12.プロとして見る目
昨日の大雨が嘘だったかのように、雲一つない晴天だった。
手に現原くんのビニール傘を持って出勤する。ビルの風除室へ入ったところで、後ろから声をかけられた。
「おはよー、形桐」
名嘉城くんだった。外で煙草を吸ってきたばかりなのだろう。わずかな煙っぽさと、革製品のような冷たい匂いが鼻に届いた。
「あ、名嘉城くん。おはよー」
いつものように笑って見上げる。名嘉城くんは、わたしではなく、手に持った傘を見ていた。
「なんだ、そのダサい傘?」
「昨日、すごい大雨だったでしょ? それで現原くんが貸してくれたの」
「ふーん。あいつ、意外といいとこあるじゃん」
名嘉城くんは鼻で笑う。
借りた傘を傘立てに刺し、名嘉城くんと一緒にエレベーターに乗り込んだ。社員証を首にかけ、タイムカードを打刻する間も、彼は後ろからついてきた。
「外で吸ってたら、あんたが変な傘持って歩いてくるのが見えたからな。捕まえる手間が省けたぜ」
「あ、わたしに用があるの?」
「ああ。リブランディングの件でな」
彼の声を聞きながら、わたしはデスクに着いた。彼がわたしのデスクに紙束を置く。
リブランディングの初稿だった。わたしと相果主任で表現の落としどころを探っていたものだ。初稿が書き上がったので、まず相果主任に目を通してもらう予定だった。
だから、名嘉城くんが持っているはずはないのだが。
「あれ? それ初稿よね。なんで名嘉城くんが……」
「主任のデスクにあったから、勝手に持ってきた」
(ええ……ヤバ……)
わたしは思わず真顔になった。セキュリティ意識ゼロか。いや、この時代にそんな概念を求めるのが間違っているのか。上司の机から勝手に資料を抜き取ってくるなんて、なんという命知らず。
「こういうのは、主任みたいな優しいフィルター通すとややこしくなるからな。大目玉食らう前に止めてやろうってわざわざ来てやったんだ。感謝しろよ」
その瞳に宿る光が、いつもの同期のノリから、鋭利な仕事人のそれに切り替わる。
わたしは肩をすくめた。勝手に初稿を持ってきたことはどうかと思うが、商品開発部の中枢にいる人物に初稿を見てもらえるのは、願ってもないことだ。
「ま、こちらとしてはありがたいけどね?」
名嘉城くんはにやりと笑った。
「そうこなくちゃな。……で、これ主任はOK出したのかよ」
「まだよ」
「ならいい。この言い切りは、今の試験条件じゃ無理だ。数字の出典は?」
「昨日の会議でブランド側が提示したものね」
「あいつらは『煽れ』ってしか言わねえだろ。このままじゃただの嘘つきだぞ、形桐」
反論しようとして、言葉に詰まった。相果主任との時間は、あくまで窓口同士の調整にすぎない。だけど、中身を作っている側の名嘉城くんには、そんな妥協は通用しない。
どう言い返せば納得してもらえるか。データを引き直すべきか。
視線を逸らして思考を巡らせる。
「そう、ね……」
「俺を見て言えよ」
強引に、意識を引き戻された。
名嘉城くんの手が、デスクの天板に置かれる。
彼の射抜くような言葉で、顎に指をかけられたように顔を上げてしまう。顔が近い。
「同期すら説得できないなら、市場なんて動かせねえぞ。お前の言葉はその程度か?」
一瞬、言葉が出なかった。
(……なによ、その顔)
たかがゲームの、一枚絵が出るイベントのひとつだ。だが、目の前の彼は、肌のきめや息遣いがわかるほどの解像度で、わたしに本気のプライドを突きつけてくる。
やっと、腑に落ちる。
名嘉城くんはいつも飄々としているが、商品開発部のエースと呼ばれるくらい、プライドを持って仕事をしている人なのだ。
――わたしだって、そうだ。そうありたいと思う。
ゲームだと高を括ってどこか冷めていたわたしの頬を、生身の熱をもって叩かれた気がした。
「そうね。あなたの言う通り。……今のはすごくかっこよかったよ、名嘉城くん」
わたしは迷いなく、彼の瞳を真っ直ぐに見返した。
「必ず納得させてみせるから。名嘉城くんも逃げないでよね?」
不敵に笑ってみせる。名嘉城くんの視線がいったん唇に落ちて、それから目を細める。すぐにニヤリと笑ってみせると、わたしのデスクに載せていた手を引いた。
「期待して待っててやるよ。……それから、あの傘はさっさと返したほうがいいぜ。ダサすぎるからな」
「ふつうのビニール傘よ。ダサいもなにもないでしょ。それ、現原くんの前で絶対言わないでよね」
「約束はできねーな」
「なによ、それ?」
ふと、名嘉城くんの背後に人影が見えた。
相果主任だった。眉尻を下げて、「困ったねえ」とでも言うように苦笑いしていた。道行く人に撫でられたがる犬を制する飼い主みたいな顔だ。資料を名嘉城くんが持って行ってしまったことに気付いて、事の成り行きを静かに見守っていたらしい。
(ホラ、名嘉城くん! 主任めっちゃ困ってるよ!)
(ていうか、気づいてたんなら止めてくださいよ、主任! あなたの部下でしょうが!)
わたしが視線で訴えると、相果主任は微笑みながら名嘉城くんに話しかけた。
「名嘉城。そろそろ返してもらえますか?」
「あ、主任。資料ありがとうございましたー」
さも「筋を通してお借りしたものですよ」と言わんばかりに資料を差し出す名嘉城くんに、相果主任はますます苦笑した。
デスクに戻ってしばらくすると、現原くんが元気に出勤してきた。わたしはさっそく手を振って、彼を呼び止める。
「現原くん、おはよう! 昨日は傘ありがとね。助かったわ」
「全然っすよ! 風邪引きませんでした?」
「おかげさまでね。はい、これ」
わたしは小さな紙袋を現原くんのデスクに置いた。彼が小さく首をかしげる。
「なんすか、これ?」
「傘のお礼。現原くん、ずいぶん濡れちゃったでしょ?」
デパ地下で買った、日持ちのする焼き菓子の詰め合わせだ。
相手によってはクリーニング代を現金で渡すところだが、後輩相手にはどうも生々しい。「おれの善意を金で清算するんすか!?」と思われるのも避けたい。菓子折りくらいなら気兼ねなく受け取ってもらえるだろう、と思って選んだものだった。
「いやいや! そんなのいいのに! おれが勝手にやったことですから!」
現原くんは慌てて手を振ったが、わたしは「これすごくおいしいから! アレルギーとかなければぜひ食べてみて!」と論点をすり替えつつ押し切った。
貸し借りは、早めに清算するに限る。これで負債はゼロ。フラグのへし折りもそうだが、こういうのを残しておくともやもやする。タスクを一つ完了させたようなすっきりとした気分だった。
「なんか気ぃ使わせちゃってすみません。うまそう! めっちゃ嬉しいっす!!」
言いながら、現原くんの手は焼き菓子の袋を開けた。チョコチップをまぶしたロッククッキーを一口で頬張り、にこにこと笑う。喜びを隠しきれていない。
「あ、そうだ!」
焼き菓子の袋を覗き込んでいた現原くんが、ふと何かを思い出したように自分の引き出しを開けた。ガサゴソと漁り、小さな箱を取り出してくる。
「ちょうどよかった。これどうぞ!」
差し出されたのは、輸入物の少し高いチョコレートだった。
「この前、入稿前のデータチェックみんなで手伝ってくれたじゃないですか? そのお礼に買ってきたんすけど、形桐さんに渡すタイミング逃しちゃって」
「え? あれはわたしの業務の範囲だし、お礼なんて……」
反射的に断ろうとしたが、無下にするのは角が立つ。職場の人間関係を円滑にするための潤滑油だ。可愛らしい後輩の気遣いを、拒絶する理由なんてない。
(――ま、いいか。せっかくの好意だし)
「ありがと。後でいただくね」
「はい!」
気づけば、わたしはそのチョコレートの箱を受け取ってしまっていた。現原くんが無邪気な犬のように笑った。




