19.見せたくない本音
「でさー、妹ちゃん」
名嘉城くんが、螢のほうへウーロンハイの追加を置きながら、ニヤニヤと笑った。完全に面白がっている顔だ。だが、螢はまったく意に介さず、ずけずけと訂正した。
「ケイです。名前。旧漢字でホタルって書いて、螢」
「螢ちゃん。いい名前だね! で、ぶっちゃけどうなの? 家でのお姉ちゃんは?」
わたしはテーブルの下で、螢の足を軽く蹴った。「余計なこと言わないでよね」という意図を込めたものの、螢は痛がりもせず、淡々と枝豆の殻を皿に捨てた。
「別に、このまんまですよ?」
「このまんま?」
「はい。文句言いながらずっとビール煽ってますよ。『会社行きたくないー』って」
「ちょっ!!」
わたしの悲鳴をかき消すように、名嘉城くんが「ぶはっ!」とビールを吹き出しそうになった。安っぽいテーブルをバンバンと叩いて爆笑する。
「まじかよ! 会社行きたくないとか言うんだ、あの『鉄の女』が!」
「ちょっと名嘉城くん! 何よその『鉄の女』って? ホント失礼な男ね!」
「休日は死んだように寝てます」
「螢! ストップ!!」
名嘉城くんは涙目になりながら、わたしの顔を指差した。
「聞きました、主任? 家ではちゃんと愚痴ってんですって」
話を振られた相果主任は、ジョッキを持ったまま、ゆっくりとわたしに視線を移した。笑い転げる名嘉城くんとは対照的だ。彼は困ったように微笑むだけだった。
「それは安心しました」
(なんでそこで、気遣うセリフが出てくるのよ……)
居たたまれなくなって視線を逸らすと、螢が不思議そうに首を傾げた。
「姉ちゃん、会社でもこんなしかめっ面してんの?」
「はあ? してないわよ!!」
「だって今、すごい顔だよ。眉間のシワやば」
「あんたが! 余計なこと喋るからでしょ!」
「だって本当のことじゃん。……ねえ、ええと、静かなほうのお兄さん?」
螢が、ふいに相果主任に話を振った。ちら、と彼が視線を上げる。
「この人、会社ではどうなんですか? 仕事中はマシな顔してます?」
その純粋な問いに、相果主任が、ふっと目を細めて、静かな声で言った。
「ええ。会社での彼女は完璧ですよ。いつも助かっています」
心臓が嫌な音を立てて、わたしは眉をひそめそうになった。
褒め言葉のはずだ。同僚として、他部署の上司として、人材を評価する正しい言葉だ。
だが、どうしてだろう。『完璧』という言葉の響きに、底知れない不穏さを感じるのは。
わたしは二杯目のグラスを空にしたところで、席を立った。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね!」
名嘉城くんのペースに巻き込まれるのも悪くないが、この場には「攻略対象」が二人もいる。油断すれば、ゲームのシステムにどんなフラグを立てられるかわからない。その前に、アルコールでゆるんだ頭を冷やしたかった。
トイレの鏡でメイクが崩れていないか確認し、屋上へ戻る。
その途中、ふと冷たい風が通り抜けるのを感じて目をやる。奥の方で、非常階段の看板が光っていた。わたしはビアガーデンの喧騒から少し外れ、非常階段の扉を開け、踊り場へと足を踏み入れた。
「――あ」
そこには、先客があった。
階段を数段昇った先に、手すりにもたれかかる人影がある。苦い煙草の匂いと、小さな火種の赤。白い煙を吐きながら、見下ろすようにちらりと顔が向く。逆光になっていてわかりにくいが、ビアガーデンから洩れる明かりで、その顔がわずかに照らされる。
相果主任だった。
彼は少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの柔らかい、しかし少し距離を取るような笑みを浮かべた。
「……形桐さん。こんなところでどうしたの?」
「少し、風に当たりたくて。主任こそ」
「僕も同じ」
わたしは少し迷ってから、彼から少し距離を置いた手すりに寄りかかり、ピアニッシモを取り出した 。火を点け、細く煙を吐き出す。
夜風は、半袖の腕には少し肌寒いくらいだ。梅雨の時期はあんなに暑かったのに。
「それにしても、ほんとに奇遇でしたね。まさかこんなところで会うなんて」
「そうですね。形桐さんが妹さんと一緒にいるところは初めて見ました」
相果主任は指先だけで器用に灰を落としながら 、小さく笑った。
「妹さんと仲がいいんですね」
「まあ……。本当は一人で来たかったんですけどね」
アルコールのせいだ。完全に、口が滑っていた。
「女が一人で飲んでいるといろいろ面倒で、だから妹を呼んだんです。渋々ね。二人なら、まだマシだから」
するすると言葉が出てしまう。会社で見せる、愛嬌のある〈形桐さん〉ではなく、螢に見せていた可愛げのない〈姉〉の思考回路のまま 。
「一人で来たことがあるんですか?」
相果主任の声が、少しだけ低くなった気がした。
わたしは気づかずに、鼻で笑いながら答えてしまう。
「ありますよ。もう最悪。初っ端からジロジロ見てくるし。強引に口説かれたり、酌をしろって無理やり――」
そこまで言って、ハッとした。
(しまった)
血の気が引く。なんて可愛げのない、ひねくれた愚痴をこぼしてしまったのだろう。引かれたかもしれない。
慌てて上の相果主任を見る。彼は煙草を持ったまま、静かにこちらを見下ろしていた。相変わらずの逆光で顔がよく見えないが、その瞳には何かを特定しようとするような、いやに真剣な光が宿っていた。
彼は紫煙を吐き出してから、ゆっくりと問う。
「無理やり?」
「す、すみません。なんでもないです。ちょっと酔ったみたいで。変なこと言っちゃって」
わたしは咄嗟に、会社用の笑顔を作って誤魔化す。だが、相果主任はわたしの笑顔をあっさりと無視した。
「形桐さん」
彼が一歩、階段を下りて近づいてくる。
肌寒い夜風の中で、彼の煙草の匂いが、やけに生々しく迫ってきた。
「あんまり、危ないことはしないようにね。君はうまくやるひとだけど、万が一があってはいけない」
責めるでも、怒るでもない。ただの事実を置くような、短い言葉だった。
だが、その響きには、有無を言わさないような重さがあって。
「僕は先に戻ります。君も、早くおいで」
「……はい」
それ以上何も言い返せなくなって、わたしはただ小さく頷くことしかできなかった。




