑕だが、揉め事を起こさずに女遊びをするという点で、美徳という者もいる。女性を口説き一夜の恋人になるものの子を作らず、然るべき対応をして別れている。
それはゲイルの人徳の為すところだろう──などという話を聞いて、シエンナはたいそう腹を立てていた。
シエンナはゲイルと同い年。高等学園では同窓だった。当時から浮名が絶えなかったゲイルに対し、シエンナは「ああいう男は大嫌い」と、吐き捨てるように言っていた。
美しい金の髪に青い瞳の、なにもかもが完璧に整っている男がルエナの前に立つと、広間にざわめきが起こる。このところゲイルは自分から女性を誘わない。彼の魅力に誘われて近づいてきた女性の相手を、気まぐれにする程度だったのだと義母がルエナに囁いた。
そんなゲイルが自らルエナの元に来たのだ。
とうとうディーセル公爵も身を固める決意をしたのかと、誰かが囁く。
ファルセイラの薔薇を公爵は本気で落とすつもりかと、好奇の視線がルエナの肌に突き刺さった。
「はじめまして、麗しの薔薇。ご挨拶をさせていただいてもよろしいか」
「残念ですが、公爵。ルエナと言葉を交わすためには私の許可が必要です。ルエナはもう疲れていますので、今日のぶんの挨拶は先ほどの男性で終わりです。また日を改めていらしてください」
ルエナの手を取ろうとしたゲイルに、シエンナが冷たく言う。
ゲイルは薄く笑って、どこか挑発的にシエンナに視線を送った。
「相変わらずだ、シエンナ」
「私のことは、シャルディネ嬢とお呼びください。あなたに親しげに呼ばれるほどの付き合いをした覚えはありません」
「共に学園に通い、最上位を競ったと記憶しているが」
「そのような古の記憶はもう忘れました。高等大学での記憶のほうが、私にとっては鮮明で、有意義なものでした。女を遊びの道具として見るような人はいませんでしたから」
「おや。せっかく優秀な君好みの男性たちが集まる大学でも、シャルディネ嬢には素敵な出会いはなかったようだ」
「私に興味を持つのはおやめください。ルエナ、帰りましょう」
「ルエナ、君の姉君は、君の意思を無視しているようだが」
あまりにも仲が悪いので、ルエナは二人の間で困り果てていた。
喧嘩は苦手なのだ。ルエナはシエンナのように、よく回る口で相手に言い返すことなどとてもできない。シエンナは勇ましいが、相手は公爵だ。不敬ではないかと、肝が冷えた。
ゲイルに話しかけられて、ルエナはシエンナに従おうとしていた足を止める。
王妃に言った言葉は、ルエナの本音だった。
シエンナは伯爵家を守ることや、ルエナを立派に育てることに強い責任を感じている。
だから、恋愛も結婚も不必要だという態度でいる。ルエナは早々に結婚相手を決めて、あの家から去りたかった。負担が減れば、彼女の心も少しは穏やかになるだろう。
「公爵、はじめまして。ルエナともうします。お噂はかねがね聞いております」
「女好きだという噂だろう。あれはただの噂だ。私は相応しい結婚相手を探していた。それだけのこと。はじめましてルエナ。私はゲイル・ディーセル。美しいファルセイラの薔薇に、口づけさせてくれるか?」
噂通り、ゲイルは手慣れていた。
するりとルエナの手を握り、恭しく手の甲に口づける。
顔にかかる金の髪が美しく、ルエナの胸は高鳴った。誰もが憧れるディーセル公爵に、ルエナの幼い初恋は小さく芽吹こうとしていた。
◇
デビュタントからすぐに、シャルディネ家には多くの手紙が届けられた。
どれもこれもが、ルエナと会いたい、話したい、ぜひ一度ご挨拶を──といったものばかりだ。
シエンナは全てに目を通し、赤いインクでリストアップした名にバツ印をつけていた。
「お姉様、ゲイル様ともう一度話がしたいのです。もし私が公爵の妻になれば、シャルディネ家は安泰でしょう。お姉様が結婚は嫌というのなら、私が子を産みます。その子を養子にするという方法もあります」
「ルエナ、そんなことまで考えているの? まったく呆れるわ。女は子を産む道具ではないのよ。私は反対よ。あんな男、ルエナを傷つけるわ。嫁いだところで浮気をする。女好きとは病気よ。一生治らない病だわ」
「なにか事情があるのかもしれません。ゲイル様は、相手を探していただけだとおっしゃいました。噂とはあてにならないものです。お姉様の鉄の女という通称だって、お姉様のことを知らない者たちが勝手に言っているだけだもの」
「あの男はやめておきなさい」
「ですが」
「この話は終わりよ」
「お姉様。お願いです。私は……お姉様のようには生きられません」
シエンナはようやく折れた。ゲイルと会うことを了承してくれたが、ただしそれにはシエンナが同席するという条件つきだった。まだ幼いルエナに、あの男がなにかをしたら困ると──本気で思っているようだった。
ゲイルから返事がきたのは、返信をした三日後。
遠乗りをしようという誘いが書かれていた。シエンナは憤慨していた。ゲイルはルエナを自分の馬に乗せ、シエンナを置き去りにするつもりだと言って。
シエンナは自分の馬を用意した。乗馬は得意だと息巻いているシエンナに、ルエナは苦笑することしかできなかった。
「まぁ、よかったわ! ルエナさんとゲイル様はお似合いよ。二人で並んでいるととても絵になるもの。シエンナさんがゲイル様の女好きを怒っているのは、私のせいなの。私はほら、病身のエリカテーナ様の世話をさせていただいたでしょう。だから、そのころから伯爵が私と浮気をしていたと思っているのよ」
「そうなのですね……」
義母に報告すると、彼女はとても喜んでくれた。
その話は、ルエナも知っている。義母に直接言ったりしないだけだ。
義母は母の世話係だった。病身の母がいるのに父は義母に心変わりしたのだと──シエンナは父も義母のこともずっと恨んでいる。ルエナには、実際のところはわからない。
人の心の内など探ることはできない。もし二人の間になにかしらの感情があったとしても、結婚したのは母が亡くなってから一年後のことだ。目的も明確で、男児が必要だったから。
だから──真実がどうであれ、ルエナには誰かを責める気持ちはない。
母は義母に感謝していたし、父のことも娘たちのことも愛していた。
若くして亡くなってしまったのは無念だっただろうけれど──でも、川の水が海へと流れていくように、人の命も常に死に向かって進んでいる。
どうしても抗えないことはあるものだ。
だからこそ、生きているうちは幸せを求めたい。
もちろん、シエンナにも義母にだって、幸せになって欲しいとルエナは願っている。
「ルエナ、鉄の女は最近またずいぶんと苛立っているようじゃないか。君がファルセイラの薔薇に選ばれてから」
どうにも家の中は息がつまる。ゲイルとの遠乗りを明日に控えた昼下がり、ルエナは王都の貴族街にある噴水広場の長椅子に座り、ぼんやりと噴水を眺めていた。
貴族街の入口には門があり、関係者以外は中に入ってくることができない。
そのため比較的自由に屋外を散策することができる。
ルエナは外歩きが好きなので、自然と知り合いが増えた。
隣に家のあるエルシア侯爵家次男のサフィールは、ルエナよりも一つ年上で、幼馴染のような間柄だ。
ルエナを見つけると、いつも話しかけてくれる。気さくに話ができる友人として、ルエナは彼を好んでいた。
「お姉様を鉄の女なんて呼ばないでください、サフィール様」
「またそんな呼びかたをする。昔みたいにサフィと呼んでくれていいのに」
「サフィでは女性のようですよ」
「君は俺を、女だと思っていただろう?」
「まぁ、そうなのですけれど」
騎士を目指しているサフィールは、ルエナよりも頭が一つ分大きい立派な体躯の青年だ。
炎のような赤毛と金の瞳が鮮やかで、士官学校では『太陽の騎士』などと呼ばれはじめているらしい。
ただ、幼いころは体が小さく大人しかった。顔立ちもまるで少女のようで、ルエナは彼を女友達だと、長い間勘違いしていたのだ。
だから、サフィ、サフィちゃん──などと、失礼な呼びかたをしていた。
「あぁそうだった。ファルセイラの薔薇、おめでとう。君の家には今、山のように求婚の手紙が届いているだろう?」
「ええ。お姉様は日夜その処理で忙しくされています。だから私は、早く夫になる人を決めないと……」
「よく知らない男と結婚を?」
「結婚とは、そういうものでしょう。愛はあとからついてくると、皆が言います。ですから明日、ゲイル様と会います。遠乗りを、二人で。お姉様も共にくるとおっしゃっていましたが」
「かの有名な、女たらしの公爵閣下が君に求婚を?」
「まだわかりませんけれど、興味を抱いてくれているようです。ゲイル様とはとても美しい方でした」
どこか夢を見るようにルエナが言うと、サフィールは肩を竦めた。
「君もつまらない女の仲間入りだ」
「サフィール様、私が面白い女だったことなど、ただの一度もありません」
「それを自分で言ってしまえるのが、君の魅力だと俺は思うけどね。俺が男だと気づいたときの君は面白かったな。湖で遊んだときだったかな。あれは君が十一歳、俺が十二歳のとき。迂闊な君が湖に落ちて、俺が助けた。濡れた服を脱いだとき、どうして胸がないのかと君は言ったよね。よく、あの年まで気づかなかったものだと思うよ、本当に」
「その話はもう忘れてください……!」
ルエナは真っ赤になった顔を両手で隠す。サフィールが女だと思い込んでいたのは、ルエナだけだった。周囲の皆は彼が男だともちろん知っていた。
だがルエナはつい最近まで、サフィールを女だと信じ切っていた。
湖に落ちた彼が堂々とシャツを脱ぐのを見て、ぎょっとした。胸のふくらみがまるでないことが不思議でつい聞いてしまったのである。どうして胸がないのかしら、と。
サフィールが呆れながら『男だからだよ』と言うので、ようやく彼の性別を認識したのだ。
「そんな君も、あの女好きに恋をするのか。公爵は顔がいいから、仕方ない」
「サフィール様も、綺麗な顔をしていますよ。女性たちから人気があると、噂で」
「太陽の騎士だろう? まだ見習いだというのに、恥ずかしい限りだ。それにその名も、安易すぎる」
サフィールは皮肉げに笑い、「明日は上手くいかないことを祈るよ」と言って帰っていく。
どこか素直さのない彼と話していると、どうにもシエンナを思い出す。なんとなく、似ていると感じる。もしルエナがゲイルと結婚することになったら、彼と話すことももうなくなるのだろう。
それは少し寂しいと感じた。
翌日、ルエナはゲイルの馬に乗せられた。
彼が背後からルエナの体を抱えてくれる。馬に乗るのは初めてで、ルエナはその高さに驚きながらゲイルの腰にしがみついた。
「……可愛い」
耳元で囁かれて、大きく胸が高鳴る。シャツから香る甘い香水が、酷く大人びて感じられた。
彼は実際大人だが、より、年上に感じる。父を早くに亡くしたからか、ルエナはどうにも大人の男性というのに惹かれる傾向がある。
それに──家柄で考えれば、彼ほど結婚相手として素晴らしい男性はいない。
妻の座に収まれば、生活には困らない。シエンナも安心だろう。たとえゲイルが浮気としたとしても、公爵家と資金さえあれば、多少のことは我慢できるとルエナは考えている。
「君もくるのか、シャルディネ嬢」
「私も同行すると手紙に書いたでしょう。どこかの誰かの毒牙に手塩にかけて育てた可愛い妹がかかったら、死んでも死に切れません」
「大袈裟な」
呆れたように、ゲイルは言う。それから馬を歩かせた。
馬は貴族街を抜け、王都を通り過ぎる。門から出ると、湖に向かい馬を走らせていく。
ルエナがサフィールと共に落ちた場所だ。サフィールも馬に乗るのが得意で、よくルエナを連れ出してはシエンナにひどく叱られていた。湖に落ちてから、シエンナはルエナを連れ出すことを許さなくなった。
それからサフィールとは少し疎遠になってしまったが、シエンナの目を盗み彼は昨日のように話しかけてくれる。それはルエナにとって心の休まる時間だった。
シエンナは、ゲイルと競うように馬を駆けさせている。
まるで競争のように、徐々に速度が増していく。振り落とされているような気がして、ルエナはさらにゲイルにぎゅっと抱き着いた。彼の体は見た目以上に逞しく、片手で背中を支えてくれるのが頼もしかった。
湖には、シエンナよりも一足先にゲイルの馬が到着した。
「姉君に勝ったようだ」
そう笑いながら、ゲイルはルエナを馬から降ろしてくれる。
「競争をしていたのですか?」
「あぁ。学生時代、君の姉とは学力を競い合っていた。勝敗は、半々だったか。今日は勝てたな」
「お姉様は優秀ですから。私と違って」
「学力の優秀さと女性の魅力は関係ない。可憐な薔薇。ルエナ、君ほど可愛い女性を私は見たことがない」
口が上手いのだと思う。けれど、体が熱くなる。繋がれた手が大きくて、ルエナを見つめる瞳はあまりにも綺麗だ。繋いだ腕を引き寄せられて、体が近づく。
ルエナは彼から慌てて視線を逸らし、湖を見た。
「昔、落ちたことがあります。ボート遊びの最中に。岸につけたボートから戻ろうとしたら足を滑らせて、水の中に、どぼん、と。浅瀬だったので溺れませんでしたが、それ以来湖には近づいてはいけないとお姉様が言うので、ここに来たのは久しぶりです」
「君の姉は過保護だな。君はもう、大人の仲間入りをしたというのに」
「姉は私を大切にしてくれているだけです」
「あぁ、そうなのだろうな。それにしても、はは……っ、落ちたのか、ボートから。君は面白いな、ルエナ。普通はそういったことは隠すものだが」
「え……あ、そうですね、そうでした、忘れてください」
「忘れない。では、私と共にボートに乗ろうか。君の怖い姉上が、到着する前に」
「いけません、ゲイル様……っ」
シエンナは怒るだろう。しかしゲイルはルエナの手を引いてボートに乗せると、慣れた手つきでボートを湖に漕ぎ出してしまった。
馬蹄が土を踏む音が響き、シエンナが駆けてくる。
両手をあげてなにかを叫んでいるようだが、ルエナたちの耳にはその声は届かない。
「ようやく二人きりだ」
「ずっと二人きりでしたよ」
「では、怖い保護者から逃げきることに成功した」
悪戯めいた口調でそんなことを言うゲイルが、ルエナの目にはひどく、魅力的に映った。
◇
ルエナは十七歳、ゲイルと知り合ってから二年経った。
その間、ゲイルは夜会にルエナをエスコートし、誕生日には花を送り、実質の婚約者のような存在になっていた。
正式なものではないのは、鉄の女の許可が降りないからだ──と、皆が実しやかに囁き合っている。
ルエナは高等学園の二年生の終わりを迎えようとしている。
シエンナは卒業後大学に行ったが、ルエナはゲイルに嫁ぐのだろうと漠然と考えていた。
ゲイルは女遊びを辞めて、ルエナに一途に振る舞ってくれている。
相変わらずシエンナは同席していたものの、二人きりの時間をこっそり作っては「好きだ」と伝えてくれていた。
「湖に落ちた話を君はしてくれただろう。どうにも私は、己を飾るご令嬢が苦手でね。鉄の女の妹君なら他の女性とは違うのではないかと考えていた。ファルセイラの薔薇をこの手で摘み取りたいとはじめは考えていたが、君と話す度に、君の可憐さの虜になっている」
「私は姉とは違います。自分を飾る令嬢が苦手でしたら、私のことも苦手なはず。私も、多くのごく普通の令嬢と同じ。結婚や出産を、己の役目と考えていますし、それが嫌だと思ったことは一度もありません」
「シエンナは、あれほど女であることを嫌悪しているのに?」
「姉は……きっと、潔癖なのだと思います。理想が高いのです。愛についての」
「どういうことだろう」
「唯一無二の愛があると、信じていたのです。私よりも年上ですから、両親をよく見ていたのでしょう。そして両親が大好きだったのだと思います。姉がデビュタントを迎えたとき、母はすでに病に臥せっていました。三年、治療を続けましたが、亡くなってしまいました」
ルエナが高等学園に入学した時、ゲイルは入学祝いに来てくれた。
シエンナが帰宅したあとに、ゲイルはこっそりと寮の部屋に忍び込んできたのだ。
学生寮が懐かしいと部屋を見回すゲイルに、侍女はなんてはしたない男かと閉口していた。
しかしルエナは、彼と二人きりの秘密を持つことができて嬉しかった。
ルエナの部屋で、ベッドに並んで座り話した。彼は女性の扱いに慣れているはずだが、ルエナに必要以上に触れようとはしなかった。そこに誠実さを感じて、ルエナは幸せだった。
彼といると、大抵シエンナの話になる。
この日も、シエンナについてルエナは口にしていた。
皆が怖がる姉のことを彼に話せるのが、ルエナは嬉しかった。
こうしてシエンナの話を嫌がらずに聞いてくれるのは、サフィールとゲイルぐらいだ。
「デビュタントで姉が不機嫌にしていたのは、母の世話をする義母……当時は侍女だったエイダが、父と心を通わせていたからなのではないか、と。もちろん、幼い頃から男勝りで、母を困らせていたようですけれど。母が亡くなり、父がエイダと再婚をして、より頑なになってしまいました」
「唯一無二の愛などないと気づいてしまったのか」
「実際、浮気をしていたかどうかはわかりません。心の交流が浮気だとしたら、きっと浮気だったのでしょう。肉体の繋がりがなくとも。思えば、肉体の繋がりだけよりも、心を交わされたほうがよほど傷つくかもしれません」
「そういうものか?」
「ええ。心がとどまってくれさえいたら、肉欲に溺れても許せるでしょう。けれど、心が奪われてしまったら、残るものなどありません。だから姉はきっと、母が不憫で、父と義母が許せなくて……男性や結婚、女性としての役割を嫌悪するようになったのだと思います」
「強い人だ」
「はい、とても。私は姉が大好きです。ですから、幸せになって欲しいと願っています」
そう口にすると、ゲイルはルエナの手をそっと握った。
「ゲイル様……?」
「君の言葉はいつも愛に満ちている。強いのはシエンナばかりではない。君はとても強い人だ」
「そうでしょうか。私は……姉には及びません、いつも」
「私はルエナ、君が好きだ。今はまだ反対されているが、必ず君との婚約を勝ち取ってくる。君のおそろしい保護者から」
「姉は、優しい人ですよ」
ルエナがくすくす笑うと、ゲイルの顔が近づいてくる。唇が触れそうになったところで、「公爵、そこにいるのはわかっています! 出てきなさい!」と、部屋の扉が激しく叩かれた。侍女がシエンナに告げ口したのだ。
──そんなことがあり、ルエナは卒業を間近に控えて、結婚を漠然と考えていたし、少々浮かれてもいた。
卒業試験が終わり、ルエナは無事に卒業資格を得た。
成績は中の上。シエンナにはやはり勝てない。勝とうとも、思ってはいない。
高等学園卒業前に、王家主催の夜会が催される。若者たちの前途を祝うためのものだ。
ルエナもシエンナに連れられて参加をした。すっかり騎士らしくなったサフィールが、ルエナに気づいて目が合うと礼をしてくれる。
高等学園に入学してから二年、彼にはほとんど会っていない。二年前よりも背が伸びて精悍さを増しているサフィールを見て「太陽の騎士様だわ」と、女生徒たちが黄色い声をあげていた。
国王の挨拶が終わり、歓談の時間になる。ゲイルもいたはずだが、いつの間にか姿を消していた。
シエンナも不在だ。もしかしたらどこかで二人が喧嘩しているのではないかと思い、ルエナは彼らを探すことにした。
「どうしたんだ、お嬢さん。まだパーティは終わらない。それなのにもう帰るのか?」
「サフィール様、警備の仕事はどうされたのですか?」
「お嬢さんを守るのも、俺の役目だ。ルエナ、久しぶりだね。大きくなった。特に胸が」
「怒りますよ」
広間から出たルエナのあとを、サフィールが追ってくる。
二年間の距離など感じさせない口調で話しかけてくる彼を、ルエナは笑いながら軽く睨んだ。
サフィールは肩を竦めて、ルエナの隣を歩く。
「君の結婚の話で、社交界は賑わっている。あのゲイル様が君にぞっこんだの、骨抜きだのと」
「ゲイル様は、私を大切にしてくださっています。でもまだ、結婚は認められていなくて」
「鉄の女が、駄目だと?」
「信用できない、と」
「何故かな。さては、鉄の女はゲイル様が好きなんじゃないか? だから君との結婚を猛反対している」
「そんなことは……」
ないと、言いきれるだろうか。
ふと、不安が胸を過る。ゲイルもシエンナも、二人で話しているととても楽しそうだ。
嫌味と皮肉が飛び交うが、ルエナと話しているときよりも──ずっと。
「ん? 図星だったか。悪いことを言った」
「でも、ゲイル様は私を好き、と」
「好きなんて、簡単に言える。俺はルエナが好き。ほらね」
「サフィール様、そのようなことばかり言っていると、いつか女性に刺されますよ」
「誰にでも言っていると思っている? それは誤解だ」
軽口を言うサフィールのおかげで、少し元気が出た。
実は──不安は前からあったのだ。半年以上前、ルエナは教科書を忘れて伯爵家に戻ったことがある。
そのとき、シエンナがゲイルと二人で話をしているのを見てしまった。
ゲイルはシエンナに結婚の許可をもらうと言っていたから、そのためと思っていたけれど。
どちらの口からも、その後、結婚の許可の話も、二人で話し合ったという話も出なかった。
だからずっと、あれはなんだったのだろうと考えていた。
どちらに尋ねることも、できないまま。
聞き慣れた声が、廊下にある一室から耳に飛び込んでくる。
ルエナは足を止め、息を呑んだ。それはゲイルの声だ。焦っているような、懇願しているような。
そしてシエンナの声も。いつもとは違う、密やかで艶のある声だった。
「っ、私、戻らないと……」
「静かに、ルエナ」
嫌な予感がせりあがってきて、ルエナは広間に戻ろうとした。
サフィールがルエナの手を引く。口に指をあてて話すなと指示をすると、声が聞こえてくる部屋の扉の隙間から中を覗き込んだ。
薄く開いた扉の先は、物が雑然と置かれた倉庫のようだった。
そこにシエンナとゲイルの姿がある。
「──あなたは妹と結婚するのでしょう?」
「さぁ、どうかな」
「私は全てをあの子に捧げてきたの。だからあの子を、傷つけないで」
「受け入れたのは君だろう」
ルエナは、サフィールの服を掴んだ。
これ以上聞きたくない。姉の声はいつもと違う。明らかに、女を感じさせるものだった。
「シエンナ、君は私の前で泣いた。努力し全てを家に捧げ、ルエナを守ってきたのだと。私も同じだ。互いに愛人のいる両親のもとで育ち、愛など信用できなかった。ルエナを愛しいと思ったこともあったが、あれは無垢な子供に対する愛情だった。シエンナ、私は傷つき疲れ果てた君を守りたい」
「黙って」
「ルエナにはきちんと説明する。然るべき相手を探そう。伯爵家も、私が守る。だから私を受け入れて欲しい」
「それ以上は、なにも言わないで」
「シエンナ」
「あれは間違いだった。忘れてと言ったわ。全て忘れて、ルエナと結婚なさい」
「本当に君はそれを望んでいるのか?」
「私は……!」
二つの影が一つになる。ルエナはサフィールを引っ張った。
あまりにも彼が動かないので、引っ張りながら体勢を崩し、べしゃりと廊下に倒れ込む。
なんて情けないのかと思い、涙が滲んだ。
物音に気づき、扉が開く。シエンナが倒れ込んでいるルエナを見て、目を見開いている。
ゲイルは困ったように眉をひそめた。焦ってはいない。こういった状況に、慣れているのかもしれない。
「ルエナ!」
「ルエナ、これは……」
「っ、サフィ……っ、お願い、私を連れて逃げて……!」
「承知しました、お嬢さん」
サフィールは軽蔑と侮蔑の入り混じった視線を二人に向けると、ルエナを抱きあげる。
ルエナはサフィールの首に抱きついた。もう何も、見たくなかった。
誰もいない庭園に、サフィールはルエナを運んだ。
広間から漏れる灯りと陽気な音楽が、まるで別世界のできごとのように感じられる。
結婚に対する浮かれた気持ちも、ゲイルという皆の憧れである男性から愛されていたという自信も、全て失ってしまった。
二人はいつから好き合っていたのだろう。ルエナの前では、いつも通り。なにも変わらないように見えたのに。
「大丈夫か、ルエナ」
「あんまり、大丈夫じゃない、です」
「湖から落ちた時も、同じことを君は言っていたな、懐かしい」
「笑いごとじゃないですし、今は、笑うことができそうにありません」
庭園の奥にある休憩用の長椅子で、ルエナは幼子のように膝を抱える。
ドレスが乱れて、頭から金の薔薇の飾りが落ちてくる。それは石畳にぶつかって、カランと乾いた音を立てた。
「ファルセイラの薔薇、大切な髪飾りだろう」
サフィールが髪飾りを拾ってくれる。ルエナは首を振った。
「いりません、そんなもの。それがなければ、ゲイル様は私に声をかけてこなかったでしょう。こんな思いをすることも、なかったはずです」
「別の誰かと平穏に結ばれていた?」
「身の丈にあった相手と」
「君はゲイル様……ゲイルを格上だと考えている。爵位が上だから? 顔がいいから?」
「両方です」
「逆だ。ファルセイラの薔薇に、あの男は相応しくなかったんだよ、ルエナ。愛を信じない公爵閣下。あの男の両親に愛がなかったことは、皆が知っている。あの男にとって女は一夜の遊び相手。もしくは従順な家のための道具だ。ルエナ、君はただ都合がよかったんだ。大人しく従順で美しい」
「ただそれだけだったから、私は愛されなかったのでしょうね。だからお姉様に、勝てるわけがない」
「鉄の女に勝とうなんて思わなくていい。俺は昔から、あいつが嫌いだ。君を遊びに連れ出すと、まるで盗人かなにかのように俺を叱る。君の自由をあの女はいつも奪っていた」
ルエナを励ますためだろう、サフィールはシエンナを罵った。
そんな風に思っていないと、ルエナは力なく首を振る。
ただ無力で、情けないだけだ。ずっとシエンナの庇護下にいた。だが、ゲイルとの結婚は自分で選んだものだ、彼の愛情を得られた。それはルエナ自身の力だと勘違いをしていた。
そんなものは、はじめからなかったのに。
「お姉様を悪く言わないで。私よりもお姉様が魅力的だった、それだけの話です。それだけの……」
「……ゲイルが好きだったのか」
「ええ、きっと……。でも、私の感情など、子供が抱くものと同じ。優しくされたから、好きになりました。好きだと言われたから、好きだと思いました。……それだけ、です。私はお姉様を祝福してさしあげなくては」
いつから彼らの関係がはじまったのかはわからない。
けれど互いに愛情があるのなら、ルエナが選択するべきは彼らを祝うことだ。
ルエナはシエンナの幸福をいつも願っている。ゲイルと愛し合うのなら、ルエナは喜んで身を引かなくてはならない。
今はこんなに胸が痛いけれど、きっと──いつかそれは、過去になるだろう。
川の水が海に流れるように、人が死へと向かって歩いていくように。
抗っても、変えることができないものがある。
人の感情も、そのひとつだ。
「馬鹿だな。あれは浮気だ。怒れ、ルエナ。罵るんだ。君にはそれが許されている」
「できませんよ。だって私は……ずっと、お姉様に守られていたのですから。ゲイル様にも、大切にしていただきました。二人の心が変わっただけです。私に、魅力が足りなかった。それだけです」
サフィールはルエナの体を腕に抱いて、強く引き寄せる。
そしてもう一度「本当に馬鹿だな、ルエナ」と呟いた。
足音が聞こえる。顔をあげようとしたが、サフィールがルエナの頭を抱えているせいで、身動きが取れなかった。
「ルエナ! 誤解なの!」
「ルエナ、すまない」
シエンナとゲイルの声が聞こえる。
シエンナの声には焦りが滲んでいるが、ゲイルは落ち着いていた。この状況を受け入れている。彼はルエナに弁明することを諦めているように感じられた。
「なにが誤解でしょうか、シエンナさん。お久しぶりですね、覚えていますか」
「あなたは、サフィールね。どうしてルエナと一緒にいるの?」
「無事に王立軍の聖騎士に任命されまして。今日は夜会の警備をしていました。すると、よく知った顔がどこかに向かおうとしているので、道に迷ったら困ると思いまして。ルエナはよく迷いますから」
「そう。ルエナには私たちがいるから、あなたの役目は終わりよ。立ち去りなさい」
「できません。今からお二人で、浮気と裏切りの弁解をするのでしょう?」
「なんて無礼な……! あなたには関係のないことよ、サフィール!」
「ルエナが傷つくことをわかっているのに、見捨てたりはしません。俺は彼女の友人ですから」
ルエナはぱしぱしと、サフィールの腕を叩いた。
きつく抱かれ過ぎて息が苦しい。サフィールはルエナに話をさせないつもりだ。しかしルエナは、ただ黙っているのは嫌だった。
彼らを罵らないルエナをサフィールは馬鹿だと言ったが、怒りや悲しみがないわけではない。
ルエナの大切な時間を、結婚相手や恋人を探すための貴重な学生時代を──彼らは隠しごとをして奪ったのだから。
サフィールの腕が緩み、ルエナは彼の腕の中から顔を出す。
シエンナはルエナから視線を逸らし、ゲイルは居心地が悪そうに腕を組んだ。
「お姉様とゲイル様は愛し合っている。それはよくわかりました。言いわけがあるのでしたら、聞いてさしあげます」
精一杯、怒りに満ちた声でルエナは言う。声が震えないように、情けない姿を見せないように、できるだけ気丈に振る舞った。なにもかも、シエンナに負けて、泣いて逃げることだけはしたくない。
先程は逃げてしまった。だから、二度もそんな姿を見せたくなかった。
「半年前、私は君との結婚を承諾させるため、シエンナの元に向かった。そこで彼女は……君ばかり幸せになるのはずるいと言って、泣いたんだ。学生時代に私はシエンナに求婚したことがある。彼女の聡明さと強さに惹かれていた。だが、断られた。君との結婚は、そのことに対するあてつけか、と言って」
そんなことを、ルエナは知らなかった。
シエンナは一言も言わなかったし、ゲイルも、そんな様子を匂わせたことは一度もなかった。
二人で──隠していたのかと、ルエナは唇を引き結ぶ。
「あてつけだったとしても、お姉様はずっとゲイル様が嫌いだとおっしゃっていたはずです」
「ええ。そう……思っていた。本当に嫌いだったの。女好きで、軽薄で。でも……幸せそうなルエナを見ていたら、本当はその場所は私のものだったかもしれないと考えてしまった」
シエンナの瞳が潤む。泣いたことのない鉄の女の目に、涙が浮かんだ。
どうして泣くのかと、ルエナは思う。
泣きたいのは、ルエナだ。
「ルエナ、ごめんなさい。私は……あなたを憎んでいたのかもしれない。全てあなたのためと思っていたの。あなたを守るのは私の役目。でも、ゲイルに愛されるあなたが、本当は羨ましかった」
「それで?」
冷たく、ルエナは言う。
きつくサフィールの腕を掴む。彼は心底呆れたように、二人を眺めていた。
「過ちは、一度きりだ。口づけただけだ、ルエナ」
「私は忘れてとゲイルに言ったわ。ルエナとの結婚も認めた。あの日のことは忘れた。それなのに」
「気持ちを隠して結婚しても、不幸になるだけだ。シエンナは私を避けて、ルエナとの結婚をおしすすめようとしていた。私は本当にそれでいいのかと、彼女に最後に尋ねたかった」
それが先程見たものかと、ルエナはサフィールの腕を掴んでいる手に力を込める。
「私は、拒絶したわ。あなたのためよ、ルエナ。それを、ゲイルが無理やり……!」
「無理やり? あぁ、そうか。無理やり、か。よくわかった。ルエナ、私とシエンナの間にはもうなにもない。だから」
「だからなんだというのですか、ゲイル様」
ルエナははじめて、ゲイルを睨みつけた。
彼は困ったように眉を寄せる。子供をあやすような表情だった。まるでルエナが我儘を言っているとでもいうような態度に、彼に対する思慕が萎んでいくのを感じた。
「私の結婚相手は君だ、ルエナ」
「こんな話を聞いて、このような光景を見て、ゲイル様と共にいられるとお思いですか?」
「すまない、ルエナ。……私が嫌だというのなら、君のことは諦めよう。君は若くて魅力的なファルセイラの薔薇。もっとよい相手がほかに沢山いるだろう」
「ルエナ……ごめんなさい。でも信じて。私は本当に、あなたの幸せを願っているのよ」
ふざけないで──と、ルエナは思う。
これではまるで、ルエナが駄々をこねて、ゲイルとの結婚を拒否しているようではないか。
浮気を、したくせに。
かつてルエナはゲイルに父と義母の話をしたことがある。
体だけの関係なら耐えられるが、心が奪われてしまったら、それはとても辛いことだと。
心がルエナだけにない人と、どうして結婚したいと思えるのだろう。
シエンナには確かに世話になった。大切にしてもらった。
裏切られたが、シエンナが好きだ。尊敬しているのは変わらない。
同じように、ゲイルのことも嫌いになれない。長く続いた関係の中で、嘘ではない瞬間もきっとあっただろう。
ただ、半年も──いや、もっと前からずっと、二人の関係について嘘をつかれていたのだ。
なにも感情がなければ言えばいい。それができなかったということは、愛情や思慕が確かにそこにあったのだろう。
まるで道化だ。馬鹿馬鹿しい。なんのためにゲイルと共に時間を過ごし、なんのために浮かれて、なんのために恋をしたのか。
シエンナは不幸に溺れている。
ゲイルが嫌いだと言い、女性としての幸せを馬鹿にし嫌悪する。
それは義母と父の浮気を疑っているからだ。シエンナは、ルエナのように義母と話さえしようとしない。
ルエナも義母と父は愛という感情で繋がったのかと、思ったことは確かにある。
けれどそれは違うと今は思う。
義母は浮気などしていない。父と義母の間にあったのは、母を通した信頼だった。
そんなこと、義母と話し、その人となりを知ればわかる。
義母は──母を心底愛していたのだ。いつも母のことを語るとき、義母の言葉は愛おしさに満ちていた。
それをシエンナは認めなかった。浮気だと決めつけて、義母を嫌い続けている。
自分だけが不幸だと思い込んで、ルエナを守るために生きると、勝手に決めている。
シエンナが好きだけれど、大嫌いだとはじめて感じる。
ルエナは長椅子から立ちあがる。
二人の大人たちを見あげて、ファルセイラの薔薇らしく微笑んだ。
「お姉様とゲイル様を私は祝福します。よい考えがあるのです。私がシャルディネ家を継ぎましょう。よい婿を探します。お姉様は公爵家に嫁いでください。ええ、それがいいわ。お姉様はずっと頑張ってきたのですから、どうぞ幸せになってください」
それは──長い間考えてきたことだった。
ルエナが嫁げば、シエンナは義母を追い出すかもしれない。
彼女はただ、母を愛し、父を大切にし、シャルディネ家を守ろうとしてくれただけなのに。
子が産まれなかったのは、本当は義母と父には男女の関係がなかったからかもしれない。
どうしても、そうならなかったのではないかと、ルエナは思っている。
父は母を愛していたし、義母もまた、母を愛していたからだ。
だからルエナがシャルディネ家に残る。婿をとるのだから、シエンナとルエナ、どちらが家に残っても同じことだろう。
「ルエナ、なにを言って……」
「だってそうでしょう? 公爵は長男ですし、一人息子です。ですから、公爵家から出るわけにはいきません。愛し合っているのなら、お姉様が嫁いでください。可哀想な私のためにも。いいですね、ゲイル様」
「私は嫁いだりしないわ、ルエナ」
「いい加減に素直になれ、シエンナ。……それでいいのか、ルエナ」
「もちろん。おかしいと思っていました。女好きの公爵様が、私には触れてくださらないこと。大切にしてくださっているのだろうと考えていましたが、公爵様はずっとお姉様が好きだったのですね」
なんと子供じみた男だろうかと、ルエナは思う。
学生時代にシエンナに求婚していたゲイルは、シエンナを諦められなかったのだ。
だからあてつけのようにルエナに近づいた。
ルエナと愛し合うふりをして、シエンナに嫉妬でもさせたかったのか、それとも少しでもシエンナとの時間を持ちたかったのか。ともかくどちらにせよ、あまりにも幼稚だ。
愛を信じられないからといって、多くの女性を一夜で捨てるのも、よく考えたら最低な行いだろう。
「どうぞお幸せに。ただ、もう私はお二人には関わりません。関わりたくもありません。どうか、社交界で私を見かけても、話しかけないでくださいね。シャルディネ家のことは、私とお義母様に任せてください。お姉様、もう大丈夫です。私は子供ではありませんから」
そう言い捨てて──ルエナは、サフィールの手を引いた。
サフィールは小さな声で「浮気が嫌いな女と男が、浮気をするなんて」と皮肉げに呟いた。
どこに向かうのかわからないまま、ルエナは前を向いて歩き続ける。
シエンナもゲイルも追ってこない。暗闇の中で、サフィールの大きな手の感触だけが少しの安心感をルエナに与えてくれていた。
「うぅ……っ」
「ようやく泣いた」
歩きながら、視界が滲む。ぼろぼろと涙が零れてくる。
シエンナとゲイルの裏切り。彼らが好きだという感情と、大嫌いだという感情が綯交ぜになっている。
失望と、悲しみと、決別を継げてしまった恐ろしさ。怒りよりも、なにかおおきなものを失ってしまったという喪失感が勝った。
「大丈夫か、ルエナ」
「あんまり、大丈夫じゃない、です」
「もう三十歳にもなろうという大人たちがよってたかって君をいじめて、まったく可哀想に」
「サフィール様、こんなときぐらい、真面目に話せないのですか」
サフィールは足を止める。
薔薇の匂いが濃い。いつの間にか、庭園の奥に迷い込んでいた。月明りしか届かない場所に置いていかれたら、ルエナは朝まで庭園から出ることができないだろう。
唐突に怖くなり、サフィールの手を握る手に力を込める。
その手を強く引かれて、抱きしめられた。
さわさわと、薔薇の生垣が風に揺れている。サフィールは手にしていた薔薇の髪飾りを、ルエナの髪に丁寧に戻した。
「ファルセイラの薔薇、無意味などと思うな。それは君に与えられた称号だ。シエンナではなく、君に」
「ですが……私は、失ってしまいました。家族も、はじめて好きになった人も」
「失ったものは戻らないが、新しく得ることはできる。本当にあの女は……最悪だ。学生時代にさっさとゲイルと結婚してくれていたら、こんなに遠回りをすることもなかっただろうに」
「どういうことですか?」
「俺は君が好きだ、ルエナ。ずっと昔から、君が俺をサフィちゃんと呼んでいたときから、ずっと」
ルエナは目を見開いた。こんなに混乱しているのに、サフィールまでなにを言うのかと、彼を責めるように睨みつける。
サフィールは、いつもの笑みを浮かべていなかった。
その瞳は怖いぐらいに真剣だった。月のように輝き、真っすぐにルエナを見つめている。
「君が好きだから結婚したいと、シエンナに何度か伝えた。求婚の手紙は握りつぶされ、侯爵家の次男などにルエナは渡せないと冷たく言われた。君の人生を、あの女はずっと支配していたんだ。そのくせ、君からゲイルを奪った。本当に、どうしようもない。俺はあの女が大嫌いだよ」
「嘘、ですよね。冗談を」
「この状況で冗談が言えると思うか? 君がゲイルと恋仲になったという噂を聞いて、どれだけ苦しんだか。あんな女好きに君は相応しくない。だが、君を傷つけるのも嫌だった。友人でいられればそれで……と、自分に言い聞かせていた。だがそれももう、終わりだ」
サフィールは、ルエナの両手を優しくとる。
ルエナの滲んだ視界に、サフィールの精悍な顔が映っている。
「ルエナ、俺は君の傍にいたい。湖から落ちたり、道に迷ったり、なにもない場所で転んだり、噴水の傍でぼんやりしている君のことが、俺は好きだ。ファルセイラの薔薇が少し間抜けだと知っているのは、俺だけだ」
「それは褒めていません」
「俺にとっては君の全てが可愛いくて愛しいと言っているつもりだけど、伝わらなかった?」
「伝わりません、これっぽっちも、ぜんぜん、まったく!」
ルエナはサフィールの背中に手を回す。
くすくす笑いながら彼の胸に顔を押しつけると、鼓動が伝わってくる。
今はまだ新しい恋について考えられそうにないけれど、サフィールと歩む人生はきっと楽しいだろうと、強く思った。
◇
学園を卒業したルエナは、心の傷など忘れてしまうぐらいに多忙だった。
まだ結婚する気はなかったのだが、サフィールに押し切られる形で彼を婿にすることになったのだ。
「私は、あなたが好きかどうか、まだわからないです」
「愛はあとからついてくるのだろう。まずは結婚だと、君が言ったんだ」
などと言われてしまっては、断ることはできない。サフィールは長年の付き合いから、どこを押せばルエナが弱いのかをよく知っていた。
サフィールの両親や兄への挨拶、義母や家の者たちへの説明や、シエンナに持たせる支度金などの準備で慌ただしく。そしてなにより、毎日部屋にこもって泣いているシエンナの世話をする必要があった。彼女はルエナ以外には会いたがらず、とても大変だった。
シエンナは伯爵家を守ってきたのは自分だと、ここから去りたくないと何度も言った。
ルエナに、嫌わないでと縋るような有様で、大きな子供の面倒を見ているような気持ちになった。
シエンナも、ずっと我慢をしてきたのだろう。だが、だとしても──ルエナは彼女の言うことをきくつもりはもうなかった。
怒りと嫉妬を抱えて我慢を重ねながら伯爵家を守っても、シエンナも周りも不幸になるばかりだ。
シエンナは愛する人の元に行くべきだ。幸いにしてゲイルは、いつでもシエンナを受け入れるつもりがあるようだった。
どうしてかルエナがゲイルと手紙のやりとりをし、シエンナを嫁がせる日を決めた。
シエンナを公爵家に送り出すと──シャルディネ伯爵家は、奇妙な安堵に満ちた。
義母も使用人たちも、シエンナがいなくなったことに、どこかほっとしているようだった。
シエンナは有能で仕事熱心だったが、彼女がいるだけで家の中に息が詰まるような緊張感が、確かにずっと漂っていたのだ。
ルエナはサフィールを婿に迎えて、伯爵家を彼に継いでもらう許可を得るために王家に手紙を送った。すると、王妃から登城するようにという返事がきた。
「ゲイルも愚かなことをしたわね。私の可愛いファルセイラの薔薇を傷つけ、捨てるなんて」
結婚の挨拶も兼ねてサフィールと共に王妃の元に向かうと、彼女は底冷えのするような冷たい声で吐き捨てるように言った。
彼女はルエナよりもサフィールよりも、よほど此度の顛末について怒っているようだった。
「遊びまわるのはやめて、いい加減に身を固めなさいと確かに私はあの子に言ったわ。ルエナに目をつけたようだから、私の可愛い薔薇を大切になさい、とも伝えたのよ。それなのに、こんなことになるなんて」
「王妃様、ありがとうございます。それほど気にかけてくださっていたのですね」
「ファルセイラの薔薇に選んだ令嬢は、私の娘のようなもの。ゲイルがシエンナを気にしていることは知っていたから、あんな女はやめなさいと忠告もしたのよ。貴族の女としての義務を、くだらないと言うのは簡単だわ。でもね、義務を拒絶するよりも、義務を果たすほうがよほど、苦しいのよ。見知らぬ相手に嫁いで子を産むために、己を磨く。それを馬鹿にするようなことを皆の前で口にするのは、強さではない。ただの恥知らずよ」
「王妃様、もうしわけありません。それに頷いてしまうと、姉を否定することになってしまいます」
「ルエナ、強い子ね。私に対して怯えずに言葉を口にする子は、本当に珍しいのよ」
王妃は愉快そうに笑う。ルエナはサフィールと顔を見合わせる。お叱りを受けても仕方ないという覚悟で、今の言葉は口にしたのだ。
王妃は咎めもせずに、楽しそうにしている。
「太陽の騎士サフィール、ルエナを幸せになさい。これは命令よ。私はファルセイラの薔薇と、シャルディネ伯爵家を支援するわ。なにかあったら私を頼りなさい」
「ありがとうございます、王妃様。この命に代えても、必ずルエナを幸せにします」
「サフィール様、命に代えてしまったら、あなたが死んでしまうということですよ。そうしたら、私は幸せになりません」
「あぁ、そういえばそうか」
ルエナが指摘すると、サフィールは照れたように笑う。
それがとても可愛らしくて、ルエナは彼を見あげて微笑んだ。
「ふふ、なんて可愛いのかしら! いいこと、結婚式はとびきり華やかになさいな。若い二人を、王家も心から祝福するわ。私の息子も、サフィールをとても信頼しているのよ。サフィールの初恋が実ったことを喜んでいるわ」
「ええ、まぁ……その、王子殿下には、おめでとうと言って、すでに頭から酒をかけられています」
「あの子はゲイルが嫌いだから、余計に嬉しいのね。一つだけ伝えておくわね、ルエナ。あなたと結婚していたら、ゲイルはきっと幸せになっていたでしょう。けれど……シエンナを妻にして、あの子が耐えられるか、見ものだと思っているわ」
王妃は、見ものだと言う割に、つまらなそうに続ける。
「ゲイルは自尊心が高いから、シエンナに一度振られたことが許せなかったのでしょう。だから、どうしても手に入れたかった。でも……それは果たして、愛かしら。そんな気持ちが長く続くかしら。どちらにせよ、あなたたちにはもう関係のないこと。二人で幸せになりなさい」
幸せは、誰かが運んでくるものではない。
自分の手で掴み取るものなのだから──と、王妃は最後に口にした。
ルエナはなにも言えなかった。シエンナの不幸を望んだりはしない。
サフィールは謁見の間を退出したあと「怖い人だけど、よく人を見ている」と、身震いした。
「それにしても、サフィール様。王子殿下に、初恋の話を?」
「あー……ばれたか」
「王妃様がおっしゃっていましたから」
「どうして言ってしまうのだろうか。俺の恥ずかしい話を」
「サフィール様も恥ずかしいと感じることがあるのですね」
「それは、あるよ。王子殿下には、どうして女性と二人きりで食事さえしようとしないのかと聞かれてね。ずっと昔から好きな人がいる。彼女に求婚できる立場になりたくて、聖騎士団長を目指していると言ってしまったんだ。そこから、根掘り葉掘り」
城から出て、馬車停めまでの長い階段を、ルエナはサフィールに手を引かれて歩く。
「話したのですか?」
「王子殿下は、俺の次に君のことをよく知っているのではないかな。俺が話したから」
「どんな顔で、次から殿下に会えばいいのでしょうか……」
「会わなくていい。君は顔のいい男が好きだろう。だから、会わせたくない」
「それはサフィール様の思い違いですよ。だって、よく知らない相手を判断するのは、容姿と家柄と噂ぐらいしかないでしょう? 丁寧に磨かれた外見をした方を褒めるのは、ごく自然なことです」
面食いだと思われていたのかと、ルエナは苦笑した。
別に、見栄えのよい男性が好きというわけではない。年上に対する憧れも、失ってしまった父の面影を探しているだけだと、ゲイルに浮気をされてから気づいた。
ゲイルは、家族を心から愛してくれていた父とは全く違うけれど。
「そうなのか。俺はずっと、ゲイルのような男が好きなのかと。俺は筋肉をつけすぎたかなと、後悔を」
「ふふ、昔のサフィちゃんは可愛かったですけれど、今のサフィール様は男らしくて素敵ですよ」
「あ、あぁ、そう……そうかな。うん、それなら頑張ってよかった。もっと鍛えよう」
「私のために?」
「君から好かれるために。結婚が先、愛はあとからついてくる。そういうものだとしても、愛される努力は惜しまない。俺はルエナに好かれたい」
「私は……あなたが好きです」
サフィールは、ルエナに好意を伝え続けてくれている。
ルエナの話を聞き、悩みを時には冗談に変え、時には真摯な言葉で励ましてくれる。
彼は──ルエナを否定しない。同じ目線で考え、同じように悩み、一緒に答えを出そうとしてくれる。
サフィールがルエナを家から連れ出してくれたのは、それは大抵、ルエナが落ち込んでいた時だった。
彼はいつも、ルエナを見てくれていた。そして──苦しい時ほど、傍にいようとしてくれた。
「本当に?」
「冗談なんて、言いませんよ。あなたが好きです、サフィール様」
「ルエナ!」
サフィールは、階段の中腹でルエナを抱きあげる。
ルエナは笑いながら「危ないですよ」と、彼の首に抱きついた。
ひと時──ルエナがシエンナからシャルディネ伯爵家を奪ったのだという噂が、実しやかに流れた。
シエンナが伯爵家から追い出されたといって騒いでいるらしい。
妹はゲイルからサフィールに心変わりした。大切にしていた妹に裏切られたのだと。
ルエナは、シエンナがそんなことを言うなんて、信じられなかった。
だからあえてその噂を追求したりはせずに、成り行きに身を任せていた。
やがてその噂も消えた。サフィールの話では、王妃が皆の前で噂を否定して「私の薔薇を悪く言うのは許さない」と言ったらしい。ゲイルも「心変わりしたのは私だ」と、皆に言ってくれていたようだ。
シエンナは、公爵家に嫁いだ日もまだ心が不安定だったから、きっと未だ混乱しているのだろう。
それから数年後──公爵家には子供ができず、ゲイルの女遊びの噂がルエナの耳にも入ってきた。
けれど、シエンナから連絡が来ることはなかった。
ルエナはシエンナが助けてと言わない限りは、関わらないことにした。
シエンナのことはよく理解している。ルエナがなにを言っても、余計な世話だと突っぱねるだけだろう。
シャルディネ伯爵家では、穏やかな時間が流れている。
義母は働き者で、父から教わったという領地経営の手腕も確かで、ルエナをよく支えてくれている。
サフィールとの間に二人子が産まれ、彼女はどちらも血が繋がった孫のように可愛がってくれている。
サフィールはその働きが認められ、王子殿下の側近になっている。
そろそろ引退して伯爵として仕事をしたいと言っているようだが、離してもらえないそうだ。
ルエナは、貴族女性としてのありきたりな幸せを手に入れている。
少し変わっていることと言えば、時折王妃に呼ばれて茶会の相手をすることだろうか。
彼女はルエナをとても気に入って、話相手にしたがった。
今年のファルセイラの薔薇は誰がいいかと相談を受けながら、ルエナは時々考える。
ファルセイラの薔薇に選ばれたことを心から喜んでくれたのは、義母だけだった。
シエンナは、とても苛立っていた。
その苛立ちは、ファルセイラの薔薇という制度が嫌いだからだと、ルエナは思っていた。
けれど、本当は。
あの時もシエンナは──羨ましかったのではないか、と。
お読みくださりありがとうございました!
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります、よろしくお願いします。




