5.決して見てはならない
相果 融が彼女を初めて見たのは、新卒の入社式だった。
派手好きではないが、おしゃれな人だった。暗めの茶髪を毛先にかけて内巻きにしたハイレイヤーカットにしていて、彼女が動くたび毛先が揺れた。濃いルージュの口紅がよく似合っていた。
彼女――形桐 扇衣を含め、三人の女性が総合職で入社した。総合職とは、企画立案といった基幹業務を行う職種のことだ。転勤もあるので、女性は事務などの一般職を選ぶのが普通だった。夫の転勤に付き合う妻はいても、妻の転勤に付き合う夫はほとんどいない。
つまるところ、総合職に抜擢される女性は珍しい。それで、顔を覚えていた。――最悪の覚え方だ。なぜそう思うのかは、うまく説明できないのだが。
それから顔を合わせることはなかったが、融が給湯室で煙草を吸っているときに、奇しくも彼女が入ってきた。同時に、淡く香水の香りが漂ってくる。石鹸に近い香りだった。
――ああ、自己管理がうまいタイプだな、と思った。そういう第一印象だった。
反射的に微笑む。「おはようございます」と挨拶をしたものの、肝心の名前が出てこなくて、言葉に詰まってしまった。
「えっと……」
「形桐です。形桐 扇衣。おはようございます、相果主任」
向こうはこちらの名前を知っていたらしい。融は少し気まずくなって、ごまかすように煙草を口元にやった。
「失礼しました、形桐さん。気を遣わせてしまって」
「いえ。部署も違いますから」
お互いに出方を伺うような、当たり障りのない会話だ。
形桐さんが笑う。耳に心地いい声だな、と思った。表情も口調も明るいのに、距離を詰めようとはしてこない。妙に態度が落ち着いていた。腹に抱えたものを隠すために、言葉を選んでいるような静かさがあった。
(不思議なひとだ。……女性はみんな秘密を持ってるって、誰かが言ってたけど)
形桐さんはシンクに軽くもたれかかり、煙草の煙を細く吐き出している。決して広いとは言えない給湯室の中で、遠くの景色でも眺めるような目をしていた。明るさと暗さが奇妙に同居しているその表情を、つい見つめてしまう。
彼女がちらと視線を向けた。こちらの視線に気づいても、彼女は視線を逸らさなかった。融の目をじっと見つめて、きょとんと目を瞬かせている。
……しまった。不躾すぎたか。
彼女は何か思いついたように、シンクに置いてあったポーチを取り上げ、中から何かを取り出した。
差し出されたのは、板ガムだった。
「ガム、もらいます?」
「あ、ああ……」
男性の目をそう直視するものじゃない。その気がないならなおさらだ。そう彼女に伝えるべきかどうか、ほんの少しだけ迷う。
迷った末、口には出さなかった。
もらった板ガムへ逃げるように視線を移す。青紫色の包装紙に包まれた、ブルーベリー味のガムだった。
***
給湯室を出て、自分のデスクへと向かう。評価試験データチェックをしたり宣伝部から回ってくるプレスリリースの原稿に目を通したりと、やるべきことは山積みだ。思考を仕事モードに切り替えようと、椅子に深く腰を下ろす。
PCのモニタを立ち上げようとした瞬間、視界の端にありえないものが見えた。
【好感度:1】
(何だ? 好感度……?)
そこまで考えた瞬間、激しい頭痛に襲われた。
「……ッ、う」
声にならない呻きが漏れ、机に手をついてしまう。視界が白く明滅する。
痛い。焼いた釘を打ちこまれたようだ。反射的に目を瞑ってしまう。
なに……何を見た? なにを、なにか文字、の――……
「主任、なんか顔色悪くないですか?」
声をかけられて、とっさに目を開ける。通りがかった名嘉城 恒一が、怪訝そうにこちらを見ていた。
頭痛は続いたままだ。融は眉間を指で押さえながら答えた。
「ああ。少し目が疲れただけ」
「まだ朝ですよ」
名嘉城のずけずけとした突っ込みに、ふっと笑ってしまう。
モニタへ視線を移し、いつも通りの穏やかな声を作る。
「朝から仕事が詰まってるだけです。ところで、新商品の安定性試験結果は、もう宣伝部に回せますか?」
「データ入れてますよ。俺が持っていきましょうか? あっちに顔見知りがいるんで」
「顔見知り?」
「形桐です。同期なんで」
「ああ……」
そこで、形桐さんからもらったガムを存在を思い出した。薄い板ガムを胸ポケットから取りだしながら、融は名嘉城に告げた。
「じゃあ、お願いします」
「了解でーす」
名嘉城の返事はのんびりとしていたが、身体はもう自分のデスクに戻ってマウスを動かしている。
いつも通りのメンバー。いつも通りの仕事。いつも通りの日常。
だが、今日は頭痛がひどい。
画面に視線を固定しながら、ガムの包装紙を剥いて口に入れる。噛むたび人工的なベリーの香りが口いっぱいに広がって、頭痛がほんの少しだけ引いた気がした。




