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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第2章:SUMMER

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20.自分自身がわからない

 目覚めは最悪だった。

 こめかみの奥で、鈍い痛みが脈打っている。

 (さが)() (とおる)は重い頭を振り、ベッドサイドのミネラルウォーターを手に取った。

 昨夜のアルコールが残っているだけだ。ただの生理現象。水をたっぷり飲んでシャワーでも浴びれば、すぐによくなるだろう。


 ――だが、二日酔いなら、脳が浮腫(むく)んでぐらぐら揺れるような鈍痛になるはずだ。


 この痛みは、どうも違う。アルコール要因の鈍痛に、鋭利で局所的な痛みが混じっている。

 それが、昨夜――形桐(かたぎり)さんと非常階段で鉢合わせたときに交わした会話を思い出すたび、警告音のように突き刺さってくる。


『あんまり、危ないことはしないようにね』


 同僚への注意喚起にしては、踏み込みすぎている。


(……なぜ、あんなことを言ったんだろう)


 寝室から一歩踏み出した途端、廊下で立ち尽くしてしまう。視線の先には、あの開かずの扉がある。アルコールが抜けかけて、思考が正常に戻りかけている今ならば、何か見落としに気付くかもしれない。


 そう思ってレバーハンドルに手を掛けた瞬間、鋭い痛みが強くなった。


「……。はあ……」


 重く息を吐き出す。開かずの扉は相変わらず、びくともしない。

 やはり管理会社に鍵を確認するか、記憶の欠落を疑って病院へ行くべきだ。こういう異常を放置するのは、どうにも気分が悪い。


 そうわかっていた、が――


(まあ、いいか)


 結論が先に出て、理由がふっつりと途絶えた。ブレーカーが落ちるように、思考の流れがあっけなく切れた。その処理自体が異常であることに気づかないまま、ドアノブから手を離し、リビングへと歩き出す。


 何事もなかったかのように、(とおる)は日常を再開した。




 日曜の午後だ。駅ビルの通路は、買い物袋を提げた人でごった返している。

 (とおる)は地上へ降りる階段へ向かった。人の流れが段差で詰まり、自然と視線が下を向く。階段の下、エレベーターの脇に、軽薄そうな若い男が数人。手には折り畳んだチラシを持っているのが見えた。

 そのうちの一人が、ある女性にだけ食い下がっている。


(あれは……)


 形桐(かたぎり)さんだった。


 男は彼女の進行方向に半身を差し入れ、笑いながら何かを提案している。


 (とおる)は階段を下りながら、状況を分析した。

 形桐(かたぎり)さんの恰好は、白いカットソーにネイビーのカーディガン。黒のストレートパンツ。彼女を知らない人が見れば、仕事帰りにも見えそうだ。髪を無造作にまとめてうなじを見せているせいか、オフィスでの彼女よりも線が細く、幼く見える。

 いかにも声をかけやすそうな、あるいは押しに弱そうな、堅実な容姿。


(……なるほどな。彼女を安全なカモだと判定したわけか)


 助けに入るべきか?

 いや、その必要はないだろう。


 彼女は、営業部で数字を作ってきた女性だ。あの程度の男なら、三十秒も待たずにあしらって見せるだろう。しゃしゃり出るのは不自然だ。彼女の処理能力を信頼してスルーするほうが、丸く収まる。


 結論は出ている。のに――


『女が一人で飲んでいるといろいろ面倒で』

『強引に口説かれたり、酌をしろって無理やり――』


 昨夜、非常階段で聞いた彼女の不満げな声が、不意に脳裏をよぎった。

 視界の端で何かが明滅し、再びこめかみが痛む。


「あ……」


 理性の防波堤など、土砂崩れのような衝動の前では無意味だった。


 ――あの男は誰だ?

 誰の許可を得て、彼女の視界に映っている?


 気づけば、身体が動いていた。


「そんなところにいたの? 探したよ」


 身体が二人の間に割り込んで、息を吐くように滑らかな嘘が滑り出た。自分自身でやっていることなのに、指示(コマンド)を再生しているように、次の言葉がするすると出てくる。


「待ち合わせはこっちのカフェだよ。変更になったんだ。連絡見てないかな? みんなもう揃ってるよ」


 穏やかな声。それはオフィスで(とおる)がいつも使っている手口だ。その余裕に似つかわしくない圧力を前にして、若い男は気圧されたように後ずさり、そそくさと去っていった。


 邪魔者は消えた。(とおる)は、ふう、と内心で息をつき、彼女を振り返る。

 形桐(かたぎり)さんは、怪訝そうだった。


「……えっと、主任? どうしてここに?」


 彼女は警戒と困惑が混ざったような表情で一歩下がり、(とおる)を真っ直ぐに見据えた。


「……その。ありがとうございます」


 表情にこそ出さないが、明らかに警戒されているのが見て取れた。無理もない。こんなにタイミングよく登場する男なんて、まともな危機管理能力を持っていれば疑ってしかるべきだ。


 なんてばかなことを。彼女の処理能力を信用していたのに、一体どうしてずけずけと割り込んでしまったのだろう?


「いや。申し訳ない。余計な、お世話でしたね」


「いえいえ。とんでもない! すごく助かりました!」


 そういって、形桐(かたぎり)さんはにっこりと笑う。

 だが、(とおる)にはわかってしまう。彼女は喜んではいない。これは心からのお礼ではなく、その場をやり過ごすための言葉だ。距離感を間違えた異性から身を守るための、鎧のようなお礼だ。


(さっきから俺は変だ……)


 早く彼女の前から消えなければ、と思った。


「あの……。それじゃあ、僕はこれで失礼を」


「あ。待ってください、(さが)()主任!」


 呼び止められて、身体が硬直してしまう。


「その……暇だったらお茶でもどうです? お礼がしたくて」


 (とおる)は一瞬、目を閉じた。すぐに開いて、形桐(かたぎり)さんを見下ろす。

 彼女は、律儀すぎる。


「お誘いは嬉しいですが。こんなことで貸しを作ったなんて思いませんよ」


「あー……」


 形桐(かたぎり)さんは、ちょっとバツが悪そうに頬に手を当てた。図星だったらしい。


「……いや、そこまでわかってるなら、わたしの気が済まないこともわかりますよね? 大人しくお礼をされてくれると嬉しいんですけど?」


 (とおる)は思わず笑ってしまった。


 そうだ。本当は彼女ともっと話したい。

 ――彼女の空間に、他の男が踏み込むのが我慢ならない。


(は……?)


 そこまで思い立って、絶句する。

 過干渉がすぎる。


(こんな感情は知らない。こんな……)


 彼女に恋愛感情を抱いているのだろうか。いや。恋と呼ぶには、あまりにも……


 おぞましい。


 自分自身の内側で、何かが致命的に狂い始めている。

 だが、それが何なのかわからなかった。


 ただ、自分自身が、わからない。

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