6.女同士の探り合い
残業もなかったので、定時に上がった。外に出ても、まだ日が沈んでいないとは。
せっかくだから、と本屋に寄って、ノートを一冊買った。
記憶がすり替わる前に、この世界がゲームであるというメタな情報を残しておかないといけない。そうしなければ、わたし自身の過去を忘れてしまうかもしれない。忘れるだけならまだいい。記憶がこの世界に最適化していったらおしまいだ。気づきようがない。
そんなことを考えながら、駅前のカフェに入る。席について早々に平袋を開け、買ったばかりのノートを取り出した。万年筆を握ったはいいものの、何から書けばいいのか迷ってしまって、表紙をじっと見つめた。
「……懐かしいな」
何の変哲もない、B5サイズのノートだ。だが、そのシンプルな表紙を見るだけで、鼻の奥がツンとしてくる。こんな世界に迷い込むずっと前から愛用してきたノートだった。昭和から令和に入ってもなおデザインが変わらないブランドだ。
「あら。扇衣ちゃん?」
名を呼ばれて、パッと顔を上げる。そこには、背筋を伸ばした女性が立っていた。黒のボブヘアを耳にかけ、眉をきっちり引いて、チークはやや濃い。口紅はローズ系だ。
加藤 光胡。同じ宣伝部に所属する、事務のベテラン女性社員である。薄いベージュのブラウスに木炭色の膝丈タイトスカート。肌色ストッキングに黒のポインテッドトゥ。帰宅途中なのだろう、見慣れた格好をしている。
わたしは両手を振ってみせた。
「光胡さん! おつかれさまです~」
「ええ、お疲れさま」
光胡さんは断りも入れず、わたしの向かいに座った。
不躾だが想定内である。わたしは、光胡さんが長居することを前提に問う。
「お飲み物は何にされます?」
「アイスコーヒーをいただける?」
「はい!」
わたしは周囲を見渡し、「すみませーん!」と明るく声を張る。来てくれたウェイトレスにアイスコーヒーを頼んだ。場の主導権を、さりげない気配りで取りにいく。
「あ、限定のタルトがあるんですよ。光胡さんもいかがです? こちらのケーキはどれも美味しくって。いつも迷っちゃうんです」
そう言って微笑むと、ウェイトレスがはにかむ。そのようすを見て、光胡さんは笑みを深くした。
「そうね。いただこうかしら」
わたしはにこにこと完璧な笑顔を作っている。彼女を見た瞬間から。
それは、娘を見るような目で微笑む光胡さんだって同じだろう。むしろ、向こうの方がいくらか上手だ。
先手を打ったのは、光胡さんだった。
「帰るの、早いのねえ」
揶揄の色はなかった。心底そう思っているような口調だ――表面上は。
「ええ。三谷さんが早く請求書を回してくださったおかげで、今日は早く上がれたんですよ。ありがとうございます」
三谷さんは経理担当で、光胡さんの部下でもある。
「あら。私は何もしてないわよ?」
「光胡さんの采配あってこそじゃないですか」
適度な誉め言葉に、光胡さんはにっこりと笑う。
ちょうどウェイトレスがやってきた。わたしは目を輝かせ、タルトとアイスコーヒーが並べられるのを見守る。ウェイトレスが下がると、できるだけ上品にタルトを頬張った。
そして、話題は移る。
「そういえば、この前は相果くんがダブルブッキングを解消してくれたんですって? 面倒見がいい人だものねえ……」
声色に含みはなかった。当然だ。たとえ腹に黒い感情を抱えていたとしても、彼女ほど頭の回るひとが、あからさまに敵意を見せつけるような失態を犯すわけがない。
「ええ。気の利く方ですから、異動してきたばかりのわたしを気にかけてくださったんでしょう」
だから特別な関係ではありませんよ、と言外に込める。光胡さんならば、察してくれるだろう。
にこやかに答えつつ、内心では複雑だった。
先のダブルブッキングは、厳密には現原くんのミスだった。だが、光胡さんの目からは、主任がわたしを助けたように見えたのだろう。客観的事実よりも、彼女がそう受け取ったという事実のほうがよほど重要である。
あのとき、わたしが頭をひとつ下げれば場は収まったはずだ。陰で何を言われてもいい。それよりも嫌なのは、社内で影響力を持つ女性に敵視されることだ。
そのあとは、どこそこに新しいカフェができたといった他愛のない話が続いた。雑談に替わっても、最後まで気が抜けなかった。彼女に睨まれて退職なんて羽目になったら最悪だ。現実に帰れなくなるかもしれないのだから。
光胡さんの姿が見えなくなったのを確認してから、そっと背もたれに身を預ける。そうして深く息を吐いた。
ぱち、と手のひらで軽く自分の頬を打った。手のひらを頬に添えたまま、ぽつりとつぶやく。
「ま、こんなものかな」
ガラス窓に、自分の姿が映っている。ひどく無表情な目がこちらを見ていた。ガラスの中のわたしからは、もう笑顔の仮面がはがれていた。
「気を抜くには早いか。……ふふ。かわいい顔が台無し」
頬杖をつきながら、親指と人差し指で口角をぐっと上げる。いくらか見られる顔になった。




