15.鍵を無くした部屋の謎
相果 融は、居酒屋の前の歩道を眺めながら煙草を吸っていた。店の看板が消えるまで、まだ少し時間があった。居酒屋の前の歩道は、酔った客やキャッチの声でごった返している。
少し離れた自動販売機の陰から、細い煙が立ち上るのが見えた。
形桐 扇衣だった。彼女は壁にもたれ、ピアニッシモを指に挟んで、深く溜め息を吐き出していた。視線はうつむきがちで、ここではないどこかを見つめているようだった。
いつも完璧な営業スマイルで場を回している彼女が、時おり落とす翳り。以前、給湯室で見かけたときと同じ、遠くを見るような目だ。あの時よりもずっと、隠しきれない疲労が滲んでいた。
融はマルボロの火を消して、彼女に向かって歩き出した。靴音に気づいた彼女の肩が小さく跳ねる。振り返った瞬間にはもう、いつもの笑顔が顔に貼りついていた。
「あ。お疲れさまです! 主任」
「お疲れさま。改めて、今回は助かりました。ありがとうございます」
融は彼女の取り繕いを暴くような野暮はせず、労いを返した。彼女は笑った。
「そんな。それはわたしの台詞ですよ。主任には、ほんとにお世話になりました! 稟議の件も……」
そう明るく返しながら、俯きがちに頭を下げ、灰をとん、と落とす。融はそのしぐさを見ていた。給湯室で会うときと、まったく同じそのしぐさを。
「気にしないで。君が資料を用意してくれたおかげで、スムーズに済みましたよ」
「それなら、よかったです」
それ以上は話さない。彼女はちらとこちらを見て、薄く微笑んだ。
「それでは、お先に失礼しますね。お疲れさまでした」
「ええ。お疲れさま」
彼女は小さく会釈して、駅のほうへ歩き出す。しゃんと伸ばした背中が、人混みに飲まれて消える。その方向を見つめながら新しい煙草を一本抜いた。ライターを取り出そうとして、胸ポケットに指を入れる。
ライターではない、何か硬いものに触れた。
そっと胸ポケットから取り出すと、それは万年筆だった。艶消しの深紅に円柱型。手のひらに載るくらい小さくて、胸ポケットにすっぽり収まってしまっていた。
「あ……」
形桐さんのものだった。
いつ借りたのかは、すぐに思い出せた。原稿を校了する直前に、形桐さんが「ここの表現を変えたいんです」と言いながら取り出した万年筆だった。いくつか案を出すために、彼女から万年筆を借りたのだ。急いでいたので、そのまま胸に挿してしまった。
瞬間――
【依存度:+1】
「……う、」
反射で目をきつく閉じた。
まただ。こめかみの内側に、釘を打ち込まれるようなひどい痛み。
音が遠ざかる。息をするわずかな振動でじくじくと痛み出し、呼吸の仕方がわからなくなる。
目を瞑りながら、ふと、彼女のことが気にかかった。
(無事に、帰れるだろうか)
彼女の家はどこにあるのか。最寄り駅はどこか。激しい頭痛に苛まれているというのに、なぜか無性に気になり――
痛みが、すっと引いた。
安堵の息が漏れる。完全には引かなかったが、釘が抜けたみたいに軽くなった。
「……」
結局、ライターは取らなかった。煙草を箱に戻してから、彼女とは反対方向へ歩き出す。
歩きながら、胸ポケットの万年筆に触れ、その硬さを確かめた。
返しそびれてしまった。
***
アパートの階段を上がると、廊下の蛍光灯が白い。鍵を回して部屋に入る。靴を揃えて脱ぎ、灯りを点けた。
ジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを外す。シャツの第二ボタンまで外して、胸ポケットに指を入れた。万年筆の胴をつまみ、抜き取る。
(返さないとな……)
机の上に置こうとしたが、酔いのせいか、手元が滑ってしまった。万年筆が指から滑り落ち、床に転がる。
深紅の筒が廊下をころころと進み、寝室の手前で止まった。つられてそちらに視線を向けて――違和感に気付いた。
寝室の隣に、もう一部屋ある。
(……あれ?)
間取りを頭に思い浮かべてみた。確かに、そこはもう一つ洋室があった。しかも、いまの寝室よりも半畳ほど広い部屋が。
だが、奇妙なことに、その部屋を一度も使った記憶がない。それどころか、なぜ自分の寝室をわざわざ隣の狭い部屋にあてがったのか、その理由がまったく思い出せなかった。
一部屋を無駄に潰したまま放置するなんて、明らかに変だ。
(ここには、何があるんだ?)
レバーハンドルに手をかける。ハンドルはすんなり下がったが、扉は開かない。鍵が掛かっていた。
「……っ」
また、頭痛。融は思わずハンドルから手を離してしまう。
なぜ、鍵を掛けたのだろう。いつ? この部屋は、いつ使わなくなったのか?
原因を探ろうと思考を巡らせようとするほど、頭に激痛が走り、息が止まりそうになる。とうとう頭を抱えてうずくまってしまった。冷や汗が首筋を伝う。床が額に当たる。いやに冷たい。
「は、は……。飲みすぎだろ」
そうしてうずくまっていると少しは楽になった。融は万年筆を拾い上げ、廊下に備え付けられている棚の戸を開けた。印鑑、予備電池、工具などが納められているが、鍵らしきものは見当たらない。
(管理会社に聞いてみようか?)
携帯を取り出し、画面を開いたところで、指が止まる。
(馬鹿な。こんな時間に?)
それに、電話したとしていったい何と説明したらいいのか。部屋の鍵をひとつ無くしてしまったみたいなんです、とでも?
開かずの扉に視線を戻すと、再び刺すような痛みに襲われて、慌てて視線を外す。
もう、考える気が失せてしまった。
携帯を閉じ、リビングに戻る。万年筆をそっと机の上に置いた。そのまま、ぼんやりと万年筆の胴を見つめた。形桐さんがこれを使っていたときの、手の白さを思い出す。
(返さないと……)
寝室の隣の扉を視界に入れないように、まっすぐベッドへ向かう。
机の上に置いた深紅の万年筆にもう一度触れたい――そんな、奇妙で強烈な衝動が湧き上がってくる。
その衝動に困惑しながら、目を閉じた。深紅の万年筆が机の上にある光景が、やけに鮮明に網膜に残っていた。




