17.恭順は武器である
定時を過ぎても外はまだ明るかったが、窓ガラスの向こうには分厚い雲が垂れ込めていた。風があったのと高層階だったことが幸いして、窓を開ければ蒸し暑さも少しは飛んでくれた。
「形桐さーん! 今日、パーッと飲みに行きません?」
帰りの支度をしていたわたしに、現原くんが元気よく声をかけてきた。手には茶封筒を持っている。
「駅前のデパートの屋上、今日から八月末までビアガーデンらしいっすよ。六月は席料サービスらしいっす!」
耳が早い。現原くんはこの人懐っこさで霞みがちだが、飲み屋の情報をいち早く抑えて、周囲を自ら誘えるアクティブな男である。周囲を巻き込んで大きなことを成すには必須の手回しを息をするようにやってのける、かなり有能な人材なのだ。
だからこそ、距離感を間違えたくない。
「ビアガーデンかあ。でも今日、ちょっと降りそうじゃない?」
わたしは苦笑して鞄を持った。
正直、行きたい気持ちはある。このまとわりつくような湿気と、仕事のストレスをビールで飛ばしてしまいたい。だが、男の後輩と二人で(いや、数人であっても)飲みに行くのは、この閉鎖的な社内ではリスクが高い。
「えー、いいじゃないっすか。熱気で飛ばしましょうよ」
無茶を言う。わたしは笑いながら言った。
「また今度ね。今日はまっすぐ帰るよ」
「ちぇー。残念っす」
現原くんはわかりやすく肩を落として、自分のデスクへ戻っていった。
その背中の向こう。商品開発部のエリアで、名嘉城くんが、缶コーヒーを片手にこちらを見ていた。
遠目に視線が合う。わたしは軽く会釈だけしてフロアを出た。
エレベーターホールへ向かう廊下に出ると、背中から声をかけられた。
「お疲れさま、形桐さん」
光胡さんの声だった。
心臓が跳ねるのを抑えて、振り返る。彼女もこれから帰るのだろう、鞄を手に提げている。いつも通りの、柔和で、隙のない笑みを浮かべていた。
わたしも、平静を装って微笑んだ。
「あら。お疲れさまです、光胡さん」
「仕事は順調そうね。営業部から来たばかりなのに、もうすっかり馴染んじゃって……」
まったく嫌味には聞こえないが、そんなのは女同士の会話では日常茶飯事である。すべてが嫌味として受け取られかねないことを想定して、表情から言葉までを完璧に作らなければならない。
ましてや扇衣は、(今の自分が言うのもなんだが)かなりの美人だ。その言葉は二重にも三重にも悪意をもって受け取られると決めてかかったほうが安全だ。
「いえ……まだ、周りに助けてもらってばかりで」
謙遜は必須だ。光胡さんは首を傾げた。
「あんまり男の人たちのペースに巻き込まれないようにね」
「と、いうと……」
「仕事熱心なのはいいことだけれど、距離が近すぎると、変に勘違いされることもあるから。あなたが働きにくくなったら、私だって困るもの」
彼女の声は、どこまでも優しかった。
純度一〇〇パーセントの善意。心配。先輩としての助言。
だが、その裏にある翻訳は簡単だ。
『調子に乗るな』『男に媚びて仕事を回すな』『目障りだ』
(ハイハイ。おっしゃる通りですとも)
わたしは心の中で舌を出した。反論は噛み殺しておく。ここで「業務上、必要な連携ですよ」と正論を吐くのは悪手がすぎる。彼女が欲しいのは正解ではなく、恭順の姿勢なのだから。
逆に言えば、それだけでいい。
恭順の意志を見せつけさえすれば、彼女はまるで母親のようにわたしを気遣ってくれる。無意味だとは思うが、答えがわかりきっているなら、それをクリアすればいいだけだ。わかりやすいのはいいことである。仕事もやりやすくなる。
わたしだって、光胡さんと同じ立場だったらイライラするかもしれない。色事にうつつを抜かす女は(男もだけど)チームビルディングの邪魔だ。そう考えると、光胡さんにはちょっとだけ同情してしまう。ほんのちょっとだけ。
わたしが困ったように笑い、「ええ、気をつけます」と言うと、光胡さんは満足そうに目を細めた。
「ああ、それと」
彼女は思い出したように付け足した。
「今日は週末だし、宣伝部の男の人たちも駅前のデパートの屋上で飲むって言ってたわね。さっき現原くんが『場所の予約取れてよかった』って話してたけれど……」
「なるほど……」
伝える必要のない情報。『私は彼らと雑談できる関係性なんですよ。あなたは仕事の話しかしてないでしょうけど』というマウント。悪意の有無はともかく、無意識に出た言い回しとは考えにくい。
(うーん……)
無性に酒が飲みたくなってきた。
そんなことはおくびにも出さず微笑んでいたのが功を奏して、光胡さんは話を続けてくれた。
「形桐さんも、毎度男たちの相手も疲れるでしょ。今のうちにさっさと帰っちゃったら?」
なるほど。
男たちが集まる場所に、女が一人で混ざるな、というわけだ。
(言われなくても!)
わたしとしても、そんな状況はごめんだ。そりゃあ、元の世界に帰るために誰かを攻略しなければならないわけだが、女版ハーレムを築くつもりはない。〈攻略対象〉が勢ぞろいする飲み会なんて前回でお腹いっぱいだ。二度とやりたくない。
「そうですね! 教えてくれてありがとうございます。今日はまっすぐ帰ります」
「ええ、お疲れさま」
光胡さんはひらひらと手を振って、踵を返した。
どうやら、わたしに釘を刺すためにわざわざ来たらしい。気の利くことだ。
わたしは笑顔を貼り付けたまま、エレベーターに乗り込む。誰もいなかったので、〈閉〉ボタンを連打した。
扉が閉まった瞬間、深いため息が漏れた。
(……やってらんないわ)
善意という名の政治圧力。システム補正よりもタチが悪いかもしれない。
でも、おかげで決心がついた。
今日はまっすぐ帰ろう。宅飲みだ。
帰宅すると、妹の螢がリビングでテレビを見ていた。
わたしは真っ先に冷蔵庫へ向かい、ロング缶のビールを取り出した。その場でプルトップを開けて、一気に喉に流し込む。
これっぽっちじゃ足りない。あと五本は必要だ。頭の中のモヤモヤを、もっと物理的に洗い流したい。とりあえずビール缶を二本だけ出して、螢のいるリビングへと向かった。
「ねえ、螢」
「んー?」
「明日、空いてる? 飲みに行かない? 付き合ってよ」
「明日ぁ?」
螢がポテトチップスをつまみながら振り返る。
「別にいいけど。珍しいじゃん、姉ちゃんから誘うなんて」
「なんか最近、ちょっと頭が変なのよ。会社でもいろいろあるし」
冗談めかして言うと、螢は呆れたように鼻を鳴らした。
「頭が変なのはいつもでしょ。で、どこ行くの?」
「駅前。百貨店の屋上で、八月末までビアガーデンやってるらしいのよね」
「気が早いねえ。りょーかい。じゃ、明日ね」
わたしはビールを煽った。
今日、彼らはそこで飲んでいる。なら、明日はいないはずだ。一日ズラせば安全だ。光胡さんの顔を立てつつ、わたしのガス抜きもできる。




