18.ビールのうまい夏
結局のところ、仕事の都合で翌日にビアガーデンには行けずじまいで、土曜日にずらすことになった。
土曜日、わたしと螢は、ようやく駅前の百貨店へやってきた。見上げれば首が痛くなるような石造りの外壁を一瞥して、足を踏み入れる。
自動ドアが開いた瞬間、冷房の冷気とともに、華やかな化粧品の香りが鼻をくすぐった。普段なら競合他社の動向に目を光らせるところだが、今日の目的は視察ではない。
まっすぐエレベーターを目指そうとすると、螢が声を上げた。
「ちょっと、姉ちゃん! もう屋上に行くつもり?」
「そりゃあね」
わたしは早く飲みたかった。昼飲みなんて最高じゃないか。だが、二十歳になったばかりの螢はそうでもないらしい。やや不満そうだ。
「せっかく来たんだからさあ、ウィンドウショッピングくらいしたら?」
わたしは呆れて肩をすくめる。買いたいものはないし、視察目的でもないのに? わたしの態度を気にも留めずに、螢はわたしの肩をぽんぽんと叩いた。
「土壇場で予定を変えてもついて来てくれたかわいい妹に、何か買ってくれてもいいと思いますけどねえ?」
「結局それが目当てなんじゃないの」
螢がぺろりと舌を出す。わたしは軽くため息をついてから、妹に向き直った。
「……で? 何がほしいの?」
「さすがバリバリのキャリアウーマン。話がわかる~! じゃ、ランコムのグロス。あのチューブのやつ」
「ジューシーチューブ? 甘いしツヤツヤだし、あんたの趣味じゃないでしょ」
「だって流行ってるから。化粧直しも楽そうだからね。一番人気のでいいや。姉ちゃん詳しいでしょ? 選んでよ~」
この子はこの子で、妙に理屈っぽい。血は争えないな、と思う。
結局、わたしは螢にジューシーチューブを買ってあげた。カラフルな色合いだが、このリップグロスはあまり色付きがないということを伝えて、香りで選ばせた。螢はかなり悩んで、ライチの香りがするピンク色を選んだ。
わたしもその懐かしい見た目に、ついテスターのキャップをひとつ開けてみる。甘いキャンディーのような香りと共にホームシックめいた感情が湧き上がってきて、慌ててテスターを戻した。
百貨店の客用エレベーターは最上階のレストラン街までしか通っていない。屋上にいくためには、コンクリートの階段を登って屋上に出る必要があった。
非常階段みたいな階段を登りきると、喧騒がどっと押し寄せてくる。
今日は静かに飲むつもりだったので、わたしたちは屋上の端っこ、フェンス際に陣取った。街を見下ろしながらビールを飲むのも乙なものだ。
梅雨前線が張りついているときはあんなに暑かったのに、梅雨が明けてからはどんどん涼しくなっていった。わたしは覚えている。二〇〇三年の今年は記録的な『冷夏』だった。茹だるような熱帯夜などないに等しい年だ。屋上ということもあって、時おり肌寒いほどの風が吹き抜ける。
わたしはよく冷えた中ジョッキを片手に深く息を吐き出した。
「はあ……。本当に、嫌になるわ」
ネクタイを緩めて出来上がっているサラリーマンの集団や家族連れ、大学生、合コンらしき若い男女のグループでごった返している。昭和の残り香が漂う、赤提灯の明かり。
向かいの席で、枝豆を器用に片手で押し出していた妹の螢が、呆れたように目を細めた。
「なに。いきなり愚痴?」
「愚痴くらい言わせてよ。わたしはね、本当は一人で飲みたかったわけ」
「じゃあ一人で来ればよかったじゃん」
螢の言葉に、わたしはジョッキをドンとテーブルに置いた。
「それができないから言ってるんじゃないの! 女が一人でこういう場所にいたらどうなると思う?」
「うーん。ダル絡みされる?」
「そう!!」
この時代に「おひとりさま」という言葉はまだない。気が狂いそうだ!
だが、妹にはいまいち刺さらなかったらしい。彼女は、誰にどう見られようとひとりで食事や遊びに行くことを躊躇わない、独立心旺盛な子である。螢は唐揚げにレモンを絞りながら笑った。
「要するに、面倒くさいのに絡まれるのが嫌だから、あたしを呼んだんでしょ」
「そーいうこと」
「外では愛想よく猫かぶってるくせに、あたしといるとそういう可愛くない理屈こねるよねー」
「気を許してるって言いなさいよね」
「ハイハイ。まあ、美味しいご飯にありつけるなら、愚痴くらい聞いてあげるけどさ。……あ、すみませーん! ウーロンハイのおかわりと、焼き鳥の盛り合わせ追加で~!」
螢はマイペースに店員を呼び止める。そのたくましさに苦笑しつつ、わたしはジョッキの残りを煽った。
仕事のモードを完全にオフにして、ただの酒好きの〈姉〉になる。このビアガーデンには、取引先も、攻略対象もいない。そう思うと、冷夏の涼しい風が、ひどく心地よく感じられた。
そんな油断が、完全に裏目に出た。
「あれ? 形桐じゃん!」
背後から、聞き慣れた声が降ってきた。
振り返ったわたしの視界に、片手にビール瓶を持った名嘉城くんと、その後ろで静かに佇む相果主任の姿が飛び込んできた。
最悪。
そう思ったわたしは、笑うしかなかった。
わたしって、実は乙女ゲーにとことん向いてないのかもしれない。
結局、わたしたちのテーブルに名嘉城くんと相果主任が合流することになった。
名嘉城くんは「おっ、形桐の妹? 似てねーな!」と勝手に距離を詰めてきて、持ち前のペースで場を回し始める。螢もまた、初対面で過剰に取り繕うタイプではない。「あー、よく言われますー」と適当にあしらいながら、平常運転で唐揚げをつついていた。イケメン二人が相席してきても、微塵も動じていない。
(螢、お願いだからその調子で適当に流して……!)
妹が名嘉城くんに余計なことを言わないか(あるいはフラグを立てないか)、ヒヤヒヤしながら見守るわたしの斜め向かいで、相果主任が静かに中ジョッキを傾ける。その視線は時折、まっすぐにわたしへと向けられる。
何を考えているかよくわからない、妙に静かな目だった。




