3.ほんの小さな抵抗
二〇〇三年、受動喫煙防止を目的とした健康増進法が施行され、公共施設やオフィスでの分煙が努力義務となった。あくまでも努力義務だ。わたしのデスクに灰皿が置いてあることからもわかるように、依然としてデスクで煙草を吸うことは許されていた。
ただ、うちの会社はそういう風向きに敏感なほうで、「じゃあ、部署ごとの喫煙スペースでもつくるか」という話が出ていた。口の割に腰は重いようで、まだ実現はしていない。法律と会社の間で宙ぶらりんになった社員たちは、「とりあえず、換気扇の下で吸っとくか」とぼんやりとした合意形成をし、給湯室に集まって駄弁るのが文化になりつつあった。
フロアの片隅に、質素な給湯室がある。小さなシンクの天板にはポットとコーヒーメーカーが並んでいる。向かい合うように置かれた小さな冷蔵庫の上には電子レンジ。壁にはプロペラ付きの換気扇があって、その真下に、背の高いスツールと空き缶で作った即席の共用灰皿が置かれていた。換気扇の周りの壁は、タバコの煙のせいか、わずかに黄ばんでいる。
給湯室には、先客がいた。
視線がこちらを向いた。目元は柔らかい。シャツの襟元はきれいだが、第一ボタンは留まっていない。硬派すぎず、軟派すぎない。丁寧な物腰に甘いマスクを持つ男だが、煙草とは別の手で持つマルボロの赤が――決して甘いとはいえない煙草の匂いが、不思議としっくりくる。
首から下げた社員証の字が読めた。
相果 融
――あ。ほんものだ。
彼がわたしを見て微笑んだ。社交辞令を貼り付けただけだとわかってはいたが、思わず胸が跳ねてしまう。警鐘に近い跳ね方だった。どの攻略対象もとにかく顔がいいが、単純な好みで言えば、彼は別格だった。
最後の攻略対象。扇衣が〈せんぱい〉と呼んだ男。
攻略対象の中でも、いちばん刺さったのが彼だった。
だが、相果 融は、初見ではグッドエンドに到達できない男として設計されていた。なにせ、彼から向けられる〈好感度〉も、わたしが抱く〈印象度〉も、上げすぎるといきなりバッドエンドへ行ってしまうのだ。
彼からの好感度が高すぎると、その優しさがエスカレートしていって――
「おはようございます。えっと……」
耳の奥を撫でるような低い声に、思考が途切れる。返事の形は頭にあるのに、声が遅れそうになる。彼の視線が、何かを思い出そうとするように上へ逃げたのを見て、冷えた指先で名札を持ち上げる。そして、小さく頭を下げた。
「形桐です。形桐 扇衣。おはようございます――」
〈せんぱい〉。会社で同僚のことをそう呼んだって別段おかしくはないのだろう。だが、わたしは……。
「――相果主任」
相果主任。扇衣は決して使わなかった呼び方だ。なまじ社会人経験を積んでいたのが仇となった。役職をつけずに〈せんぱい〉呼びする勇気はとてもなかった。あの子は鋼の心臓を持っていたに相違ない。
まあ、いちいち自分を卑下したってしょうがない。彼を〈主任〉と呼ぶのは、この紛い物の世界に対するほんの小さな抵抗なんだ、と自分を鼓舞しておくことにする。
名を呼ばれた彼は、どこか気まずそうに笑った。
「失礼しました、形桐さん。気を遣わせてしまって」
「いえ。部署も違いますから」
彼の様子が、ゲームで何度も見た立ち絵と重なる。
体温が体の中心に集まってくるみたいだ。代わりに、指先が冷えて強張ってくる。春先でまだ冷える時期だ。指先を軽く動かしてから、煙草を一本取り出す。
相果主任は、また上のほうへ視線をやった。そこにはシンク上の吊り戸棚があるだけだ。
「……形桐さんは、宣伝部のほうへ移られたんですよね」
「はい。今年度から配属されました」
わたしは明るく笑った。それにつられるように、相果主任も口元をゆるめる。
「営業部での活躍は、ここまで噂が届いていましたよ。……あ、悪い意味じゃなくて」
「任せてください。ここでもバリバリやりますよ」
「今後はお世話になりそうだ。僕も、商品開発部の広報担当になったもので」
そう言って、相果主任は、指先だけで灰を落とす。
白くて細い指と、程よい血管の筋。なんて好い手をしているんだ。つい、まじまじと見つめてしまう。
わたしの視線に気づくようすもなく、彼は小さく首を傾けて笑った。目尻がほんの少し下がる。
「何か困ったことがあったら気兼ねなく言ってくださいね。担当に繋ぐくらいはできます」
「頼りにさせていただきます、主任」
わたしは努めて明るく応じた。
想像よりも、良すぎる。いろいろと。
胸の内側が忙しかった。




