9.見覚えのない友人
わたしはクローゼットを開けて、ベージュのアンサンブルニットと膝丈のフレアスカートを引っ張りだした。トップもボトムスも保守的なカジュアル。足元には(令和の感覚では)レトロかわいいTストラップパンプスを合わせる。
鏡に向き合ってから、いつものように〈顔〉を作る。手は迷いなくメイクポーチからいつものメイクセットを抜き取り、机の上に並べた。平日はパンツスーツに合わせてルージュを濃くするが、今回は服装に合わせてブラウンに寄せた。頬も淡く、やわらかい色合いにする。
駅前の喫茶店は、思い出したとおりの場所にあった。
入口のガラスに、自分の姿が映る。表情が少し硬い。口角をほんの少し持ち上げてから、扉を押した。
店内を一目見て思い出す。わたしは、ここに来たことがある。澪と一緒に、何度も来た。
(そう、来たことになっている)
そう切り分けて、席を探す。窓際の奥。入口から見えにくい角の二人席に、女性が座っていた。
明るいオレンジのトップスにブーツカットのデニム。強めのグロス。澪がいるだけで、店内の空気が一段軽くなる。わたしの顔を見つけると、ぱっと表情がほどけた。
「扇衣~! こっちこっち!」
「澪! 久しぶりね」
返事は咄嗟に出た。
尾串 澪は、ぶんぶんと手を振った。
「遅いよぉ。寝てたの?」
わたしは笑ってしまった。
「澪が早過ぎるの。遅刻してないでしょ?」
澪はわたしを見て、少しだけ眉を下げた。
「なぁんか疲れてない? 仕事しんどい?」
「そんなによ。まだ新年度だし」
口に出した途端、思い出す。いつ、どこで、何を言ったか。その時のコーヒーの苦みまで、たった今作られた嘘の記憶が、わたしの脳髄に具体的な重さを持って根を張っていく。忙しさを一緒に愚痴った記憶が、ダウンロードされる。
わたしはそれを、表情には出さない。澪はにっこりと笑って、メニューを手に取った。
「いつものでいいよね?」
「うん」
わたしの口が勝手にそう言った。何を頼まれるかはもうわかっていた。砂糖たっぷりのミルクティー。
注文を通すやいなや、澪は手を組んでいたずらっぽくこちらを見つめた。
「で。最近どう? 彼氏はできた?」
わたしは言葉に詰まったが、すぐに軽い調子を取り戻す。
「ぜーんぜん!」
「ふーん。じゃ、まだ仕事優先ってわけ?」
「まあね。異動もあったし」
「異動?」
澪が目を丸くする。
「宣伝部に異動したの」
「あんた、宣伝とかやるタイプだっけ?」
澪の軽い言い振りで、また思い出す。「扇衣は昔から文章がうまかった」「人前に出るのが苦手じゃなかった」という説明がすぐ生まれる。自分の過去が、勝手に整えられていく。
わたしは、椅子の座り方を少し変えて、小さく呼吸を整えた。
「うーん……。ボーナスは少なくなっちゃうかもね」
バブルが弾けた後ではあったが、堅実な会社だったから、経営は傾かなかった。成果さえ出していれば、女性でもたっぷりとボーナスを出してくれた。当時の空気感がうっすら残っていたからか、営業部は特に羽振りがよかったが、わたしはその額が気に入らなかった。
「どうしてボーナスがこれっぽっちなんですか?」
そう言って、ほんのり膨らんだ――明け透けにいえば四十五万円が納められた――封筒を立てるように置く。当然パタリと倒れたそれを指差して、わたしは言い放ったものだ。
「ホラ、見てください。倒れちゃいました。こんなのってないです。あんまりですよ!」
当時の上司は苦笑いしていた。そして、わたしは営業部から宣伝部に飛ばされた。左遷ではない。ただ、わたしが正論で上司を殴りすぎただけだ。たぶん。
そんなことを思い出していると、澪が話題を変えた。
「ていうかさ、最近、変じゃない? 連絡返すの遅いし」
「そう?」
「そうだよ~。前は、すぐ返してきたのに」
前が、具体的に浮かぶ。いつ、どんな文面で返したかまで。
「寝てることが多いかも。せっかく休日の早い時間に連絡くれてるのに、ごめんね?」
そう言うと、澪はまんざらでもなさそうに微笑む。彼女の気配りに、わたしは気づいている。だから、素直に謝る。――それが、澪の求める扇衣という存在だろうから。
「……ねえ、澪」
「なぁに?」
「わたしと澪って、どこで知り合ったんだっけ」
澪は、きょとんとした。
「何それ。高校でしょ。ホラ、入学式の日、廊下で――」
そこまで言った瞬間、背後から声が割り込んだ。
「お待たせしました。ミルクティーと、アイスコーヒーです」
話が途切れ、二人とも無言で店員がグラスを置いていくのを見つめた。澪が話の続きを再開しようと口を開いた瞬間、今度は短い着信音が鳴った。
澪の携帯だった。画面を見て、小さく舌を出す。
「ごめん、ちょっとだけ」
澪が席を外す。
わたしは、ひとりになったテーブルで、目の前に置かれたミルクティーのグラスを見つめた。まだ飲む気にはなれなかった。
澪が質問に答えようとした瞬間に、割り込むようにイベントが発生した。これは、偶然だろうか。
(それとも、補正はこういう形で来るのか)
澪が戻ってきた。
「ごめんね〜。で、どこで知り合ったんだっけ、って。何それ? 扇衣、ほんと変だよ」
澪は笑いながら、わたしの手首をきゅっと掴んだ。
「なんか悩んでる? 何かあったら言ってよね、親友なんだから」
純真な心配のこもった瞳が、わたしを射抜く。
(親友なんだから)
その言葉を聞いた瞬間に、『わたしと澪が親友である理由』が脳内に溢れ出した。高校の放課後は毎日のように遊び倒した。失恋して泣きついた夜もあった。一緒に選んだリップの色も覚えている……。
――違う、それはわたしの記憶じゃない!
頭の中で叫ぶ論理を、澪の圧倒的な共感の引力が、優しく、暴力的に塗り潰していく。
「……ううん。なんでもない。ただ、澪の言うとおりかも」
「言うとおりって?」
「ちょっと疲れてるみたい」
わたしは笑って、ミルクティーに口をつけた。
甘すぎる。次の瞬間には、『懐かしい』と思ってしまう。それはもう、完全に『わたしが一番好きなミルクティーの味』として脳に認識されていた。脳がひと足先に、この世界を本物だと認めはじめていた。
帰り際、澪が言った。
「また会おうね!」
「うん!」
わたしは手を振った。
駅へ向かう道で、さっきまでの違和感を思い出そうとする。
――思い出せない。
どうしてそんなことを考える? 澪とは昔からの親友だったじゃないか、と自分の中の常識が囁く。
(……情報源か。ゲームでは、そうだった)
わたしは歩きながら、呼吸をひとつ深くした。




