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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第1章:SPRING

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13/15

13.仕事は必ず締める

 五月の四週目。いよいよ月末だ。

 進行中のリブランディング案件の稟議が、経理の確認でパタリと止まっていた。わたしは手元の資料をまとめ、(つな)()課長のデスクの横に立った。


「稟議が止まっています。広告宣伝費で落とすには根拠が足りないと」


 制作物や店頭物が絡むと、認知目的の広告なのか、購買促進のための販促なのかで見解が割れやすい。費目が変わると予算枠も決裁のルートも変わるし、不審な経費は監査時に睨まれやすいので、経理が細かく確認したがるのも当然だ。

 特に、今回は金額が大きい。


 雑にまとめれば、今回のリブランディングの予算を『宣伝部』で持つ正当な理由がない、と言われていた。


「なら、販促費だ。商品開発部に落とさせろ」


「販促費ですか」


「媒体に出すなら広告宣伝費でいい。だが、今回は店頭で売るためのPOPだろう。販促のほうが目的に合う」


 (つな)()課長は一蹴する。宣伝部の課長としては当然の意見だということはわかる。経理は費目の根拠しか見ない。どちらの財布で払うかは、部門同士で決める必要があった。しかし……。


(それ、わたしが商品開発部(むこう)と交渉しなきゃダメですかね?)


 内心の抵抗感を隠したまま佇んでいると、(つな)()課長はキーボードを打つ手を止め、決定事項を述べるような口調で命じた。


「明日までに通せ」


「……承知しました」


(あーあ、やっぱりこうなるよな~……)


 (さが)()主任に頼り過ぎるのは悪手だとわかっているのに。だが、直属の上司からの業務命令だ。逃げ道はない。


 せめて、頼り過ぎない方法で行くしかない。

 わたしは深いため息を腹の底にしまい、例のごとく給湯室にいる(さが)()主任の元へ向かった。



 ***


 (さが)()主任は、換気扇の下で静かにマルボロを吸っていた。わたしは挨拶もそこそこに、開口一番で告げた。


「稟議が止まっています。経理と揉めてまして」


 (さが)()主任はかすかに目を細めた。


「揉める? 宣伝の案件ですよね」


宣伝部(うち)としては、今回だけ販促費で落としてほしくて」


 (さが)()主任は一拍置いて、煙草を灰皿に落とした。怒りはないが、明確な拒否が見える。


「それはできない相談です」


「ええ。無理を言っているのはわかっています」


 助けてくれと泣きつくつもりはない。彼が部内を説得するための弾丸は用意してある。あとは銃に込めて撃ち抜くだけだ。


「明日までに通さないと、校了日がズレます」


「だったらなおさら、広告宣伝費で通したほうが早いでしょう」


「そうするつもりでした。ですが、『根拠が弱い』と差し戻されてしまって」


「……なるほど」


 (さが)()主任はそれだけ言って、煙草の火を消した。

 わたしは説明を続けた。


「販促費で落とす名目は作ってきました。店頭POPと連動する購買促進施策として。補足資料もあります」


 わたしはクリアファイルから数枚の紙を抜き出し、彼に差し出した。

 さが()主任は紙に目を走らせる。眉がわずかに動いた。


「……例外的に販促費で処理する、ということですか?」


「はい。今回だけです。次回以降は、広告宣伝費で予算化する方針で進めます」


 もちろん、確約はできない。次案件の中身がまた店頭物なら販促費になるだろうし、会社の会計方針や予算編成にも左右される。ただし、宣伝部の意向として方針を明記することはできる。

 (さが)()主任は、短く頷いた。


「……わかりました。ただし、今回だけですよ。経理には、店頭施策の実行費で通します」


「はい!」


 (さが)()主任は給湯室を出ると、そのまま自席に戻り、迷いなく受話器を取り上げた。おそらく経理への根回しだろう。


(……通った)


 交渉の勝ち筋を組み立て、想定通りに相手を動かした。仕事としての手応えはある。しかし、どんなに理屈で武装して、対等の形をとったところで、結局わたしは〈攻略対象〉の力を借りなければ、このピンチを乗り越えられなかった。


 有能であればあるほど、彼らとの関係(フラグ)が強固に固定化されていく。その矛盾した事実に、わたしは小さく息を吐いた。



 ***


 それから数日。

 再校が戻ってきた。媒体制限は用途を切り分けることで許諾を得た。原稿に刻まれた赤はすべて消し去った。発注書も手元にある。わたしは分厚くなったファイル一式を抱え、再び(つな)()課長の元へ向かった。


「課長、最終確認をお願いします」


 (つな)()課長は無言でファイルを受け取ると、校了紙と稟議書をめくっていく。彼の視線は、添付された数枚のプリントアウト――揉めていた媒体制限や写真カットの切り分けに関する交渉のメールに向いていた。


「証跡も揃っています。誰も文句は出せませんよ」


 わたしは完璧な営業スマイルで言い切った。


 (つな)()課長は「よくやった」などという情緒的な褒め言葉は絶対に口にしない。そういう男だ。だが、わたしの用意した鉄壁の書類を見た瞬間、彼の口元が、ほんのわずかに――本当にミリ単位で、満足げに緩んだように見えた。


 課長は無言で書類の束をトントンと机で揃え、最終確認欄に自身の印鑑を力強く押した。


「……次も頼む」


 ファイルを返しながら、課長が低く言う。

 たった一言。だが、純粋に、わたしの〈仕事〉を評価する言葉だった。「次もこの責任をお前に預けたい」という、最大級の評価だった。


(……ああ。やりやすい)


 感情を排したこの冷徹さが、今のわたしにはひどく心地よかった。



 ***


 定時後。缶コーヒーを傾けて、仕事が終わった感触に浸っていたときだった。


形桐(かたぎり)


 背後から呼ばれ、振り返る。帰り支度を済ませ、ジャケットを羽織った(つな)()課長が立っていた。


「今日の打ち上げに、お前も参加しろ」


「えっ」


 思わず声が出た。リブランディング案件をクローズした区切りとして、商品開発部との合同打ち上げがあることは知っていた。だがわたしは、適当な理由をつけて逃げるつもりだった。まだ若手だからとか、異動してきたばかりだとか、理由はいくらでも用意できる。とにかく、〈攻略対象〉が勢ぞろいする飲み会なんて、地雷原を歩くようなものだ。


 わたしは遠慮する若手の笑顔を作った。内心の強烈な拒絶をコーティングするためだった。


「えーと……。わたしも、行っていいんですか?」


 おずおずと聞いてみる。「どうか察してくれ」という祈りを込めて。

 しかし、(つな)()課長はわたしの顔を、その笑顔の裏側まで見透かすように一瞥した。


「お前がメイン担当みたいなものだっただろう。ちょうどいい機会だ。開発連中に顔を売るぞ」


(なんでそんな、断りにくいことを……)


 華になれ、みたいなセクハラじみた理由は一切ない。戦力としての同行命令だった。

 嬉しい。――だから嫌だ。断りにくい。

 そんなわたしの内心を無視するように、(つな)()課長はあっさりと続けた。


「私も同席する」


「えっ!?」


 わたしは目を剥いた。普段はそんな飲み会には絶対に参加しない上司だ。そんな彼が、今回は顔を出すという。

 それはつまり、上司である彼が、わたしという戦力(コマ)を他部署にお披露目するということだ。

 これでは、ますます断りようがない。不参加では、わざわざ後盾になろうとしてくれている(つな)()課長の面目を潰してしまうではないか。そんな下手を打てば、今後の仕事に致命的な支障が出かねない。


「……。はい。それでは、お言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」


 わたしは観念して、小さく頭を下げた。

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