7.姉だったはずの妹
人の流れに押されるように電車から降りると、ちょうど夕食時らしく、うどん出汁や揚げ物のいい香りが漂ってきた。令和には液晶ディスプレイで統一されている案内表示は、パタパタと鳴る懐かしい反転フラップ式だ。これはいつまで残っていたのだろう。そんなことを考えながら階段を昇り、改札の列の最後につく。ICカードの読み取りを告げる短い電子音を置き去りに、歩く速度を速める。
喧騒を抜けて住宅街に入る頃には、日はほとんど沈んでいた。狭い歩道を折れるといっそう静かで、ヒールの足音が余計に大きく聞こえる。
ほどなく、目的地に着いた。四階建てのマンションだ。エントランスの手前で暗証番号を入力すると、重いガラス扉が左右に開いた。エレベーターのボタンを押す前に、一度だけ背後に視線をやる。誰もいなかった。そのままエレベーターに乗り込んで、4のボタンを押す。
エレベーターから降り、外廊下に出ると、柔軟剤の匂いが流れてくる。部屋の鍵を開けて中に入る。電気は、すでに点いていた。
「ただいまー」
部屋の奥へ知らせるように声を張る。何の気なしに言ってしまってから、首を傾げた。今の「ただいま」は、誰に対して?
答えはすぐにわかった。せいぜい三足しか置けない玄関でヒールを脱いでいると、のんびりとした声が飛んできた。
「お姉ちゃん、おかえり~」
お姉ちゃん。
その言葉で、記憶がじわりと上書きされた気がした。いや、気のせいだ。わたしは覚えている。
(……わたしに妹はいない)
わたしの姉妹は、十二歳上の姉だ。それなのに、この世界にいるのは五歳下の妹だ。大学へ通うのに都合がいいから、という理由でわたしの家に転がり込んできた。今年で、大学三年生になる。同じなのは、二人きりの姉妹、という設定だけだ。
上着を脱ぎ、カバンを放って、洗面所のメイク落としを探し当てた。慣れた手つきで化粧を落とし、顔を洗う。
洗面所の鏡越しにひょいと顔を出した女は、肩にかかるくらいの髪を雑に括って、オーバーサイズのTシャツを一枚羽織っていた。Tシャツの下から素足が覗いていて、わたしは眉をひそめた。タオルで顔の水気を取りながら、ほんの軽口のつもりで口を開いた。
「家でもズボンは履けって言ってるでしょ、螢」
「しょうがないじゃん。コンロの前、暑いんだもん」
「待って。ウソでしょ。ほんとに履いてないわけ?」
「知りませーん」
螢はそう言いながら、ひらりと身を翻してしまう。
わたしは息を吐き、螢の後を追うようにリビングへ入った。洗顔用のヘアバンドを外すと、ダークブラウンの紙がさらりと胸元に落ちる。それを背中に払いのけながら、ソファに腰を下ろした。
広くはない部屋だ。1LDKだが、女の二人暮らしには充分。ローテーブルの上に、読みかけの文庫本と、漫画と、通販のカタログと、チラシが雑多に置かれている。チラシを捨てようと手に取ると、その下からテレビのリモコンが出てきた。
何となくテレビをつける。テレビはまだ厚みがあるブラウン管だった。ガラスの扉がついた小ぶりのテレビ台にはDVDプレーヤーとCDラジカセが収められている。
「ねえ、夕飯どうする? 食べるなら余分に作るけど?」
「お願いしようかな」
「りょーかい。お姉ちゃん、なんか疲れてそうだよね。顔に出てるよ」
「そうねえ……」
今日の仕事は、さっさと切り上げた。
新商品のプロモーション契約を検討している制作会社が、着手金を要求してきた。よくあることだが、初回取引のため支払い実績がない。しかも大口案件ときた。規程上は前払不可で、経理は頑として肯かない。法務も「通すなら根拠を出せ」の一点張りだ。
むろん、彼らは番人として当たり前のことをやっているのだから、それ自体にケチをつける気はない。不毛なラリーを繰り返すよりも、案件の決裁者を叩……説得することにしただけだ。
こういう手合いは営業のときに散々やった。その経験を買われて、維木課長から窓口に指名されたというわけだ。
……ゲームの都合で用意された揉め事にも思えるが、それは考えないことにする。いずれにせよ、わたしが適任であることには違いなかった。
「別に、いつものことよ。わたしが他部署の調整に動いたってわけ」
「お姉ちゃんの仕事じゃなくない?」
「わたしがやるほうが早いのよ」
「ふーん。時間のムダだね」
螢は鼻で笑いながら、フライパンを火にかけた。この子は変に共感や同情をしてこない。大学で同年代とうまくやれているのか心配になるほどのドライさだが、わたしにはちょうどいい。
「ま、お姉ちゃんはそうやって自分で抱え込むんだろうけどさ。揉め事にはあんまり近寄らないほうがいいよ。色恋絡みとかさ」
「色恋ねえ……」
「やらなきゃいけないってわけでもないでしょ。……はい。先にこれ食べといて」
差し出されたのは、何の飾り気もない卵焼きだ。
私は椅子に座って、箸を取った。
「螢」
「なに」
「あんたのそういうところ、すごく好きよ」
「はあ? いきなりなに言ってんの。さっさと食べなよ」
螢が一瞬、真っ直ぐこっちを見て、すぐに視線を逸らした。
卵焼きを一口頬張る。砂糖のたっぷり入った、甘い卵焼きだった。安堵にも似た感覚に、「ああ、螢がつくるいつものやつだな」という記憶が蘇ってくる。味覚というごまかしの利かない感覚が、わたしをこの世界の〈姉〉という役割に縛り付けてくるみたいだ。
その甘さを少しずつ噛み砕く。飲み込むたび、この穏やかな世界に同期していくようだった。
その姿が卵焼きを味わっているように見えたのだろう、「今日はいやに丁寧に食べるじゃん」と螢は言った。どこか嬉しそうだった。




