4.ダブルブッキング
給湯室から戻って席についた瞬間、現原くんが小走りでやってきた。この時点で嫌な予感がした。
「形桐さん、申し訳ないです!!」
現原くんが深々と頭を下げる。わたしは現原くんの後頭部を眺めながら、静かに聞いた。
「どうしたの?」
「会議室なんですが、二重で入ってて」
「二重?」
ダブルブッキングか。
わたしは立ち上がって、現原くんの視線の先へ向かった。玄関前に設置されたホワイトボードに、付箋がぽつぽつと貼られている。会議室の利用予約を管理するホワイトボードだった。時間割の枠に付箋を貼って、時間と内容を書くだけの、シンプルなものだ。
「その……。ボードにうちの付箋は貼ってあるんですけど。もう一つ貼ってあって。そっちが、うちの十分前で押さえられてて」
わたしはこっそり息を吐いた。
今日の欄には、たくさん付箋が貼られている。宣伝部と商品開発部の付箋がごっちゃになっている。現原くんの言う通り、宣伝部と同室を、うちよりも十分前から押さえようとしている付箋があった。
ルールを敷いただけで揉め事がなくなるほど、社会は甘くない。愚直に予定を書き込んでも、会議室が勝手に使われたり割り込まれたりすることは珍しくなかった。
「すみません、形桐さん……。俺、昨日確認したんすよ。そのときは一時間ばっちり空いてました。マジで」
現原くんの声は途方に暮れていて、わたしは慰めるように笑ってみせた。
「大丈夫よ」
確かに現原くんは詰めが甘かった。ボードに予約を貼っただけで済ませたのは浅慮だったが、記録にまで残した予約が平然と無視される、なんて最初から思いつくはずがない。
会議室を絶対に予定通り押さえるためには、黙って居座りたがる連中を牽制するか、部下から舐められていない上司を召喚する必要があった。
ばかばかしいことだ。ただ会議を一本進めるためだけに、こんなミニゲームめいた手回しが必要とは……。
しかも、この種のミスは言い訳のしようがない。証拠が出せないからだ。誰かが貧乏くじを引いて頭を下げるほうが手っ取り早く収束する。
(わたしの不手際だと言って謝るほうがいいだろう。涙の一つでも流して、譲ってもらえるなら上出来だけどね)
そうしよう、と小さく頷く。諦めはとっくに通り越していて、冷笑に近かった。
これは、扇衣の――女性のほとんどが一般職で働く環境で、総合職を選びバリバリ成果を上げたがるバイタリティに満ちた彼女のプライドを、大いに傷つけるやり口に違いなかった。
だから気に入った。これは主人公ではなくわたしの決定なのだ。こんな時だというのに、頬がゆるんでしまう。
「考えがあるの。わたしが……」
そのとき、背後から声がした。
「あれ。そんなところで二人して立ち止まって。どうしたんですか?」
低くて柔らかい声。現原くんと一緒に振り向くと、そこにいたのは相果主任だった。さっきまで開けていた第一ボタンを閉じ、ジャケットと揃いのネクタイを締めている。
わたしは端的に告げた。
「ダブルブッキングです」
「ああ……」
相果主任は頷いて、ホワイトボードをちらりと見た。視線の先には、A4用紙を丁寧にラミネートした〈会議室予約のやり方〉が、無造作に貼られている。
「管理責任者は書かれてないな。えーと、誰だったかな……」
「わたしから謝罪して、譲っていただけないか頼もうかと」
それを聞いた相果主任は、ふっとわたしに視線を向けた。
「いや、形桐さん。ちょっとだけ待てるかな」
「え?」
「ちょっと話してきます。――この時間でいいんですよね?」
「は、はい……」
「了解。二人とも、ここにいてください」
相果主任はそう言って、踵を返した。現原くんは目を丸くしてその背中を追い、そしてわたしを見た。
「え? 相果さんが……」
「主任よ、現原くん」
「あ。えー、と……主任が話つけるんすか?」
相果主任はものの五分で戻ってきた。サッと商品開発部の付箋を剥がしてしまうと、手元の付箋から新しく貼り直す。
「と……取れたんすか」
現原くんが言うと、相果主任は当然のようにうなずいた。
「まあね。商品開発部が後から入れちゃってたみたいだ。すまなかったね」
現原くんが、感嘆の声を漏らす。
「相果主任、マジで神懸かってますね」
「ボードが雑なだけだ」
相果主任は、貼り直した付箋を押さえつけるように、指でなぞった。
「こういうのを君たちのせいだって言われるのは、嫌だからね」
言って、相果主任の視線が、わたしのほうを向いた。彼が何か言う前に、わたしは笑顔で口を開いた。言わなければならないことがあった。
「ありがとうございます、相果主任!」
「うん。じゃあ二人とも、頑張って」
そう言い残して、相果主任はそのまま歩き去っていった。




