8.誰を攻略するか?
小ぶりな机に腰掛けてから、窓を開けた。どこかぬるさのある冷涼な空気がどっと流れ込んでくる。五月が近い。
鞄からノートを出して、表紙を指で撫でた。学生の頃も、社会人になってからも、同じ表紙が棚に並んでいたものだ。新品の紙の匂いがするのに、懐かしさを覚える。
ノートを開く。日付を書こうとして、やめる。日付なんて書いたら、ここがますます現実になりそうで嫌だった。
代わりに、ページのいちばん上に小さく書き込む。
『誰と、どのように関わるか』
そもそも『社内恋愛』は、コンシューマの乙女ゲームみたいに、コツコツとステータスを上げて攻略するシステムではない。むしろ、ステータスを上げるほど、恋愛フラグが潰れていくのだ。好意度や印象度を丁寧に積み上げると、誰のエンドにも行けない。取り返しのつかないバッドエンドに落ちることだってある。
直感で関係を踏み越える。
そういう選択を強制する意図がある。
確かに、恋愛はストラテジーゲームみたいに戦略をなぞるものでもなければ、段階的に条件を揃えて攻略するものでもない。どうなるかわからない不安を抱えたまま、思い切って飛び込むという偶有性がある。その点で、『社内恋愛』は、恋愛のシミュレートとしては成功したのだろう。たとえ世間の評価が得られなかったとしても。
――つまり、わたしは本当に恋愛をしなければならない。
誰ともくっつかず、ステータスをバランスよく上げた状態で迎えるエンディングは、〈昇進エンド〉だ。扇衣が仕事一筋になるノーマルエンドである。
仕事に打ち込んで、周囲から認められる。
たったそれだけのこと。
〈昇進エンド〉ルートのストーリーはお気楽に、とんとん拍子に物事が進んでいった。しかし、その裏で扇衣は一体どれほど辛酸を舐めたことだろう。
エロゲのヒロインが社会的に成功する、だなんて。
わたしは笑った。そうしたつもりだったが、力無いため息みたいな声しか出なかった。
コンプライアンスが整備された令和の価値観に馴染み、女の肉体を持ち、同じ悩みに直面したことのあるわたしをもってしても、ご都合主義だとか、リアリティがないとか、物語のノイズだと感じてしまう、このおぞましさ。
「許されるなら〈昇進エンド〉を選びたいけどね……」
このエンドだけが、ただ一つ、自分だけで完結できる。自分の能力を上げさえすれば済むからだ。誰も巻き込まない、誰の機嫌も取らない、独りよがりなプレイが許されるのは、実質この〈昇進エンド〉だけである。
だが、ノーマルエンドでは現実に帰れない可能性が残る。
『昇進は目指せない』
『グッドエンドに行くほうが、確実』
恋愛という作法に則って、人間関係を構築しなければならない。
好きになって、好きにさせて、適切なタイミングで踏み込む。
踏み込みすぎてもダメ、踏み込まなさすぎてもダメ。
しかも、選択肢が多い。四人の中から選ばなくてはいけない。
わたしは見開きを四つに区切るみたいに縦線を二つ引いた。一ページを半分ずつにして、名前を書く。
『現原』『名嘉城』『維木』『相果』
現原くんは、楽だ。言い方は悪いが、つまり反応がわかりやすい。頼っても、甘えても喜んでくれる。対応を間違えると傷ついたことを表に出すので、すぐにわかる。軌道修正もしやすい。
『現原:制御がしやすく、反応が読みやすい。』
名嘉城くんも、楽なほうだろう。ただ、現原くんとタイプは違う。わたしが何を言ってもへこたれない、という意味で楽だ。気を張らなくていい。からかわれても笑って返せばいいし、強く出てしまっても気軽にいなしてくれる。仕事の話も通じる。真剣な話はしにくいが、変な空気にはならない。
『名嘉城:折衝ができる。仕事仲間としての距離を維持できる。』
わたしは、少し眉を寄せた。
「もし、帰れなかったら……」
そのことも、考えておかなければならない。
もし帰れなかった場合、くっついて安泰なのは維木課長だろう。会社の中での立場が強いし、昇進ルートに乗っている。生活の安定という意味では確実だ。恋愛相手ではなく、現実の結婚相手としては、最適。
でも、維木課長はどうにも読めない。こちらの言葉に対して反応が薄い。好感度や依存度が数字が動いているかどうかすら、確信が持てない。
『維木:フィードバックが弱い。ブラックボックス。エンド後の生活保障が強い。』
そこまで書いて、手が止まる。
相果主任の欄は、依然として空白だ。
〈せんぱい〉。
ゲームの中で、いちばん刺さったのは相果主任だ。だが、彼はグッドエンドの難易度が高い。初見ではまず到達できない、繊細なステータス管理を要する。
――絶対に避けるべきだ。
確かに、わたしは初見とは言えない。攻略情報を知っている。だが、詳細のすべてを完璧に覚えているわけじゃない。攻略通りにわたしや相果主任が動いてくれる保証はどこにもないのだ。
「はぁ……」
わたしはペンを置いて、片手で額を押さえた。
(たったそれだけの理由で、拒絶してもいいの?)
帰るためだから、と自分に言い訳をしても、彼らはこの世界に生きていて、わたしがやっているのは人間関係だ。
一目見て刺さったから。顔がいいから。声がいいから。手がいいから。性格が合うから。
(そうやって人間を選ぶの? 骨董品を吟味するコレクターみたいに?)
それに。
二〇〇〇年代初頭といえば、わたしはまだ保育園に通っていたのだ。彼らは二十代から三十代の若者である。つまり、彼らはだいたい父と同じくらいの――。
そこまで考えて、こめかみがじくじく痛んできた。余計な方向に思考が滑っていく感じがする。わたしはページをちぎり取って、念入りに引き裂いた。指の隙間から、細い紙屑がぱらぱらと落ちていく。
やめよう。今のわたしも同年代だ。
そういうことにしておく。そうでなければやっていけない。ここはゲームで、わたしはこの身体で生きている。わたしの現実を持ち込んだら、正気でいられなくなりそうだ。
ページのちぎり取れなかった切れ端を丁寧に取り除いてから、ノートを閉じる。
そのとき、鞄の中で携帯が震えた。折りたたみ式のガラケーは、わたしが持っていたスマホよりもずいぶん軽い気がする。
メールの新着通知が一件。件名は短い。
『件名:久しぶり~』
差出人の名前を見て、わたしは首を傾げた。
――尾串澪。
こんなひと知らない――と思った瞬間に、思い出す。「澪は明るくて、気の利くいい子だ」「絵文字をたっぷり使う」と、尾串澪の細部が勝手に揃っていく。
ひやりとした。
(知ってる。親友だ。――扇衣の)
メールの本文は、明るかった。
『久しぶり~! 11時に例の喫茶店で会いたいな~。どう?』
例の喫茶店……? ――駅前の喫茶店だ。ミルクティーが絶品の。入口から見えにくい角の、窓際の二人席を選ぶことが多かった。
「……」
わたしは携帯を握り直して、返信を打った。
『オッケー、わかった! 11時に行くね~!』
送信ボタンを押した直後、なぜだかホッとした。
何かが正常に戻ったような感覚があった。




