16.理不尽すぎる装い
二〇〇三年、六月二十日。金曜日。
駅のホームに降り立った瞬間、ねっとりとした熱気が肌にまとわりついた。
(……暑い。信じられないくらい暑い)
週初めから、最高気温が30℃前後に達する日が続いている。六月とは思えないほど、暑い。
暑さは百歩譲って許容するが、あまりにも暴力的な湿度だ。梅雨とかち合ってしまって、じめじめしている。最悪だ。
周囲を見渡せば、地獄のような光景が広がっている。すれ違うサラリーマンたちは全員、糊のきいた長袖のワイシャツを首元までぴっちり閉め、その上に重苦しいネクタイを吊るしている。
こうなると、もはや一種の拷問だ。
あと二年もすれば「クールビズ」という言葉が発明される。そうしたら、ノーネクタイ・ノージャケットが正義になるのに。そんな未来の知恵は微塵も届いていない。
「不条理極まりないわ……」
わたしは小さく毒づきながら、宣伝部のあるフロアへと足を踏み入れた。設定温度が甘いエアコンの風と、朝一番の煙草の煙が混ざり合った独特の空気が鼻をつく。ただでさえ暑いのに、早めに出勤してきた同僚たちが立ち上げたディスプレイやパソコン本体が熱を持ちはじめていて、暑さにますます拍車がかかる。
「おはよーございます、形桐さん! ……今月、マジで暑くないっすか?」
デスクに着く前に、現原くんが真っ赤な顔をして駆け寄ってきた。
彼は半袖のシャツを着ているけれど、それでも首元のネクタイが苦しそうだ。
「走るから余計に暑いんじゃない?」
「だって……。あ、これ! せんぱいの分です!」
差し出されたのは、水滴でびっしょりと濡れた缶のスポーツドリンク。
その冷たさに一瞬だけ救われた気がした。
「課長から頼まれたんすよ、全員分買って来いって」
奥には、一糸乱れぬネクタイ姿で涼しげな顔をして書類に目を通している維木課長。現原くんから缶を受け取るときも、暑さなど感じていないかのように淡々としていた。
戻ってきた現原くんが書類でばさばさとあおぎはじめる。そんなようすを見て、わたしは口を開いてしまっていた。
「やっぱりさ。ビジネスもクールにやりたいわよねえ」
「そっすねえ」
「インバウンドが伸びてるわけだし、日本は海外に対してクールな印象を押し出していくべきだと思うのよ。ノーネクタイが正義になってさ、長袖を無理に着るなんてバカらしくなって……」
クールジャパンという言葉も二〇〇五年にできたから、この時代の会社員には、そういう発想さえない。いくら熱弁したって、熱に浮かされた女の妄言でしかない。それを自覚しながらも、わたしはだらだらと話すのを止められなかった。
「身も心もクールに仕事をこなすのよ。クールにビジネス。クールビズ」
「何すかそれ、めちゃくちゃいいじゃないっすか」
現原くんはがばりと立ち上がる。わたしの反応が一瞬遅れたのがよくなかった。現原くんはその足で一糸乱れぬ正装の維木課長のデスクへ突っ込んでいった。
「課長ー!」
「え? 現原くん? ……ちょっと!」
「維木課長! この暑さ、耐えられないですよ。ネクタイ外して長袖もやめましょうよ~」
「はあ……?」
維木課長は小さく眉を寄せた。普段の課長ならおよそ態度に出さなさそうな、本気で困惑しているような声だった。
現原くんは気に求めずに続けた。
「『クールビズ』で行きましょう!」
「なんだ、それは?」
維木課長は呆れたように首を振って、「根拠がない」と一蹴した。その視線の先で、わたしは小さく息を吐いた。現原くんの前で余計なことは言わないほうがよさそうだ。
昼に入って、気温はますます上がる。最悪なことに、午後にエアコンの故障が重なってしまった。フロアの温度はさらに上がる一方だ。
だが、仕事はしなければならない。汗を拭い、気を引き締めて維木課長に資料を持っていこうとしたときだった。
維木課長は、わたしに気づかず、自分の首元へ指をかけた。完璧に整えられていたネクタイの結び目が乱暴に引き下げられ、シャツの第一ボタンが外される。そのまま、デスクに置いてあるスポーツドリンクを流し込んだ。缶にびっしょりついた水滴が手首を伝い、喉仏が大きく動くのが見える。
(あー……。タイミング悪いな……)
彼の完璧な鎧に亀裂が入った瞬間を目撃してしまったような、変な気まずさがある。
だが、話しかけないわけにもいかない。
「……維木課長」
彼がこちらに視線をやる。その頬がいつになく赤い。分厚い眼鏡の奥で、熱に浮かされた瞳が揺れていた。
「ああ……。修正は終わったか」
「はい。ご確認をお願いします」
維木は気だるげに資料を手に取る。その様子も、普段の完璧さからはかけ離れている。資料に視線を落としながら、彼がポツリと呟いた。
「現原の言っていた『クールビズ』とやらも、今なら検討に値するな……」
確かにな、と思う。もともと冷涼なヨーロッパで主流だった服装だ。高温多湿の日本ではビシッと着られる時期が限られると思う。女性のスーツも蒸し暑いが、男性のよりは幾分かマシだろうと思う。
「あはは……。スーツはほんと、逃げ場がないですもんね……」
わたしが苦笑いした、その時だった。
ふと視線を感じて振り返ると、遠くのキャビネットの横から、光胡さんがこちらを見ていた。彼女は涼しげな顔のまま、一度だけゆっくりと瞬きをして、視線を書類に戻した。
――見られた。
普段なら絶対に隙を見せない維木課長が、わたしの前でだけ武装を解いている姿を。
(いや、気にしすぎかな……)
その後、熱気がこもるフロアで、光胡さんが朝に仕込んでくれたらしい冷たい麦茶を出してくれた。
「形桐さんも、無理しないでね」
にっこりと笑って紙コップを置かれる。優しい気遣い。だが、『あなたはまだ宣伝部のお作法に慣れていないのだから、無理して男たちに混ざらなくていいのよ』という牽制にも聞こえた。
エアコンの壊れた蒸し暑いオフィスで、背中に流れる汗がやけに冷たく感じた。




