2.着々と顔を見せる
でも、いったい誰を攻略すればいいのだろう?
そんなことを考えながら、マウスの底にあるボールを親指で転がしてみる。光学式マウスは世に出ているはずだが、フロントエンジニアのいない企業が手を伸ばすのはもっと先だろう。
漫然と手を動かしていると、後ろから声をかけられた。
「現原も形桐も早いな。始業までまだ一時間もあるぞ」
「あ。おはようございます。維木課長」
そこにいたのは、宣伝部の課長だった。扇衣の直属の上司にあたる。髪はきれいに固めてあって、スーツにもシャツにも皺ひとつない。決して言葉数は多くないのに、傍に寄るだけで背筋が伸びる。身長が高いからだろうか、ピリッとした威圧感がある。分厚い黒縁眼鏡で表情がわかりにくいが、黄ばんだモニタの前に座らせておくにはもったいない男ぶりだ。
――つまり、攻略対象である。
名前は維木 敦久。
わたしの姉と同い年くらい、十二歳ほど年上か。このくらいの年齢差は物の数ではない。両親が十歳差だったので、むしろ自然な成り行きだとさえ思えてくる。
まあ、それはいい。それよりも仕事だ。わたしは笑顔で維木課長に話しかけた。
「あ! ちょうどよかった。課長に見ていただきたいものがありまして」
「今日の営業資料か」
「ご明察です!」
わたしの流れるようなおべっかに、維木課長は表情を一ミリも崩さない。さっさと資料を受け取り、ざっと目を通してから、「まあ、いいだろう」と言ってわたしに返した。
「これで行く。コピーまで頼む、形桐。二十部」
「承知しました!」
にっこり笑って資料を受け取り、コピー機へ向かう。
(形桐、ねえ……)
課長を見送ってから、自分の首に下がった社員証をつまみ上げた。
そこには、わたしの名前が書かれている。
形桐 扇衣
この名前で今まで成長してきた記憶が、確かに存在している。だが、こんな世界に迷い込んでしまった以上、わたしの頭の中にある記憶はちっとも当てにならない。
――形桐 扇衣は、『社内恋愛』における主人公のデフォルトネームでもあるのだから。
わたしは本当に、こんな名前だっただろうか。
本当に?
複合機に資料を差し込んで、二十部のカラー印刷を設定する。令和の通信に慣れきっていた身では操作の仕様やもたつきに困惑しきりだったが、ふしぎと手が動いた。
紙を吐き出し続ける複合機の前で、わたしは立ち尽くしながらつぶやいた。
「とりあえず、全員と会うべきかも……」
「会うって、誰と?」
後ろから声をかけられて、わたしは顔を上げた。
そこには、体躯のいい男がいた。
程よく日に焼けた浅黒い肌に、やや赤みがかった短髪、鼻すじの通った顔立ち。美容に関心の高い女性なら、その平行二重とまつ毛の長さに羨望の視線を向けそうだ。ワイシャツの袖を雑にまくっていて、左右で高さが揃っていない。そこから覗く腕は肌と同じように焼けていて、腕時計が少しきつそうだ。
「おはよ、形桐」
助かるな~。そっちから来てくれて。
「おはよう、名嘉城くん」
つまり――そう、攻略対象である。
名前は名嘉城 恒一。わたしと同じ年に入社した同期で、商品開発部のエースだ。
わたしはにやりと笑って名嘉城くんを見上げた。
「宣伝部のコピー機に来るなんて、珍しいね?」
「まあな。あんたに会いに来たんだよ。ほい、これ」
名嘉城くんは、細長い何かを差し出してきた。文房具か何かだろう、と思って何の気なしに受け取ったそれは、ライターだった。
わたしは一瞬、固まった。
「えっ。なに?」
「ホラ、昨日。火ぃ貸してって言ったときの。返すの忘れてた」
言われてみれば、そういうやりとりをした記憶が蘇ってくる。――生成されている、と言ったほうがいいのかもしれないが。そう投げやりに考えるも、表情には出さない。
「ええと、わたしって――」
――タバコ吸うの?
そう言いかけて、慌てて口を閉じる。危なかった。名嘉城くんは訝しげに眉を上げる。
「どした?」
「ううん。なんでもないよ。ありがとう!」
「こっちこそ」
そう言って、名嘉城くんは去っていった。
自席に戻ってバッグを開けると、内ポケットに煙草の箱があった。箱のデザインは白がメインで、アクセントは明るい緑のライン。ピアニッシモ・ワンだ。ニコチンやタールの含有量が少なく、気軽に吸える銘柄。
(確か、このオフィスには……)
わたしはピアニッシモの箱を掴んで、立ち上がった。それにつられるように、現原くんがちらり、と視線を上げる。
「ちょっと、給湯室に行ってくるね」
そう言いながら、煙草の箱を振って見せる。現原くんは「は~い」と笑顔で手を振った。




