13.仕事は必ず締める
五月の四週目。いよいよ月末だ。
進行中のリブランディング案件の稟議が、経理の確認でパタリと止まっていた。わたしは手元の資料をまとめ、維木課長のデスクの横に立った。
「稟議が止まっています。広告宣伝費で落とすには根拠が足りないと」
制作物や店頭物が絡むと、認知目的の広告なのか、購買促進のための販促なのかで見解が割れやすい。費目が変わると予算枠も決裁のルートも変わるし、不審な経費は監査時に睨まれやすいので、経理が細かく確認したがるのも当然だ。
特に、今回は金額が大きい。
雑にまとめれば、今回のリブランディングの予算を『宣伝部』で持つ正当な理由がない、と言われていた。
「なら、販促費だ。商品開発部に落とさせろ」
「販促費ですか」
「媒体に出すなら広告宣伝費でいい。だが、今回は店頭で売るためのPOPだろう。販促のほうが目的に合う」
維木課長は一蹴する。宣伝部の課長としては当然の意見だということはわかる。経理は費目の根拠しか見ない。どちらの財布で払うかは、部門同士で決める必要があった。しかし……。
(それ、わたしが商品開発部と交渉しなきゃダメですかね?)
内心の抵抗感を隠したまま佇んでいると、維木課長はキーボードを打つ手を止め、決定事項を述べるような口調で命じた。
「明日までに通せ」
「……承知しました」
(あーあ、やっぱりこうなるよな~……)
相果主任に頼り過ぎるのは悪手だとわかっているのに。だが、直属の上司からの業務命令だ。逃げ道はない。
せめて、頼り過ぎない方法で行くしかない。
わたしは深いため息を腹の底にしまい、例のごとく給湯室にいる相果主任の元へ向かった。
***
相果主任は、換気扇の下で静かにマルボロを吸っていた。わたしは挨拶もそこそこに、開口一番で告げた。
「稟議が止まっています。経理と揉めてまして」
相果主任はかすかに目を細めた。
「揉める? 宣伝の案件ですよね」
「宣伝部としては、今回だけ販促費で落としてほしくて」
相果主任は一拍置いて、煙草を灰皿に落とした。怒りはないが、明確な拒否が見える。
「それはできない相談です」
「ええ。無理を言っているのはわかっています」
助けてくれと泣きつくつもりはない。彼が部内を説得するための弾丸は用意してある。あとは銃に込めて撃ち抜くだけだ。
「明日までに通さないと、校了日がズレます」
「だったらなおさら、広告宣伝費で通したほうが早いでしょう」
「そうするつもりでした。ですが、『根拠が弱い』と差し戻されてしまって」
「……なるほど」
相果主任はそれだけ言って、煙草の火を消した。
わたしは説明を続けた。
「販促費で落とす名目は作ってきました。店頭POPと連動する購買促進施策として。補足資料もあります」
わたしはクリアファイルから数枚の紙を抜き出し、彼に差し出した。
相果主任は紙に目を走らせる。眉がわずかに動いた。
「……例外的に販促費で処理する、ということですか?」
「はい。今回だけです。次回以降は、広告宣伝費で予算化する方針で進めます」
もちろん、確約はできない。次案件の中身がまた店頭物なら販促費になるだろうし、会社の会計方針や予算編成にも左右される。ただし、宣伝部の意向として方針を明記することはできる。
相果主任は、短く頷いた。
「……わかりました。ただし、今回だけですよ。経理には、店頭施策の実行費で通します」
「はい!」
相果主任は給湯室を出ると、そのまま自席に戻り、迷いなく受話器を取り上げた。おそらく経理への根回しだろう。
(……通った)
交渉の勝ち筋を組み立て、想定通りに相手を動かした。仕事としての手応えはある。しかし、どんなに理屈で武装して、対等の形をとったところで、結局わたしは〈攻略対象〉の力を借りなければ、このピンチを乗り越えられなかった。
有能であればあるほど、彼らとの関係が強固に固定化されていく。その矛盾した事実に、わたしは小さく息を吐いた。
***
それから数日。
再校が戻ってきた。媒体制限は用途を切り分けることで許諾を得た。原稿に刻まれた赤はすべて消し去った。発注書も手元にある。わたしは分厚くなったファイル一式を抱え、再び維木課長の元へ向かった。
「課長、最終確認をお願いします」
維木課長は無言でファイルを受け取ると、校了紙と稟議書をめくっていく。彼の視線は、添付された数枚のプリントアウト――揉めていた媒体制限や写真カットの切り分けに関する交渉のメールに向いていた。
「証跡も揃っています。誰も文句は出せませんよ」
わたしは完璧な営業スマイルで言い切った。
維木課長は「よくやった」などという情緒的な褒め言葉は絶対に口にしない。そういう男だ。だが、わたしの用意した鉄壁の書類を見た瞬間、彼の口元が、ほんのわずかに――本当にミリ単位で、満足げに緩んだように見えた。
課長は無言で書類の束をトントンと机で揃え、最終確認欄に自身の印鑑を力強く押した。
「……次も頼む」
ファイルを返しながら、課長が低く言う。
たった一言。だが、純粋に、わたしの〈仕事〉を評価する言葉だった。「次もこの責任をお前に預けたい」という、最大級の評価だった。
(……ああ。やりやすい)
感情を排したこの冷徹さが、今のわたしにはひどく心地よかった。
***
定時後。缶コーヒーを傾けて、仕事が終わった感触に浸っていたときだった。
「形桐」
背後から呼ばれ、振り返る。帰り支度を済ませ、ジャケットを羽織った維木課長が立っていた。
「今日の打ち上げに、お前も参加しろ」
「えっ」
思わず声が出た。リブランディング案件をクローズした区切りとして、商品開発部との合同打ち上げがあることは知っていた。だがわたしは、適当な理由をつけて逃げるつもりだった。まだ若手だからとか、異動してきたばかりだとか、理由はいくらでも用意できる。とにかく、〈攻略対象〉が勢ぞろいする飲み会なんて、地雷原を歩くようなものだ。
わたしは遠慮する若手の笑顔を作った。内心の強烈な拒絶をコーティングするためだった。
「えーと……。わたしも、行っていいんですか?」
おずおずと聞いてみる。「どうか察してくれ」という祈りを込めて。
しかし、維木課長はわたしの顔を、その笑顔の裏側まで見透かすように一瞥した。
「お前がメイン担当みたいなものだっただろう。ちょうどいい機会だ。開発連中に顔を売るぞ」
(なんでそんな、断りにくいことを……)
華になれ、みたいなセクハラじみた理由は一切ない。戦力としての同行命令だった。
嬉しい。――だから嫌だ。断りにくい。
そんなわたしの内心を無視するように、維木課長はあっさりと続けた。
「私も同席する」
「えっ!?」
わたしは目を剥いた。普段はそんな飲み会には絶対に参加しない上司だ。そんな彼が、今回は顔を出すという。
それはつまり、上司である彼が、わたしという戦力を他部署にお披露目するということだ。
これでは、ますます断りようがない。不参加では、わざわざ後盾になろうとしてくれている維木課長の面目を潰してしまうではないか。そんな下手を打てば、今後の仕事に致命的な支障が出かねない。
「……。はい。それでは、お言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」
わたしは観念して、小さく頭を下げた。




