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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第1章:SPRING

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15/16

15.鍵を無くした部屋の謎

 (さが)() (とおる)は、居酒屋の前の歩道を眺めながら煙草を吸っていた。店の看板が消えるまで、まだ少し時間があった。居酒屋の前の歩道は、酔った客やキャッチの声でごった返している。


 少し離れた自動販売機の陰から、細い煙が立ち上るのが見えた。

 形桐(かたぎり) (あお)()だった。彼女は壁にもたれ、ピアニッシモを指に挟んで、深く溜め息を吐き出していた。視線はうつむきがちで、ここではないどこかを見つめているようだった。


 いつも完璧な営業スマイルで場を回している彼女が、時おり落とす(かげ)り。以前、給湯室で見かけたときと同じ、遠くを見るような目だ。あの時よりもずっと、隠しきれない疲労が滲んでいた。


 (とおる)はマルボロの火を消して、彼女に向かって歩き出した。靴音に気づいた彼女の肩が小さく跳ねる。振り返った瞬間にはもう、いつもの笑顔が顔に貼りついていた。


「あ。お疲れさまです! 主任」


「お疲れさま。改めて、今回は助かりました。ありがとうございます」


 (とおる)は彼女の取り繕いを暴くような野暮はせず、労いを返した。彼女は笑った。


「そんな。それはわたしの台詞ですよ。主任には、ほんとにお世話になりました! 稟議の件も……」


 そう明るく返しながら、俯きがちに頭を下げ、灰をとん、と落とす。(とおる)はそのしぐさを見ていた。給湯室で会うときと、まったく同じそのしぐさを。


「気にしないで。君が資料を用意してくれたおかげで、スムーズに済みましたよ」


「それなら、よかったです」


 それ以上は話さない。彼女はちらとこちらを見て、薄く微笑んだ。


「それでは、お先に失礼しますね。お疲れさまでした」


「ええ。お疲れさま」


 彼女は小さく会釈して、駅のほうへ歩き出す。しゃんと伸ばした背中が、人混みに飲まれて消える。その方向を見つめながら新しい煙草を一本抜いた。ライターを取り出そうとして、胸ポケットに指を入れる。

 ライターではない、何か硬いものに触れた。

 そっと胸ポケットから取り出すと、それは万年筆だった。艶消しの深紅に円柱型。手のひらに載るくらい小さくて、胸ポケットにすっぽり収まってしまっていた。


「あ……」


 形桐(かたぎり)さんのものだった。


 いつ借りたのかは、すぐに思い出せた。原稿を校了する直前に、形桐(かたぎり)さんが「ここの表現を変えたいんです」と言いながら取り出した万年筆だった。いくつか案を出すために、彼女から万年筆を借りたのだ。急いでいたので、そのまま胸に挿してしまった。


 瞬間――


【依存度:+1】


「……う、」


 反射で目をきつく閉じた。

 まただ。こめかみの内側に、釘を打ち込まれるようなひどい痛み。

 音が遠ざかる。息をするわずかな振動でじくじくと痛み出し、呼吸の仕方がわからなくなる。

 目を瞑りながら、ふと、彼女のことが気にかかった。


(無事に、帰れるだろうか)


 彼女の家はどこにあるのか。最寄り駅はどこか。激しい頭痛に苛まれているというのに、なぜか無性に気になり――


 痛みが、すっと引いた。

 安堵の息が漏れる。完全には引かなかったが、釘が抜けたみたいに軽くなった。


「……」


 結局、ライターは取らなかった。煙草を箱に戻してから、彼女とは反対方向へ歩き出す。

 歩きながら、胸ポケットの万年筆に触れ、その硬さを確かめた。


 返しそびれてしまった。



 ***


 アパートの階段を上がると、廊下の蛍光灯が白い。鍵を回して部屋に入る。靴を揃えて脱ぎ、灯りを点けた。


 ジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを外す。シャツの第二ボタンまで外して、胸ポケットに指を入れた。万年筆の胴をつまみ、抜き取る。


(返さないとな……)


 机の上に置こうとしたが、酔いのせいか、手元が滑ってしまった。万年筆が指から滑り落ち、床に転がる。


 深紅の筒が廊下をころころと進み、寝室の手前で止まった。つられてそちらに視線を向けて――違和感に気付いた。


 寝室の隣に、もう一部屋ある。


(……あれ?)


 間取りを頭に思い浮かべてみた。確かに、そこはもう一つ洋室があった。しかも、いまの寝室よりも半畳ほど広い部屋が。

 だが、奇妙なことに、その部屋を一度も使った記憶がない。それどころか、なぜ自分の寝室をわざわざ隣の狭い部屋にあてがったのか、その理由がまったく思い出せなかった。


 一部屋を無駄に潰したまま放置するなんて、明らかに変だ。


(ここには、何があるんだ?)


 レバーハンドルに手をかける。ハンドルはすんなり下がったが、扉は開かない。鍵が掛かっていた。


「……っ」


 また、頭痛。融は思わずハンドルから手を離してしまう。


 なぜ、鍵を掛けたのだろう。いつ? この部屋は、いつ使わなくなったのか?

 原因を探ろうと思考を巡らせようとするほど、頭に激痛が走り、息が止まりそうになる。とうとう頭を抱えてうずくまってしまった。冷や汗が首筋を伝う。床が額に当たる。いやに冷たい。


「は、は……。飲みすぎだろ」


 そうしてうずくまっていると少しは楽になった。(とおる)は万年筆を拾い上げ、廊下に備え付けられている棚の戸を開けた。印鑑、予備電池、工具などが納められているが、鍵らしきものは見当たらない。


(管理会社に聞いてみようか?)


 携帯を取り出し、画面を開いたところで、指が止まる。


(馬鹿な。こんな時間に?)


 それに、電話したとしていったい何と説明したらいいのか。部屋の鍵をひとつ無くしてしまったみたいなんです、とでも?


 開かずの扉に視線を戻すと、再び刺すような痛みに襲われて、慌てて視線を外す。

 もう、考える気が失せてしまった。

 携帯を閉じ、リビングに戻る。万年筆をそっと机の上に置いた。そのまま、ぼんやりと万年筆の胴を見つめた。形桐(かたぎり)さんがこれを使っていたときの、手の白さを思い出す。


(返さないと……)


 寝室の隣の扉を視界に入れないように、まっすぐベッドへ向かう。


 机の上に置いた深紅の万年筆にもう一度触れたい――そんな、奇妙で強烈な衝動が湧き上がってくる。


 その衝動に困惑しながら、目を閉じた。深紅の万年筆が机の上にある光景が、やけに鮮明に網膜に残っていた。

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